ロートギルト公爵家(1)
ばしっ、と激しい殴打音と共に頬に衝撃が弾けた。一拍遅れてそれが痛みであったと知った。
「――この、大馬鹿者が!」
大音量で怒鳴りつけられ、強く胸倉を掴み上げられる。息苦しさにとっさに胸倉の手を掴むが、正面から睨みつける瞳が激怒と憎悪にぎらついているのを見て、ルークは思わずひるんだ。
卒業パーティーで気を失ったアデレーナを無理やり御者に押し付け、先に公爵家へと帰らせた。トーリスの「皆、騒がせたな。パーティーを再開しよう」という鶴の一声により、ぎこちなかった空気も徐々に打ち解けていった。ルークたちはアデレーナの取り巻きたちの報復を危惧してリサの傍を片時も離れなかったが、ルークたちに近寄ろうとする猛者たちは存在しなかった。それどころか、こそこそと足早に会場を後にした令嬢たちが数人いたようだ。腰抜けめ、と鼻で笑い、トーリスたちと勝利を乾杯しあう。リサもアデレーナが排除されたおかげでようやく安心したのか、だんだんといつもの笑顔を見せてくれていた。
久しぶりに胸のすく思いで帰宅すると、玄関で父が待ち構えていた。険しい表情だ、と怪訝に思った途端、玄関ホールのど真ん中で頬を張られたのだった。
「お前は何を考えている。あんな状態の姉を御者に押し付けて一人帰らせ、自分は悠々とパーティーだと? それでもお前はロートギルト家で育てられた貴族の一員か!」
眉を逆立てて怒声を張り上げるダニエル・ロートギルト公爵。普段は模範的紳士としての余裕ある態度を決して崩さない彼の、こんな怒り狂った姿は、この十年間一度も見たことがない。
彼は実の父親ではない。ルークはもともと、ロートギルトの傍系の伯爵家に生まれた三男だった。ロートギルト公爵家の嫡子はアデレーナひとりで、彼女は当時既にトーリスの婚約者として決められていた。なのでルークが八歳のときに本家に引き取られ、跡取りとして育てられたのだ。
公爵夫妻を新しい父母として、同い年ではあるが数ヶ月誕生日が早かったアデレーナを新しい姉として、十年前にルーク・ロートギルトとしての新しい人生が始まった。
はじめは己の立場に悩んだりもしたルークだが、父母は厳しくも優しく公平で、実子であるアデレーナと分け隔てなく育ててくれた。間違っても今のように頭ごなしに怒鳴りつけられ、思い切り頬を撲たれたことなどない。
ダニエルの言葉を耳にし、そうか、とルークは思い至る。父はアデレーナの学園での所業を知らないのだ。筆頭公爵家の一粒種である彼女が、聖女であるリサをいたぶり、貶めた悪女であると。だからこそ第一王子殿下直々に断罪された公爵家の恥であると、彼は知らないのだ。哀れな女性を一人で帰らせた、そんな単純な話でないことを説明せねば。
「ち、父上、聞いてください。姉は、アデレーナは、学園で聖女リサを悪辣に苛め抜いていたのです。彼女は異界渡りで呼び寄せられた聖女を貶め、怪我まで負わせようと……」
「お前は何を言っている」
必死に言い募るルークを遮った父の声は、固く冷たい。凍てつく怒気を孕んだ声は、威厳と重みがある分トーリスのそれよりも腹に沈む。姉とよく似た深い青に睨み据えられ、ルークは足元から悪寒が立ち上ってくるのを感じていた。だが、ここで引いてはいけない。引くわけにはいかない。アデレーナの悪事を説明し、自分の行いが間違っていなかったことを正しく説明せねばならない。
「ですから、聖女リサはこの国の重要人物です。異界渡りは数百年ぶりの奇跡。それをアデレーナは、平民だと見下し、罵り、ひどい苛めを行ったのです。トーリス殿下はこの事態を重く受け止め、今日の卒業パーティーでアデレーナに婚約破棄を申し渡しました。あの女はこのロートギルト公爵家には相応しくない悪女なのです……!」
「――婚約破棄、だと。殿下が、そう仰ったのか」
ルークを突き飛ばした父の固い声は緊張にみなぎっている。普段は完全に制御下にある父の魔力も、彼の感情の高ぶりに合わせてびりびりと肌を刺した。圧倒的威圧感に思わず一歩後ろに退き、ルークはごくりと唾を飲み込む。視界の端で、玄関先に控えていた侍女たちが真っ青になっているのが見えた。それどころか、普段は柔和な笑みと完璧な礼儀を崩さない執事までもが顔を歪めているのが見て取れた。
「ち、父上、魔力を抑えて……」
「お前は、殿下が婚約破棄を申し出ることを知っていたのか」
か細く震えるルークの言葉を黙殺し、父が重く尋問する。その声の底には全てを焼き尽くしそうな怒りが燃えていて、ルークは今すぐこの場を逃げ去りたい気分でいっぱいだった。また一歩退きそうな足を叱咤し、どうにかその場に留まる。
「は、はい……伺っておりました」
「知っていて、何故お止めしなかった。殿下をお諫めもせず、姉を支えることもせず、お前は何をしていたんだ。お前は馬鹿なだけでなく、それほど無能だったのか」
父の声は灼熱の怒りにみなぎっているのに、その瞳は絶対零度に凍てついている。全く無価値なものを見やる視線を向けられ、ルークは己の心臓が嫌な音を立てて軋んだのを自覚した。十年に及ぶ彼の息子としての生活の中で、これほどに冷たい、まるで敵でも見るような目で睨まれたことなど一度もない。
視線ひとつで絶句したルークに、父はもう一切の興味を失った表情で溜息をついた。ついで表情が引き締まる。冷徹な当主としての、誇り高い貴族としての、仕事用の表情だ。隣で見ていた時には頼もしいと感じたその顔も、今は背筋が凍るほど空恐ろしい。
「ダン、王宮に使者を。陛下も織り込み済みでの暴挙なのか、殿下単独の暴走なのかも確認するんだ。それからパーティーでの状況の仔細が知りたい。分家の連中で参加者を確認し、証言を取れ。私は王家に対し、厳重抗議の書面を用意する」
「かしこまりました」
先ほどまで青ざめていた執事が折り目正しく頭を下げ、傍に控えていた侍従に何事か指示を始めている。矢継ぎ早に命令を口にした父は、執務室へ歩き出そうとした足をぴたりと止めた。呆然と立ち尽くしているルークを睥睨し、憎々しげに睨みつける。
「いつまでそこにいる。どこへなりと、さっさと行け」
野良犬でも追い払う口調で告げられ、ルークはますます硬直した。いまだかつて、こんな乱暴な態度で父に接されたことなどない。これまでルークは公爵家の跡取りとして、たとえ家族であっても礼節をもって扱われてきた。父から理不尽に怒鳴られたことも、自分の話を聞いてもらえなかったこともなかった。
今朝には「いよいよ卒業だな」と笑顔で肩を叩いてくれた父が、今は無関係の他人を見るような、それどころか憎き仇を敵視するような目で睨みつけてくる。態度のあまりの落差が理解できず、ルークは思考停止に陥っていた。そんなルークを冷淡に一瞥し、慌ただしく踵を返して父が玄関から立ち去った。執事がそれに続き、ちらちらと控えめな視線を送りながらも侍女たちが散っていく。誰もいなくなった寒々しい玄関先で、ルークはしばらく言葉もなく立ち尽くしていた。