関係者召喚(2)
「――事情をご説明してよろしゅうございましょうか、陛下」
「……許す」
公爵は固まったままのトーリスを無視し、国王に奏上する。いまだに衝撃を受けたままだったらしい国王も、わずかに瞑目してから重々しく頷いた。その仕草に公爵も小さく顎を引き、優しい視線を一瞬アデレーナに向けてから、ルークをじろりと睨みつけた。
「昨日、学園の卒業パーティーから娘がエスコートもなしに帰宅いたしました。娘はひどく憔悴しており、また錯乱しておりました。そして降車を手伝おうと馬車の扉を開けた御者を見て、悲鳴を上げたのです。娘は男性に対し、とてつもない恐怖を感じていたようなのです。使用人はおろか、私にすら怯えていた。妻や侍女たちが宥めても、悲鳴を上げて泣きじゃくるばかり。手首には痣が残り、両頬も腫れており、パーティーで何事かがあったのは明確でした」
刺すような視線に、ルークの心臓が縮み上がる。それ以上に、公爵の言葉がずたずたに心を傷つけていった。確かに自分は、自分たちはアデレーナを断罪した。マーカスは両手首を押さえつけたし、トーリスは彼女の両頬を平手で撲った。だがそれは、正義感からの行動だった。昨夜の自分たちは、確かに正義だったはずなのだ。なのにどうして。どうしてこんなことになっている。
「成人男性を見て泣き喚く娘を、今日このような場に連れていくわけにはいかない。ですが王宮よりの招集状には『アデレーナは引きずってでも連れてくるように』と殿下の御達しがございました。なので昨夜、私はそこの男に『殿下をご説得してアデレーナの招集は免除していただくように』と申し伝えましたが、今朝ぎりぎりまで待ってみても王宮からの便りはございませんでした。十年間我が息子として育ててきたはずでしたが、そこの男には我が家への恩義も、姉として育ったアデレーナへの情も、何もなかったようですな」
ふん、と鼻で笑われ、思わず言い訳を口にしようかと腰を浮かせかけ、ルークは言葉もなく再び椅子に体を落とした。何と言い訳しても結果は変わらない。自分は最終的に、父であった公爵の言葉ではなく、トーリスの言葉を採用した。アデレーナを家に残らせる判断ではなく、リサの心を明るくさせるためアデレーナを呼びつけることを選んだ。育ててくれた恩よりも、聖女を取ったのだと言われても文句は言えない。
「とはいえ、娘は今朝になるとすっかり落ち着いているようでした。私や男性の使用人を見ても泣き叫ばなくなった。その代わり、ご覧のように言動がまるで子供になってしまったのです。娘に聞けば、自分は五歳なのだという。第一王子の婚約者に決まるより一年も前、義理の弟の存在もない。何も知らず、何も傷つけられず、無垢であった子供へと心が戻ってしまったようなのです」
「そ、んな……そんなことが……」
「お疑いならどうぞお確かめを、宰相殿」
「いや、今しがたの、今のアデレーナ嬢を見て疑うわけではないが……」
思わずといった様子で呻いた宰相に、公爵は感情のない目でひたりと視線を定めた。力なく首を振る宰相の隣のリヒャルドとマーカス、そしてトーリスはせわしなく視線を交わしあっている。唯一ルークは、アデレーナから視線を外せないでいた。アデレーナは、見ず知らずの人間ばかりが集まる室内を控えめに見回して、人見知りするような、けれどどこか興味津々な表情を浮かべている。ルークを視界に入れても、何の感慨もなく視線を流してしまう。
今のアデレーナの頭の中に、ルークは存在しない。十年間も姉として自分に接してくれたアデレーナは、もう自分の姉ではなくなってしまった。
昨夜はあんなに疎ましく感じ、姉とも思いたくないと考えていたのに。いざアデレーナがルークという弟の存在を、己の中から消してしまったのだと聞くと、とてつもない喪失感に襲われる。自分から突き放した姉だったはずなのに、一方的に存在を否定されることが身を切る思いをさせられるとは知らなかった。
そして、気づく。自分は、自分たちは確かに、そんな思いを昨夜のアデレーナに強いてしまったのだと。
「五歳だと……その割にはカーテシーは大人そのものではないか。親子揃って王族を謀る気か」
「お言葉ですが、殿下。我が娘は五歳当時既にカーテシーや立ち振る舞いは完璧に習得しておりました。殿下と初めて顔を合わせたのは六歳でしたが、覚えがありませんか」
鋭く指摘したトーリスの言葉にも、公爵は不敬なほどにきつく睨みつけながら反論した。ぐ、とトーリスが歯噛みしたところを見るに、六歳当時でもアデレーナの立ち振る舞いは大人顔負けだったのだろう。視界の端でリサがますます肩身を狭そうにしている。生まれついての貴族令嬢であるアデレーナと比べることはない、と慰めてやりたいが、ルークにそれが許される場ではなかった。
「男性を見て泣き叫ぶとて、五歳の子供の精神に戻ってしまったとて、娘はもう貴族令嬢としては終わりです。屋敷から出なければ病で通せたかもしれませんが、もう王宮にまで来てしまった。娘の醜聞はすぐに広がるでしょう。だから連れて来たくはなかったのだが……」
公爵はトーリスを真っすぐ睨み据えたまま、わずかに言葉を切る。冷え切った目は深淵を覗き込むかのようで、トーリスがじりっと一歩圧されたのがわかった。
「……ご命令には逆らいません。私も娘も、この国の貴族であるからには」
「っ、き、貴様の娘が聖女を苛めなければこんなことには……!」
「――やめよ、トーリス」
瞬間的に声を荒げかけたトーリスの言葉を、威厳のある声が遮った。その場の全員がそちらに視線を向ける。上座に座っていた国王と王妃が揃って立ち上がり、入り口付近、公爵家の三人とトーリスがいる方へと歩み寄っていく。トーリスが悔しげに頭を下げ、公爵夫妻が揃って礼を取る中、アデレーナだけがぱっと表情を明るくする。
「へーかおじさま! ごきげんよう!」
国王陛下へのとんでもない声のかけ方に、ルークだけでなくトーリスたちまで顔を青ざめさせる。リサや大司教までが唖然としていた。だが宰相も騎士団長も平然とした表情だし、公爵夫妻も微笑ましそうにアデレーナを見ている。何より国王自身が、平素の威厳の代わりに優しい笑みでアデレーナに頷いてみせた。
「ああこんにちは、アデレーナ。君は、何歳になったのだったかな」
「五歳です、へーかおじさま!」
元気よく返事したアデレーナに、国王は子供に接する笑顔で何度も頷いた。それから背後を振り返り、王妃を隣に呼び寄せる。
「アディ、今日は王妃を紹介しよう。まだ会ったことはなかっただろう?」
「おうひさま……へーかおじさま、おうひさまはおばさまでしょう? おばさまではないおうひさまなの?」
混乱した様子でアデレーナが首を傾げる。平然とその口から飛び出した言葉は、現在の王家ではほぼ禁句になった言葉だ。
この国には、王妃と呼ばれる人物が二人いる。一人目はトーリスの母であり、マリエラ・ロートギルト公爵夫人の従姉である、否、あった女性。国民の誰からも慕われた王妃殿下であったが、今から五年前に流行り病で儚くなってしまった。国王は深く悲しんだが、王国において国母が不在の状態は国政に差し障る。そこで国王に輿入れをしたのが、現在の王妃である。つまり、アデレーナが五歳であった当時は、一人目の王妃が存命だったころなのだ。
前王妃は非常に優秀な人物で、王とも互いに信頼しあい、愛し合っていた。だからこそ現在、前王妃の話題を口にする人間はいない。まして現王妃の前では。ルークたちが言葉を失い、トーリスが憤慨した様子で一歩前に出かけるが、国王がそれを制した。
「アディのおば様は、お体が悪くてお休みになってしまったんだよ」
「初めまして、アデレーナ。貴方のおば様ではないのだけれど、わたくしとも仲良くしてくれるかしら?」
「もちろんです、ええと……おうひおばさま?」
「うふふ、よろしくね、アディ」
前王妃が亡くなったことを婉曲にぼかし、国王夫妻がアデレーナに挨拶する。疑いもなく笑顔を見せたアデレーナは、王妃に手を取られて嬉しそうに頷いている。普段のアデレーナであればそんな不敬な態度は取らないし、国王にも現王妃にも気を遣って前王妃の話題は一切出さなかった。そう考えれば、彼女の精神が幼児退行してしまったというのはあながち間違いではないのかもしれない。
「さ、それじゃアディはあちらのお部屋で、お母様と一緒にお菓子を食べて待っていてちょうだいね。アディは何のお菓子がお好き?」
「えへへ、えっと、フルーツのパイが好きです!」
「な、っ……お、お待ちください妃殿下! その女も会議に……」
「トーリス。今の彼女が本当に会議に参加して、意味があると思っているのか?」
王妃がアデレーナと公爵夫人を隣室に案内しようとする。トーリスが声をかけてそれを阻みかけたが、国王は呆れた口調でそれを制した。ぐ、とトーリスが言葉に詰まる。確かに今のアデレーナは、学園での記憶どころかトーリスのことも、ルークのこともすっかり忘れてしまっている。というより、彼らと出会うよりも前に記憶が戻ってしまっている。ならば話を聞いても無駄であるし、何を言い聞かせたところで理解できないだろう。
急に声をかけてきたトーリスを、アデレーナは驚いたような、それでいて不審そうな目で見ている。そこには王太子に対する敬意も、己の婚約者に対する親愛や誠意も見受けられない。道を歩いていたら、急に見ず知らずの男に話しかけられた、その程度の感慨だ。ああやはり、彼女の中からトーリスは完全に消えてしまったのか。ルークの心を去来する喪失感は耐え難いほど大きい。
「貴方、お二人を案内して。お菓子に、ご本なども持ってきて差し上げて」
「かしこまりました。奥様、お嬢様、どうぞこちらに」
王妃が侍女に指示を出し、侍女が心得たように公爵夫人とアデレーナを誘導して退室する。ぱたん、と会議室の扉が閉められ、後に残されたのは不気味に気まずい沈黙だ。ひとつ溜息をつき、王と王妃が自席へと戻っていく。公爵も示された椅子へと座り、真っすぐにトーリスを睨みつけた。対するトーリスも、もちろんルークも、出鼻をくじかれて言葉を失ってしまっていた。