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ロートギルト公爵家(2)


 思考はまだ混乱の極みにあったが、体は普段の習慣をなぞる。ふらふらした足取りでルークが自室の方へと向かうと、廊下の先で誰かが押し殺した声で囁きあうのが聞こえた。視線を向ければ、見慣れた顔。ルークは思わず大きく一歩を踏み出す。


「は、母上……!」


 廊下の静寂を破ったルークの声に、侍女たちと何事かを話し合っていた母、マリエラ・ロートギルト公爵夫人がハッと顔を上げた。勢いよくこちらを振り向くなり、表情を歪めて足早に歩み寄ってくる。その表情に痛ましいものを読み取って、ルークは内心で安堵した。母は恐らく父の怒りに触れ、息子を気遣ってくれているに違いない。母は優しい人だ。話せばきっと、ルークの味方になってくれる。そんな期待を込めてルークからも母に近づく。


「母上、聞いてくださ……」

「この恩知らず! お前など紳士の風上にも置けないわ!」


 呼びかけた声を遮っての、開口一番の母の言葉にルークは思わず足を止めた。ショックにまじまじと母の顔を見れば、父と同じように、否それ以上の燃え滾る怒りを内包した表情でルークを睨みつけている。母はアデレーナよりも小柄だが、今は全身から燃え上がる怒りのせいで気圧されて余りある威圧感を放っていた。


「お前、アデレーナをあんな状態で馬車に押し込めたそうね……! 御者が言っていたわ、『さっさとこの女を連れて家に帰れ、と言われた』と! よくもそんな口が利けたものですね! お前はあの子に何の恨みがあるの! 姉弟として育ったあの子に、どうしてこんな仕打ちができるの!」


 母の絶叫が廊下に響き渡る。侍女たちが委縮して廊下の隅で小さくなっている。そんな状況に気を配る暇もないほど、ルークは再びショックに打ちのめされていた。

 父の冷徹で凍てつく態度と違い、母の声も表情もあまりに感情的だ。貴族のマナーを重視し、家の中でも穏やかな態度と表情を崩さない母の、この狂乱ぶりは見たことがない。父に次いで母も怒り狂っていることを知り、ルークの胸にじわじわと嫌な気配が広がっていく。だが、こうなった状況は説明せねば。そうすればあるいは母も態度を改めてくれるかもしれない、と一縷の望みに縋ってルークは一歩を踏み出す。


「は、母上、どうか聞いてください。アデレーナは聖女リサに対して、非道な、悪辣な苛めを繰り返していたのです。結果、トーリス殿下はアデレーナに対して婚約破棄を申し渡しました。アデレーナは淑女失格、ロートギルト家にふさわしい女ではないのです!」


 一息に言い切って、言葉を切る。どうか伝わってくれ、と母の顔を窺い見れば、母は蒼白になっていた。普段は年齢よりも若く見える顔も、五年ほど急に老け込んだように見える。と、次の瞬間に母の両目が厳しく吊り上がった。


「な……何が淑女失格ですか! アデレーナが淑女失格なら、お前は貴族どころか犬にも劣る下郎です!」


 そして飛び出した苛烈な罵倒に、思わず面食らってルークはのけぞった。腹は立たなかった。ただひたすら、自分の耳が信じられなかった。

 アデレーナの悪行は、ロートギルト公爵家の娘として到底ふさわしいものではない、とルークは以前からずっと腹を立てていた。その悪行を明るみにし、必ず断罪せねばならないと思っていた。そして、その機会は無事に訪れ、アデレーナの罪が衆目にさらされた。となれば父も母も必ずや我が娘の不品行を恥じてくれるものと思っていたのに、母は自分を詰るばかりで娘の悪事を嘆く様子もない。


「お前はロートギルト家を何だと思っているの! 王国筆頭公爵家、貴族の中の貴族です! それを、たかが平民と同等のように語って……! 恥を知りなさい!」

「で、ですから相手は平民ではなく聖女だと……教会の後ろ盾を持つ異界渡りの奇跡の少女です! ご存じないのですか!?」

「知っているに決まっているでしょう! お前こそ平民の定義を知らないのですか! 貴族籍を持たない人間は皆平民です!」


 つられて声を荒げてしまうルークに、母は輪をかけて怒鳴り返す。この国における当たり前の常識を投げつけられ、ルークは思わず言葉に詰まった。確かに貴族と平民の定義を明確にするなら、貴族籍に名を置くか否かである。


「し、しかしリサは聖女で、特別な存在です……!」

「だから何だと言うのですか。聖女なら高位貴族令嬢をないがしろにしていいというのですか!?」

「違います! ないがしろにしてきたのはアデレーナの方です!」

「ああそうね、あの子をないがしろにしたのはお前や殿下ですものね! あんな状態の公爵令嬢をエスコートもなしに帰らせるなんて!」


 話が進まない。母とのやり取りに、ルークは心底困り果てていた。どうあっても母はアデレーナの罪を受け入れてくれそうにない。母はこんなに聞き分けのない人間だっただろうか。この公爵家の女主人として、理知的に、知性的に、采配を振るっていた姿しか知らなかったのに。

 と、廊下の先から侍女が小走りに近づいてきた。憤怒の表情を見せる母にそっと歩み寄り、その耳に何かを囁いた。耳打ちを聞いた母がさっと顔色を変えて振り返る、その視線の先。そこにあるのがアデレーナの自室であると気づいた瞬間、ルークは思わず廊下を走り出していた。


「待ちなさい!」


 母の制止も振り切って、アデレーナの自室のドアに飛びつき、勢いよくその扉を開ける。家族とはいえ婚前の淑女の部屋のドアを許可なく開けるなど、褒められた行為ではない。だが、今のルークにそこまで考える余裕はなかった。それに、相手は先ほど無残に断罪された咎人だという意識もあった。

 ノックもなしに勢いよく扉を開き、室内に一歩を踏みしめる。


「アデレーナ! 母上に何を言ったんだ、この卑劣な……」

「ひ、ぃ……キャァ――――――――ッッ!!」


 女め、と続けようとした言葉は、絹を裂くような大絶叫にかき消された。思わず両耳を手でふさぎ、改めて室内に視線を向ければ、照明が砕けて闇に包まれた部屋の中央で床に直接座り込んだ人影がひとつ。ドレスがしわになるのも構わず細身の長身を折り曲げ、美しい金髪をぼさぼさに乱れさせたアデレーナが、両目を零れ落ちそうなほど見開かせてこちらを見ていた。深い青の瞳には、この世の恐ろしいもの全てを見たかのような恐怖がありありと浮かんでいる。細い指で髪をぐしゃぐしゃにかき回し、ルークを見上げたまま喉を絞って悲鳴を上げていた。

 勢い込んで部屋に飛び込んだルークは、一気に気勢を削がれてしまった。姉のこんな姿、見たことがない。姉は良くも悪くも誇り高き貴族令嬢だ。たとえ家族相手であっても、常に服装や身だしなみは整え、令嬢然とした態度を崩さない。床に座り込んだ姿など、見たことが――否、そういえば先ほどまでのパーティーで力なく頽れる姿を見たのだったか、と漫然と考える。


「っ、ライラ! この男をつまみ出して!」

「ルーク様。どうかご退室ください」


 恐慌状態で悲鳴を上げる姉を見下ろすルークの背後から、母の鋭い声が響いた。公爵家に長く務める侍女が進み出てきて、ルークの前に立ちふさがる。ふくよかな体も相俟って普段は愛嬌のあるベテラン侍女だが、今は無感情な目つきでルークを睨みつけている。いつもの「坊ちゃま」という気心の知れた呼称ではない他人行儀な呼び方に、ルークは思わず怯む。再び「ご退室を」と促され、意気消沈して廊下へと出る。

 入れ替わるように母がアデレーナの部屋に飛び込んだ。ちらりと見えた横顔は切羽詰まっていて、もうルークなど眼中にもない。ばたん、と背後で扉が閉まり、その音が母の拒絶そのものであるように感じられた。


「おかぁさま、おかぁさま……!」

「大丈夫、大丈夫よ……アデレーナ、お母様はここにいますよ……」


 室内から切れ切れに聞こえてくる声。アデレーナは泣きじゃくりながら幼子のように必死に母を呼んでいるし、母も小さい子供をあやすようにアデレーナに声をかけている。少なくともルークがこの家に来た時には、八歳のアデレーナは貴族令嬢としての態度を確立させていた。家でもあのように母に甘える姿など見たことがない。

 続いて廊下にミシッと軋んだ音が響いた。振り向けば、アデレーナの部屋の分厚い扉に大きな亀裂が入っている。彼女の魔力が暴走しているのだと悟り、ルークは愕然とした。父と同じく、アデレーナの魔力操作は完璧だ。自分の指先を動かすように魔力を操ることができる彼女が、魔力を暴走させるなど。あり得ない状況が起こっている、と否が応にも察せられた。


「……ライラ、その……アデレーナは一体……」

「――まだいたのか」


 アデレーナをこの屋敷に追い返し、自分が帰ってくるまでの間、アデレーナに一体何があったのか。呆然と問おうとしたルークに、横合いから冷たい声がかけられた。弾かれるようにそちらを見れば、父があの凍てつく瞳でこちらを睨みつけている。父の背後で控える執事も、無表情にちらりとルークを見て視線を伏せた。廊下の気温が一気に下がった錯覚に陥る。


「父上……あの、アデレーナは……」

「私を父と呼ぶな。それからアデレーナは公爵令嬢だ、気安くファーストネームを呼び捨てにするのは無礼に当たる。わかったらさっさと去れ」


 冷たい声で言い渡された言葉を、頭が理解するのを拒む。父と呼ぶな。今まで一度も聞いたことのない発言に胸を貫かれ、知らず呼吸が詰まる思いだ。浅く息を喘がせながら、ルークは言葉を探してはくはくと口を開閉した。


「ち、父上……何を……」

「二度言わせるな。私はもうお前の父ではない。どこへなりと行け」


 明確な拒絶。父の――ロートギルト公爵の返事に、どうにか絞り出したはずのルークの声は完全に霧散してしまった。絶句したルークを鬱陶しそうに見やり、公爵は執事を振り返った。


「ダン、この男を生家に連れ戻せ。連絡もなしだが知ったことではない」

「僭越ながら、私から既に先触れは出しております。ルーク様、どうぞこちらに」


 丁寧に、けれど感情のこもらない態度で執事に促されるが、ルークの足はどうにも動かない。父と母に理解を得られなかったどころか、両親はアデレーナの肩を持つばかり。それどころか、唐突に言い渡された絶縁。執事のダンにはそんな主人の言葉すら読めていたように、既に生家である伯爵家へと連絡を送っているという。

 理解の追い付かないことばかり起こっている。ルークには今の状況が全く理解できない。だがこの場に留まることはどうにも不可能だと知り、ルークは悄然と肩を落として執事に連れられ屋敷の外へと出た。


「お荷物は追ってお送りいたします。ワーゲル伯爵と伯爵夫人によろしくお伝えくださいませ」

「ま、待ってくれダン……もう一度父上に会わせてくれ……」

「もう貴方の御父君ではありません。旦那様のお言葉を軽視なさいませんよう」


 執事の発言はにべもない。追い立てられるように向かった先は馬車止めだ。御者台には、今朝自分とアデレーナを学園へと送っていってくれて、パーティー後に自分がアデレーナを押し付けた御者が座っている。何も発言はしないけれど、その視線は冷たく咎める色をはっきりと浮かべている。どうやらこの屋敷に、自分の味方はひとりもいないようだ。


「ワーゲル伯爵家へ」

「かしこまりました」


 執事との言葉少ななやり取りを受け、御者が馬に鞭をかける。走りだした馬車に揺られながら、ルークはひたすら「どうしてこうなったんだ」と頭を抱えるよりほかなかった。


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