ワーゲル伯爵家
「まさかこんな形でお前と再会することになるとはな」
ロートギルト家のそれよりは一回り手狭な、それでも品よく整えられた応接室の中、ルークの正面に座った男は深く溜息をついた。彼はデニス・ワーゲル伯爵、ルークの実の父親である。
十年前、この家からロートギルト公爵家へと養子に出されたルークは、これまで一度もワーゲル伯爵家へと帰ったことはなかった。あの日からルークにとって、実家とはロートギルト公爵家だったのだ。最初のうちは郷愁にかられたこともあったが、ロートギルト公爵夫妻も、義理の姉であるアデレーナも、ルークに不自由な思いをさせることも、疎外感を与えることもなかった。だからこそ、今ではこの家に対して懐かしさなどは覚えないし、目の前の男を父だと認識することもできない。元々ルークは母親似で、顔立ちも似ていないせいでなおさらである。
「ダニエルからはお前を勘当する旨の連絡が来たわ。ルーク、お前は一体何をしたの」
実父の隣に腰掛け、厳格な表情でこちらを見据えるのはレイア・ワーゲル伯爵夫人、ルークの実の母である。ルークによく似た面差しには、戸惑いの色が強い。それでも貴族らしく冷静な判断を下そうとしているのか、ルークの顔色を探るようにじっとこちらを見つめてくる。
ロートギルト公爵夫妻には一切聞き入れてもらえなかった事情も、実の父母であればちゃんと聞き遂げてくれるのでは。先ほどまでの絶望に似た虚無感からわずかに浮上したルークは、冷静さと真摯な態度を心がけて口を開いた。
「……お二人も、今代の教会が奇跡を成し遂げたのはご存知でしょう。聖女リサは私たちと同じ学園に通っていました。その中で、アデレーナは貴族令嬢にあるまじき卑劣さでリサを貶め、苛め、なぶり、池に突き落としもしたのです。淑女とも言えない態度に私だけでなくトーリス殿下もお怒りになり、卒業パーティーの場において彼女を断罪し、婚約破棄を申し渡されました」
ルークが訥々と告げた言葉に、ワーゲル伯爵夫妻は揃って耳を傾け、ルークが言葉を切るとまた同時に溜息をついた。その表情には深い落胆の色がある。先ほどまでとは違って無暗に怒鳴りつけられなかったことで、ルークの気分は急速に浮上した。ああ、よかった。やはり血の繋がりは深い。実の両親はちゃんとルークの言葉を理解してくれた。自分をわかってくれたのだと安堵し、更に身を乗り出し、
「お前は、公爵家で一体何を学んできたのだ」
実父のあまりに落胆に染まった声に、一気に気分が急降下した。今自分は何を言われた。どうして実父はそんな風に、こちらを責める口振りなんだ。どうして実母は、出来の悪い子供を見る目で自分を見ているんだ。
「まさかとは思ったが、これではダニエルに合わせる顔がない」
「ですが謝罪もなしに済ませることはできませんわ。せめて慰謝料で折り合ってくれればいいのだけれど」
「ああ、そうだな。公爵家と、それからアデレーナ嬢個人に対しても謝罪を……」
「ま、待ってください! どうして謝罪など……!」
自分を置いて進む両親の話に、思わずルークは止めに入った。実の両親が揃ってこちらに視線を向ける。その目の冷たさに、思わずルークは怯んでしまった。
両親は素早く視線を交わし、同時に肩を落とす。咎める視線はそのままに、実父は重々しくルークを睥睨した。
「お前、王国法は学ばなかったのか」
「な、何の関係が……」
「学ばなかったのか、と聞いている」
「……学びました」
自分の話を聞いてもらえない悔しさに歯噛みしつつ、ルークは挑むように実父を睨みつけた。この王国は立憲君主制だ。国王とて法律に縛られるこの国において、貴族は王国法を必須科目として学ぶ。ルークはロートギルト公爵家の家庭教師からも、学園の授業でも王国法を修めている。
「王国法の貴族法において、貴族籍を持つ者を罪に問えるのはいかなる場合か」
「……王族を侮辱したとき、国家に仇なす企てをしたとき、王族ないし貴族籍を持つ人間の生命もしくは身体もしくは健康を脅かしたとき、国の定めに従わぬ領地税を課したとき、国の危機に際して助力をしなかったとき、国を著しく混乱に陥れたとき、です」
王国法の中でも貴族法とは、名の通り特に貴族に対して課される法律である。詳細はもっと多くあるが、概要は今ルークが言った六つに大別される。
「そうだ。その中で、貴族が平民を学園内で苛めたとして、どの罪に問われるというのだ」
冷静な口振りの実父の言葉に、頭から冷水を浴びせられた気分だった。トーリスは「断罪」と呼んだが、確かに明確に罪には問えない。アデレーナを裁く法律は、この国には存在しないのだ。
「で、ですが、貴族を支えるのもまた平民でしょう? そんな平民を平気で虐げて喜んでいる人間など、淑女とは呼べません」
「何故です。アデレーナ嬢は平民を『貶め、苛め、なぶり、池に突き落とした』のでしょう? 殺したわけでもなし。その程度、別に問題になるほどではないわ。ルーク、お前は学ばなかったのではなく、ただの世間知らずなのね」
思わず反駁したルークに、今度は呆れかえった口調で実母が素っ気なく言い捨てる。世間知らずと言い切られ、羞恥にかっと頬が熱くなった。
「……っ、しかし、彼女は聖女です! 特別な存在なのです! それに、聖女の元居た世界では人類は平等なのだそうです。それは素晴らしい思想です。老いも若きも貴賤も関係なく、人間は等しく尊重されるべきなのです!」
頭に血が上り、ルークは勢い込んで食って掛かった。と、それまで落胆に沈んでいた両親がいきなり目を剥いた。ルークに向かって身を乗り出してくる。
「平等だと? 人類が? 誰しもが平等だと、そう聖女が言ったのか?」
「そ、そうです。誰もが基本的人権というものを持ち、誰もがその人権を尊重されるのです」
「それをお前は、素晴らしい思想だと考えていると?」
「ええ、その通りです。私だけではなく、トーリス殿下も、リヒャルドにマーカスもリサの持つ先見の明に感動したのです」
ルークの発言に、みるみるうちに両親の顔が青ざめた。と、勢いよく立ち上がった実父が壊れんばかりの勢いで使用人を呼ぶベルを鳴らす。
「おい誰か、早馬でロートギルト公爵家に使いを出してくれ! それと馬車の用意を! 急ぎ公爵家に行く!」
「あなた、わたくしは明日の朝一番に、貴族院に参りますわね」
「うむ、頼んだ」
「え、あの……父上、母上……?」
突然慌ただしく動き出した実の両親に、呆然とルークが声をかける。実父はつんのめる勢いでソファを立ち、無理やりルークをソファから立たせる。
「お前も来い。これからロートギルト公爵家に行く」
「か、勘当の取り消しは難しいのでは……?」
分家とはいえ相手は公爵家、向こうから切られた縁をこちらから繋げてもらうのは難しいのが世の常だ。恐る恐る尋ねたルークに、両親は顔を見合わせ、盛大に顔をしかめた。
「何を勘違いしてる、謝罪に行くに決まってるだろう」
「それに、お前が言ったんじゃないの、殿下は婚約破棄を宣言したと。なら公爵家の後継ぎはアデレーナ様になるでしょう。どちらにせよお前は公爵家には戻れませんよ」
実母の冷静な言葉に、ハッと状況を察する。そうだ、公爵家の跡取りとして養子にとられたのは、アデレーナが王家に嫁ぐからだ。彼女が家に残るなら、彼女が婿養子を取って跡を継ぐのが順当だ。
目の前が歪んでいく錯覚に陥る。トーリスは『この女をロートギルト家から排斥してやる』と言った。だが現状アデレーナは公爵夫妻に庇護され、ルークが勘当されて実家に戻ってきている。この実家には実の兄が二人いるから、自分が家督を継ぐこともない。となれば、自分はこれから一体どうなるのだろう。つい数時間前までの幸福感は、もう思い出せないほどに薄れている。目眩がする。悪寒がする。未来に暗雲が立ち込めていくのを感じる。
「とにかく来い、早くダニエルと話をつけなければ」
こうして実父に急き立たされ、ルークは馬車に押し込められた。一度ひとりで来た道を、今度は実の父と共に。一晩の間に、ルークは同じ道筋を再度とんぼ返りすることとなったのだ。