(8)
蔵岡駅から約200メートル弱にある、古い雑居ビルの三階には遠藤明の行きつけのショットバーがある。『バー・ブルーノ』という名前のこのショットバーを彼女はとても気に入っていた。ビルの側面に小さな看板があるだけのためか、この店の客は基本的に少なく、これは人嫌いの彼女にとっては非常に都合がよかった。そしてこの店の華美ではない落ち着いた環境も、彼女の好みに合っていた。
この日、遠藤明がバー・ブルーノに入店してから四〇分が経過したであろう時に、ビルの外から複数のサイレンの音が聞こえてきた。パトカー、救急車、消防車といった緊急車両のサイレンのようだ。音からいっても相当な台数の緊急車両が道路を走っているようである。
「何かあったのでしょうかね。」
白髪交じりの長い黒髪をポニーテールにしている、バー・ブルーノのバーテンダー且つオーナーが優しげな表情で、常連客である遠藤明に尋ねた。
「さあ、何でしょうかね。」
遠藤明はオーナーの質問にぶっきらぼうに答えた。しかし彼女には大体の予想はついていた。
(それにしてもまさか全員とはね。)
これだけは彼女でも予想できなかったのである。それでもこの結果に、彼女は大いに満足していた。
「フフ。」
オーナーから渡された今月のオリジナルカクテルが入ったグラスに口を付けながら、彼女は笑みを隠せなかった。
「すみません。ちょっとお手洗いに。」
ほろ酔い気分で楽しげな様子で遠藤明はオーナーに言った。
「私を怒らせるからだよ。」
洗面台で手を洗いながら、遠藤明は独り言を言った。ビルの外からはまた新たなサイレンの音が聞こえてきた。
「やっぱり、さっきのだけじゃ足りなかったか。」
遠藤明はもう笑みを隠すことが出来なくなってきていた。それ故、オーナーの前から移動したのである。
「それにしても、本当にやることが派手ね。」
彼女は手を洗うのを辞め、次に髪をいじろうと洗面台に設置された鏡を見た。
「は?」
ふと彼女の手が止まった。鏡を見たときの遠藤明は、まさに意表を突かれたというような表情だった。
「え、なんで。」
遠藤明は鏡を擦った。なぜそうしたかは本人にもわからなかった。当然である。彼女は何も考えられなくなっていたからである。
「いや、きっと酔っているんだ。」
酔いを覚まそうと、彼女は両手に水をためて自分の顔にかけた。二、三度それを繰り返した後、もう一度鏡を見た。しかし、彼女の目に映る結果は同じだった。先ほどまでの楽しいほろ酔い気分が嘘のように消えていった。
「ウッ。」
猛烈な吐き気が遠藤明を襲ったが、彼女はなんとか耐えた。次第に息も荒くなっていた。
彼女が洗面台の鏡を見てから15分ほど経過したであろう時に、ようやく彼女は部屋を出た。バーカウンターに戻った時、彼女の顔はまるで早朝の刑務官の足音に怯える死刑囚のように真っ青だった。




