前編
手紙を受け取った日から、祖母は孫のオデットがやってくるのを心待ちにしていた。
溺愛していた次女が家に帰ってくる、それだけでも嬉しいのに孫を連れて、しかもたっぷり二か月はこちらに滞在するつもりだというのだ。
祖母は喜びを爆発させ、可哀想な、愛しい娘と孫のためにあれもしてやろう、これもしてやろうと私たちに毎晩話し続けた。
愛しくない子供と孫たちを相手に朝から晩までその話ばかり続ける。
父は黙ってやり過ごし、兄とその妻はにこにこと相槌を打つ。祖母を怒らせると面倒なので、私も従順に、求められている言葉を返す。
祖母を怒らせるとろくなことがないと子供の頃から身に染みて分かっているからだ。
かっかとした気持ちが突然ぶわりと噴火すると、祖母はもう手が付けられなくなる。
相手の欠点を並べ立て、過去の失敗をほじくり返して責め立てるのだ。
相手が疲弊して、謝罪以外の言葉を口にしなくなって、ようやくあと半分というところである。
どんな昔の失敗も昨日のことのように祖母は言い、それを今の叱責に無理矢理結びつけるのであった。
父が三歳のときに池の魚に餌をやろうとして足を踏み外し、余所行きを台無しにしたことなど、私と兄は何度耳にしたことだろう。
お前はいつだって考えが足りない、あの時だってそうだ、あんなに上等の服を着せてやったのに池に身を乗り出すなんて、と祖母は恨みがましく繰り返す。
兄と私は生まれたことから間違いで、あんな女の子供というだけでぞっとする、とそこから始まるのであった。
私と兄は、母がどれだけ酷い、だらしない女だったかを祖母から幼いころから繰り返し聞かされていた。しかし、その母を迎えたのが祖母であることは大きくなるまで知らなかった。
私と兄が学校の長期休暇の際に伯母の家へ泊まりに行ったときに、伯母がぽろっと口を滑らせたのである。
私たち兄妹にとって、伯母の家に遊びにいくことは貴重な楽しみだった。
子供のいない伯母夫婦は、私たちが来ると喜んで相手をしてくれる。
絵本を読み聞かせてくれたり、一緒に料理をしたり、庭で土いじりを楽しんだりといった時間は、父でなく伯母夫婦が与えてくれたのだった。
食事もおやつもきちんと公平に出してくれるし、出かける際にわざとどちらか一方を置いていくようなことはしない。
私たちは伯母の家では気兼ねなく遊び、喧嘩することが出来た。
祖母は毎回あまり良い顔をしなかったが、兄が根気よく頼むので、結局いつも渋々許可を出すのであった。
ある時、夕食後に皆で苺を食べていた時に伯母がしみじみ言ったことがある。
「トーリィはお母さんに似てきたわね。ジョージアナに見せてあげたいわ」
普段、母の名を出すのは禁忌に近かった。
祖母も父も、伯母たちも普段は母に名前などないかのように振る舞っていたのである。
当然その場に祖母はいなかったけれど、言った瞬間に伯母の顔はさあっと青くなって、無理矢理別の話題に乗り換えようとした。
伯父もわざとらしい咳払いをしたあとに、兄に好きな授業は何かともう何度も聞いていることをしつこく問い質した。
聞いてはいけない、そんな雰囲気にのまれそうになったが、私と兄は母について詳しく聞かせて欲しいとしつこくせがんだ。
毎日毎日それとなく聞き出そうともするので根負けしたのかうんざりしたのか、口外しないという約束をしたうえで少しだけ話してくれた。
父は祖母に勧められるままに見合いして結婚したが、進歩的な女学校を出た母と、封建的で癇癪持ちの姑とは折り合いが悪く、私と兄を置いて出ていってしまったのだという。
「どうしてそんな人を選んだのさ。自分に大人しく仕える従順な嫁じゃなくて」
「貴方たちのお父様が大人しかったからでしょうよ。あの子ったら、その日の靴やネクタイを選ぶのでも延々悩み続けるんだから。そんな人にはちゃきちゃきした相手の方が良いと考えたのでしょうし、そんな相手でも自分が抑え込めると過信していたのでしょうね。あの魔女は」
伯母と祖母もまた相性が良くない、だから平気で陰では悪く言うし、私たちも伯母の前では安心できた。
伯母は自分と妹を比較しては悪く言う母を嫌って、うんと遠くへ嫁いだ。
私たちのことは何かと気をかけて、困ったことがあればすぐに手紙を寄こすようにと言ってくれているし、こうして長期休暇の時に私たちを泊まらせてくれることもあったが、祖母と顔を合わすのは出来るだけ避けている。
「私は彼女のこと嫌いじゃなかった。なんでもよく知っているし、しゃきしゃきと物を言う子でね。ああ、でも相手を打ち負かそうと息巻いているような子ではなかったわ。ただ自分に正直だった分、お愛想で世間を渡っていく狡猾さに欠けていたのよ」
「父さんは一緒に逃げてくれなかったのかな」
兄が悲しそうに呟いた。父があの家から逃げられるはずはないと分かっていても、口に出さずにはいられない兄が不憫に見えたのか、伯母は私たちを抱き寄せ囁いた。
「結果だけを見て不幸になるのは違うわ。セラフもジョージアナも貴方たちを守ろうと抵抗したのよ、でも上手くいかなかった。愛情は確かにあったのよ、それは忘れないで」
伯母はそう言ってくれたが、結果しか知らない私たちは幸福とは言えなかった。
父は何も話してくれないし、母も、母の親族も私たちに手紙一つ寄越したことがない。悲しかった。
「再婚したという噂は聞いたことがあるけれど、あくまでも噂だし、ご実家も引っ越してしまわれたから確かめようもない。何度か伝手を探って連絡を取ろうともしたけれど……私が知っているのはここまでよ」
伯母は私たちがもう子供ではないから、少しは知っておく権利があるのだと判断して話したのだと付け加えた。
でも、その時に兄はまだ十七歳、私は十四歳だったので、伯母の気持ちを汲み取ってやれるほど大人ではなかった。
私たちは愛情に飢えていたし、また今も満たされているとは言い難い。
父は私たちにほとんど関心はなく、祖母からは何かにつけてあの女の血が流れているからと責められる。
それでも、兄は跡取りということで私よりは大事にされていた。服も部屋も食べるものも、いつも私よりは上等のものを与えられていた。
祖母は兄には五歳の頃から家庭教師も付けていたし、勉強の為に必要だからと日当たりの良い広い部屋をあてがわれていた。寄宿制の中等学校に入ることも、大学へ進学するときにひとり暮らしをすることも許した。
但し、卒業したらこの家に帰ってきて、自分の選んだ女と結婚する、という条件付きだったが。
私に与えられたのは狭苦しいじめじめとした部屋で、服は誰かのお下がりが殆どだった。
何処かに出かける時の一張羅でさえ、兄のものは仕立て屋に頼むのに対して、私は近くの店のぶら下がり、それも一番安いものを渋々買い与える。
そして家に帰った後に、感謝の言葉をたっぷり三時間は述べさせるのであった。
家庭教師もお前には贅沢だと拒絶され、女学校へ進むことについても祖母は良い顔をしなかった。
兄は自分と私の扱いの差について、祖母に何度も抗議してくれていた。服や部屋はどうにもならなかったが、教育に関しては兄の懇願が効いたらしい。
「マーシャも僕と同じくらい勉強は大事でしょう。マーシャは女の子だから、いずれこの家を出ます。その時に何にも知らないんじゃ、恥をかくのは本人だけじゃありませんよ」
そうしてどうにか女学校には行かせて貰ったが、寄宿舎に入るとお前は悪い友達と付き合いそうだから、と言われて認めてもらえず、毎日徒歩で一時間かけて通わされた。
勿論、学校に行かせて貰ったのは感謝しているし、通学時間が長いことくらいで文句を言ってはいけないことも分かっている。
それでも兄は良くて、私は駄目という祖母の方針には、どうしても不満が出てしまう。
「女の子なんて、よっぽど頭が良いか、気配りの出来る子か、器量が良くなくちゃ役に立たないじゃないか」
何一つ持ち合わせていない私に、祖母は落胆し、何かときつく当たるのであった。
そんな祖母がとうとう理想の孫と暮らすことが出来るようになったのだから、喜びもひとしおである。
兄の運転する車から降りてきたオデットは、榛色の髪をした、背の高い女性だった。
背筋をぴんと伸ばして、素晴らしく大きな青い瞳で私と兄嫁を品定めするようにじろじろと眺めまわした。
私は思わず目を伏せる。
美しい人にじっと見つめられると、なんとなく気後れしてしまう。
「オデット、よく来たね」
祖母は愛しい孫娘に飛びついて、若い頃のレオパネラにそっくりだ、と言ってオデットをちやほやする。
「お祖母さま、お久しぶりね」
オデットもにっこり笑って祖母の抱擁を受け止める。祖母は嬉しそうに何度も何度も彼女の額に口付けし、自ら部屋まで案内すると申し出た。
その日からだった、我が家がオデットを中心に回り始めたのは。
朝が遅いオデットの為に、仕事に出かける父と兄以外は今までより朝食の時間は二時間遅くなり、私と兄嫁は空腹を抱えたまま床を磨いたり家中の窓を拭いて回ったりする羽目になった。
我が家は有難いことに経済的に困窮してはいないが、何人もの使用人を置く余裕があるわけでもないので、家事の大半は私と兄嫁でこなしている。
それについて不満はないし、卒業して実家に厄介になっている私が家の仕事をするのは当然のことだと思っている。
しかし私たちが洗濯や掃除に追われている間に祖母とオデットが遊び歩いて浪費を重ねるのは我慢ならない。
祖母は好きな物は何でも買ってやると言ってオデットを毎日百貨店まで連れ出し、二人で山のような買い物をしたあとに食事かお茶をして帰ってくる。
美しい彼女もまた、祖母の期待と愛情に応えて女王様のように振る舞う。
気の弱い兄夫婦は彼女と祖母のご機嫌取りに必死だ。兄の給金がオデットの服や靴や髪飾りに消えているというのに。
本来ならば、兄も妻の為に物申すべきであるのに、ぺこぺこ頭を下げてオデットの言いなりになっている。
兄嫁の方はというと、まるで下女のように扱われている。部屋を掃除しておけ、帽子を持ってこい、何か軽くつまめるものを持ってこいと彼女は兄嫁に当然のように言いつける。
それくらい自分で出来るだろうに。
私は見るに見かねて抗議しようとしたが兄嫁に止められてしまった。
その時、私は突然ぽつねんと孤独に放り込まれたような気がした。
兄夫婦の立場を考えれば波風を立てたくないという気持ちは理解できるが、突き放されてしまったようで寂しくなった。
彼女に額突けば、下僕として輪の中に入れてもらえるとは分かっていたけれど、僅かながらに残っている自尊心がそれを拒んだ。
その結果、普段近付かないようにときつく言い付けられている場所に自然に足が向いた。
婚約者の、ルドルカがいるアパートだ。