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蔵岡市の南側にある新築の家々が連なる住宅街に足立司の自宅はあった。二階建てのコンテナハウス風の緑色の家だった。この家のデザインは彼ではなく、彼の妻の希望が反映されたものだった。
「じゃあ行ってくるね、お父さん!」
「おう。行ってら。車に気をつけるんだぞ。」
8月14日。
この日、足立司警部は非番だった。平日のため、彼は一人娘である愛子を学校に送り出すと今日一日をどうやって過ごすかと考えをめぐらせた。彼の妻である裕美は看護師なのだが、この日は早番のためもう既に出勤していた。それ故、今家には彼一人である。
「今日は久々に俺一人か。」
足立はそうつぶやいた。直後に彼の中には底知れぬワクワクとした高揚感が芽生え始めていた。足立司はいつも休日をシフト制で働く彼の妻と合わせていたので、この日はおよそ半年ぶりの一人だけの休日だったのである。彼がソファーに座り、テレビの電源を入れてみると丁度天気予報が流れていた。
「今日は曇り空で太陽はあまり出ないか・・・。最近暑い日ばかりであんまり外出する気も起きなかったし、久々に釣りにでも行ってみるか!平日なら人もあんまりいないだろうからな。」
半年ぶりの一人だけの休日。彼は趣味の釣りに出かけることにした。
蔵岡市の漁港は毎日閑散としている。しかし、海岸を歩いていると磯釣りをしている人や堤防から釣り糸を垂らしている人がたくさんいた。そして足立警部もこの中に混じっていた。
「隣の方、何か釣れましたか?」
一時間ほどであろうか、足立警部が釣りをしていたら、彼から五メートルほど離れた場所で釣りをしていた少し白髪が目立つ初老の男性が彼に声を掛けてきた。
「いやあ、なかなか苦戦していますよ。最初はイカ釣りをしようかと思ったのですが、今日は厳しそうなので、つい先ほどからサビキにしたんです。でも今のところ二匹の鯛の稚魚ぐらいしか成果はないですね。見た感じアジらしき魚も泳いでるんだけどなあ。」
「そうでしたか。曇り空とはいえイカは確かに厳しそうですなあ。でもここの堤防、ヒラメや少し大きめのヒガンフグも釣れるんですよ。最近ここからちょっと離れた漁業センターで始まったサービスなんですけれども、釣り場で釣ったフグを500円で捌いてくれるんですよ。だからまだまだ諦めちゃだめですよ!」
「へえ、そんなサービスがあるんですね。じゃあ今日は粘ってみようと思います。実は俺、今日が半年ぶりの釣りでして。結婚する前はしょっちゅう行ってたんですけどねえ。やっぱり何かと忙しくなっちゃって。」
「そうだったんですか。それなら今日は一日釣りに没頭するとしますか!お昼ご飯なんですが、さっき言った漁業センターのそばでやっている海産物レストランがあるので、ご一緒しませんか?このあたりの人達からは結構人気のレストランなんですよ。クラゲソフトクリームっていうものも売っていましてね。私は好きなんですけれども、ちょっと人によっては好みが分かれるんですよ。」
「ほう、クラゲがソフトクリームに?それはちょっと気になりますな。今日は一日一人っきりだし、ぜひご一緒しますよ。」
足立警部はその後、正午過ぎまで釣りを楽しみ、そして先の初老の男性と彼がおすすめした海産物レストランで昼食を供にし、クラゲソフトクリームもおそるおそる食べ、午前中にいた堤防に彼と一緒に戻るとまた釣りを再開した。
そしてそれから3時間ほど時が経過していた。足立警部の釣り用バケツはあじやいわし、鯛の稚魚、メジナなどの小魚で一杯になっていた。
「いやあ、すっかりバケツも満杯になってきましたな。ははっ。」
またあの初老の男性が笑いながら足立警部に話しかけてきた。
「今日は本当に楽しみましたよ!でもあのクラゲソフトクリーム!あれは忘れられない思い出になったなあ。クラゲを食べるなんて人生でもうこれっきりかもですよ。」
「もしかしてあまり気に入りませんでしたかな?」
「そういう訳ではないですよ。ちょっとびびったけど結構おいしかったですよ。でもクラゲを好き好んで食べる人なんてあんまりいないでしょう?試しにっていう人がほとんどだと思います。だから滅多に食べることは無いだろうって話です。」
「確かに、『さあ、クラゲでも食べよう!』とはあんまりならないですからなあ。おっしゃるとおりで。」
初老の男性も足立の発言に苦笑いしながら答えた。
「でも本当に今日は楽しかった。ヒラメが釣れなかったのが少し残念でしたけれども。」
足立警部はそう言って魚が一杯入った彼の生け簀用の黄色いバケツをのぞき込んだ。その中にはたくさんの魚が泳いでいたが、彼の目には一匹の小さなフグが映った。今日最後に彼が釣った魚だった。
「コイツは逃がしてやろうかな。こんなに小さいんじゃ捌いたとしても食べられるところなんてほとんど無いだろうし。」
足立警部はそう言うと、その小さなフグを手にとって堤防から海に投げいれた。フグはしばらく動かなかったが、すぐにはっと我に返ったように一目散に海底の岩場に向かって泳ぎだした。
「結構元気なやつでしたな。」
足立警部がそうつぶやくとあの初老の男性が言った。
「フグっていう魚は結構丈夫なんですよ。ペット用に買う人も『水槽になれてしまったら全然弱らない』とよく言っていますし。たぶん自分の中にあんな猛毒が入っているから大抵のことは大丈夫なんでしょうね。」
18時30分。
一台の乗用車が暗い山道を走っていた。シルバーのホンダシビック。蔵岡警察署所属足立司警部の愛車であった。
蔵岡市には市街地と海の間に丘陵地があった。足立警部の家は市街地にあるので、彼はこの山道を車で通っていた。他にも道はあるのだが、この道が彼の自宅への一番の近道なのである。この山道にある明かりは、車のライトかガードレールの反射板に映る車から出る光のみである。街灯なんてものはなく、通る車もほとんどない。
しかし足立警部はこの道が結構好きだった。騒がしい日常とは真逆の暗くて静かな世界。これは彼の心にいつも安らぎを与えていた。
「なんだ?ハザードか。」
山道を15分ほど走っていたら、路肩に一台のハイエースが停まっていた。色は黒でルーフバーが付いていた。そしてよく見たら一人の男性がそのハイエースの隣で道路に身を出して手を挙げていた。
「何かトラブルか?」
足立は自分の車を黒色のハイエースの後ろに付けた。
「呼び止めてしまってすみません。エンストかバッテリーが上がったか、何が原因なのかはよくわからないんですけれども、電話がかかってきて一事停止した後にエンジンをかけようとしたら急にかからなくなってしまいまして。ロードサービスとかに電話しようとしたんですけれども、携帯の電源が切れてしまったので、この道を通りがかる人に電話を貸していただけたらと思い手を振っていたんです。」
件のハイエースの持ち主はそう言うと、足立警部にお辞儀し、礼を述べた。
「そうだったんですか。じゃあ電話貸すのは大丈夫だけど、その前にちょっと見てもいいかい?バッテリーが上がっただけとかだったら俺の車のバッテリーで充電できるから。」
「ありがとうございます!本当に助かります。」
足立警部は車から降り、ハイエースの持ち主に運転席を見せて欲しいと促した。
「一回エンジン入れてみるな。あれ?キーが刺さっていないみたいなんだけど、もしかして抜いた?ちょっと貸してもらっていい?」
「ああ、うっかりしていました。私、車から降りるときに鍵を抜くのが癖になっていまして。今回もついつい抜いてしまっていました。鍵です、どうぞ。」
ハイエースの持ち主はポケットから一つの鍵を取り出すと足立警部に手渡した。
「ボタンをキーホルダー代わりにしているなんて変わっているな。」
渡された鍵には白色のボタンがキーリングで取り付けられていた。
「ああ、そのボタンは私の女神の衣の一つから拝借したものなんですよ。女神の持ち物を盗むなんてとんでもない背徳行為ですけれどもついつい我慢できなくなってしまいまして。でも車を使うたびに女神イナンナが触れていたそのアトリビュートを握る至福は、人が思う我が子の誕生の瞬間よりも勝るものだ。貴方もそう思いませんか。」
ハイエースの持ち主は急に豹変したように頬を赤らめて腕を身体に巻き付けて震え出した。その様子を見ていた足立警部はぎょっとしたように足を一歩引き、男から離れた。
「急になんだお前。気持ち悪いな。ちょっとあまり携帯は貸したくない。試しに車は一度見てやるからエンジンかけるぞ。」
早くこの場を去りたいという思いから、足立警部は運転席に入るとキーをさしてブレーキを踏み、車のエンジンを掛けた。すると『ぶおん。』という音を立ててハイエースのエンジンはすぐに付いた。
「なんだ、なんともないじゃないか。」
足立警部はそう言うとハイエースの持ち主は彼に近づき言った。
「ええ、車はなんともないですよ。問題は貴方だ、足立司。私のイナンナを苦しめるという大罪を犯した極悪人だ。」
「何?待て、どうしてお前、俺の名前知って・・・。」
足立警部が言い終わる前に彼は意識を既に失っていた。倒れる直前に足立警部が見たのは、重そうなものが入ったビニール袋を持ったあのハイエースの持ち主の歪んだいびつな笑みだった。
「今日一日尾行していたんだけれども一日中釣りをしていたからまいったよ。だんだん飽きが来てね。釣りが好きなら知っていると思うけれども、釣り人は岩場の穴の入り口や海藻が少し生い茂った隙間に糸を垂らすだろう?サビキとかでもさ。あれは魚の通り道で魚がくるのを待つっていう戦法だ。それに倣って私も咎人の通り道で咎人を待ってみたんだ。この道を通るかは賭けだったんだけどね。まあ、掛かってくれなくてもまたあんたを拉致するつもりだったんだ。でも掛かってくれてよかったよ。」
ハイエースの持ち主は横たわる足立警部に向かって楽しそうに笑いながらそう言った。




