婚約破棄されても、わたしは王子が大好きです!
「思い出した」
穏やかな天気の朝だった。
何の前触れもなくエルは思い出した。彼女の前世を。戦争ですらルールがありネットワークが構築され、情報が氾濫した世界。ありとあらゆる交通手段があり、人々は村を超えて社会で暮らし続ける。
だが、ここは何もかも違う。自動車も電車もなければ、ネット社会もおろか水も満足に使えない。だが彼女は知っていた。ここはかつての前世で見知った小説の世界と同じであることを。
それはとある雑誌で掲載されていた短編小説だった。
どこにでもあり得そうな恋愛を描いていたのにエルが今でも覚えていたのは、主人公があまりにも救いようがなく、王子の手によって悲劇的な最期を遂げていたからだ。
主人公は孤児だった。聖女になると予言を受けて教会に預けられるが、けっきょく婚約者である王子の裏切りに遭い処刑される。
聖女は王子が大好きだった。王子の為に国を繁栄しようと全力を尽くしていた。だが王子は聖女ではない少女を盲目的に愛し、聖女をさんざん利用した挙句、価値がないとみなすとさっさと処刑台へと送り込んだ。
それでも火をくべられる瞬間まで聖女は王子を信じていた。火のごうごうと聖女を包み込んで、火の向こうで王子が嗤った瞬間に聖女は全てに絶望し、皮肉にも聖女は聖女としての能力に目覚めながら死ぬ。
小説はそこまでだった。ひっそりと発表され、埋もれた小説はきっと打ち切りになったであろう。
作者の名前も思い出せない。だが、エルはそれでも、主人公の心情をこれほどまでに思いしりながら非道をやり遂げた王子がとても気に入っていた。
せっかくなら王子そのものに転生すればよかったのに、何の権力ももたない小娘に転生するなんて、ついていない。
だが彼女は思い直した。権力はあとからつければいい。大事なのは、たった一人の為に外道を貫きとおした王子を手に入れること。
エルは声も出さずひっそりと嗤う。心地のいい朝に洗濯物を干そうとした、王子を盲目的に愛した彼女はもうどこにもいなかった。
「メアリー・ミュラー! 我が婚約者でありながら、この度聖女候補の一人を追い詰めた非道をした所業! よって私の権限によって貴様に婚約破棄を言い渡す!」
孤児のエルは聖女候補兼王子の婚約者であるメアリーとして、おおむね原作通りに王城に上がっていた。少しばかり、いやだいぶ寄り道という名の謀略をしてきたが、それまではおとなしい少女として表向きには小説通りの動きをしていたのだ。
エルはある種の賭けに出ていた。今となってはその賭けも無意味と化したが、それでも彼女にとってする意味はあったのだ。
そして現在、エル以外の存在は予想を外れた動きはすることなく、無事に王子に婚約破棄を言わせることに成功した。
エルは目の前の王子を眺めていた。美しい金髪にこの世のどの宝石よりも美しい碧眼。鼻梁の整った顔つき。残酷の名にふさわしく、原作通りなら無実の少女をいともかんたんに殺す非道の王子。
エルが王子に愛でられるだけなら、素直に愛を表現すればよかった。だが彼女はそうしなかった。エルの前世の人間はひどく屈折していた性質をもつ人間だった。今のエルは、王子を愛されるのではなく、王子の全てを得たい。そのためには、まだ原作通りに動く必要がある。
せめてこの舞踏会から出るまで聖女のふりをしなくては。私はこの国の中で最も清く正しい人間。王子が外道であり続けるように、彼女はいかにも傷ついた少女の顔を浮かべた。
「……かしこまりました。婚約破棄、承ります」
聖女は舞踏会でも必ず修道服を着ていた。そもそも王子からドレスを贈られたこともない。淑女が持つ扇子で顔を隠すことも許されなかった。
しかし、扇子なぞなくても今のエルが演技で負けるものはいないだろう。何せ前世を思い出してからも、日ごろ一緒に過ごしていたシスターたちでさえエルの異変に気づかなかったのだから。
ましてやひと月に一度しか会わなかった王子が気付くことはない。さらに王子はこの頃、聖女ではない一人の少女に心を砕き始めているから、エルの心情をおもんばかるはずもない。
幸運なことに王子と少女が結ばれるのは聖女が火にくべられる前夜である。それなら原作と違う展開になることを加味してもまだ間に合う。
ただの小娘が私の王子を奪うことは許されない。エルは感情を抑えているが、本来なら聖女とは程遠い激情家だ。だからこそエルは本質を隠して、ただひたすらか弱い少女を演じる。
王子を盲目的に愛しているように。実際はもっとおぞましく、執着にも似た感情をひたすら隠して。
「ッ! 待て! まだ彼女に謝っていないだろう!」
礼をして原作通り背を向けようとしたところで、王子が大声を出して呼び止めた。これも原作通り。
それでも――
ああ、だめだ。顔が歪みそうになる。
エルはあまり我慢強くない。ついやり返してしまいそうになるから。弱者をいたぶる人間を見ると、飛び蹴りするついでに足で踏んづけてしまいそうになる。だがまだそのときではない。王子の愛を手に入れるには、もっと王子を高慢に育てなければ。
純粋無垢で愚かな王子のプライドをへし折るにはまだ早い。最高の舞台に導くためには、今は本性を出すべきではない。
「何故、私が」
エルの我慢が功を期したのか、幸い声が震えた。これなら無実の少女をまだ演じられる。
王子はエルの演技に満足したのか、顔をいやらしく歪ませて鼻で笑う。そして衣を着せぬ言い方で、さらにエルを貶めていく。
「ハッ、卑しい性根とはまさにこのこと! 聖女と謳われながら彼女を虐めた自覚もないとは! 本物の聖女である彼女に謝罪し、己の非を認めるがいい!」
「……謝罪はいたしません。我が神の名に誓って、彼女を貶めた事実はございません」
「なっ!」
エルは一瞬のみであるが、迷った。彼女はこの世界で知っている限りの無実の証明になり得る言葉を口にした。
この世界は前世では考えられないほど、誰もが神の存在を信じる。
自分たちにとって都合がいいから神というのだろうが、と、信者への嫌悪感に蓋をし、己の無実を証明する。
聖女は神の名の下、偽りがあってはならない。王子もこの世界の人間だからか、当然エルより神に対する在り方の造詣が深い。
結果、彼は刹那であるがひるんだ。そしてそれを見逃すようなエルではない。
一瞬の隙をつき、彼女は深窓の令嬢の如くカーテシーをしてさっさと背を向ける。
先ほどのセリフは原作にはない。結局、我慢できなかったな――と僅かばかりの反省をして、王子の声が聞こえないふりをしながらエルはさっそうと扉に向かった。
「~~ッ! 待て、話はまだ終わっていないぞ! 私の言うことが聞けないのか!」
王子が呼び止めても衛兵がエルを止めることない。王子より周りの者のほうが状況を理解している。ここで無辜のエルを捕まえてしまえば、裁判なしに牢獄に放り込まれることは目に見えて分かっていた。だが、王子に対して面と向かってかばえば、もしかしたら怒りの矛先を自分達に向かうかもしれない。だから代わりに、何も聞こえないことにする。
エルは周りの良心を利用した。もっとも、王子がもしかしたら婚約破棄するかもしれないと、周りに悲壮感たっぷりに相談したからこその結果もあるかもしれないが。
会場を出たところで一台の馬車が止まっていたので、エルは迷うことなく馬車の中に乗り込む。中には一人の男がいた。
「ふぅ」
「お疲れさまでした。聖女様」
「あくまで聖女候補です。準備は?」
「いつでも。陛下がお望みなら、いつでもラッパを吹けるかと」
「そう、この国が無事に揺らいでいるようで安心しました」
その男は外交官である。ついでに言えば、会場にいた有象無象のうちの一人だ。男はエルよりも早く自らの役目を終えたのだろう。彼女が糾弾されたときにはすでに馬車を呼びにいったに違いない。
あまりの手際の良さに若干呆れながら、エルは外を見た。相変わらずの穏やかな天気。今日も月がきれいだった。
「……次の霧雨が濃くおぼろ月が浮かぶ夜に、聖女を取り戻そうと悪漢に扮した騎士たちが十人、奇襲します。一人は高官の息子。捕らえて政治の道具に利用してください」
「聖女様、それは」
「気分がいいので、少しほどの助言を。ありたがく受け取ってください」
「聖女のお言葉、しかと承りました。ちなみにその力は」
「言われなくても、仮想敵国の為に使った記憶はありません」
「それは然り。襲撃の詳細は帰宅してからでよろしいでしょうか」
「ええ、陛下に対する土産はこれでよろしいでしょうか?」
「陛下はお喜びになるでしょう。聖女には今後一層の献身が求められますが、それができないあなたではありますまい」
彼女は視界の端に男をうつす。見た目だけでいえば、男はなんも変哲もない平凡そうな人間だった。だが、男に後ろにいるのは今後エルに最も必要な人間である。今エルにほしいのは、何もかもゆるぎない強力な後ろ盾。権力をもつためなら、力を使うことだって惜しくはない。
エルの能力は予知である。小説では王子に対し目覚めかけている能力の片鱗を見せ役立てていたが、今のエルは能力の一端さえ彼に見せていない。
だから聖女候補。聖女になるかもしれないと保護されていた聖女候補のうちの一人。ただそれだけの存在。
エルが王子と婚約していたのは、現聖女がエルのことを最も国に利益ある者になるだろうと予言されていたからだ。だが予言されたのはエルが思い出す前のこと。今予言されれば、最も国を害する者になるだろうといわれるだろう。
だから、今婚約破棄されたのは都合がよかった。
「今日も月がきれいですね、王子」
エルはついに窓の外の光景だけを見ていた。雲一つない穏やかな天気。この国を泣いて出るには全く相応しくない、だが笑顔で出るにはこれ以上のことはないぐらい美しい夜だった。
隣国とは険悪の仲にある。せっかくの外交も、二年前のあの舞踏会を境に途絶えてしまったらしい。
さらに残念なことに、エルの庇護を受け持った陛下から直々に働けと言われてしまったせいで、謁見されたその日から直接戦場に送り込まれてしまった。
二年もの間、エルは軍人として生きていた。この世界では、肉体だけで全てが決まるわけでない。肉体に宿る魔力の強さ。エルが生きることができたのは、隠していた魔力をすべて放出して辺りを灰燼と化し、予知で敵の攻撃を未然に防ぎ、殺される前に殺し続けていたからだ。
二年は決して短くはない年数である。小説ではどんなに月日が経っても一行で済まされていたが。原作通りならばそろそろメアリーは牢獄から引きずり出されて火刑台に上がるころだ。だが今のエルは嘆くばかりのメアリーではない。王子も、度重なる敗戦に少女とラブロマンスを繰り広げている場合ではないだろう。事実、あの少女はいつの間にか表舞台から消えていた。王子が匿った事実もない。何故知っているかといえば、向こうに潜んだ間諜がちくいち報告してくれるからだ。
一々報告しなくても望めば未来が見えるのに、間諜を忍ばせた本人は自分の能力をまったくもって信用していないらしい。曰く「いたいけな少女を戦争に利用した時点で国として終わっている」だとか。
つまり聖女ではなくただの軍人としての実績が必要。エルは甘んじて、国の為に身を呈して働いていた。
エルはテントに座っていた。彼女は修道服でもなければ、か弱き少女が着ているような麻の服もないれっきとした軍服を着ていた。
作戦まであと半刻もない。あともう少ししたら彼女は立ちあがり多くの部下の前に姿を見せる。エルは戦争の顔を作る必要があった。その為の少しの時間、一人でいることを許された。
だが、約束の刻よりもはやく静寂も破られる。エルはテントがめくられる音を見て、わずかに目を見張った。
「よぉメアリー、いや、今はエルと呼べばいいのか」
彼女はエルの故国に間諜を忍ばせた元凶、その人だった。
「女王陛下……いきなり前線に出てきて御身に何かあったらどうするのですか」
「その場合はエル、貴様が身を呈してかばってくれるのだろう。貴様のもつ能力はそのためにあるものだろうが」
「はぁ」
本来ならこんな場所にいるべき方ではないのだが、来てしまったからには仕方ない。エルは立ち上がり、彼女に椅子をすすめた。
女王陛下はこの国の中で一番に尊い方である。女王としての彼女と出逢ったのは、故国を抜け出したその日が初めてだった。彼女は故国の王族と同じ金の髪を持ちながら苦労しているせいか、かの国の王族より僅かにかすんでいた。女王即位の日が血にまみれた戴冠式とあったというのは決して間違いではないとエルはにらんでいる。比喩ではなく物理的に。だからといって、エルが女王に引け目をとることはない。むしろ、直接殺した人間の数でいうならエルのほうが万単位で多いはずだ。
日の目を見ることなく断頭台の露へと消えた美しい姫より血にまみれた醜い女王様のほうが、好感がもてる。女王陛下の治世では実力が全てだ。だからこそこの国につき、取り立ててもらった。女王陛下の下にはもといた国を裏切った人間も少なくはない数でいた。
「さて、エル。いよいよ作戦は佳境を迎える。私の悲願が、君の願いが叶うときがきたのだ」
女王はエルが引いた椅子に堂々と座った。国王でもあり大元帥でもある女王は、名ばかりでなく実際にいくつかの作戦を展開し、遂行、成功させている。責任者でもある女王は、足を組み手の甲を組んで、テントにいるたった一人のエルの為に時間を割いた。
それが何を意味するか、分からないエルではない。
「二年、二年も待った――すでに戦勝式、叙勲式の準備もしている。エル、今宵あの国はいよいよ落ちる。君の欲したものがついに手に入るんだ、ほら、もっと喜べよ」
そして今回の戦争の功労者がエルであると断言した。そしてほしいものを何でも一つもらえるように便宜をはかったと告げられた。
「――純朴な少女の願いが叶う、平和な世界をつくりたい。いつだって私は、君を含めたか弱き少女の味方でありたいんだ」
エルの願いは女王陛下に初めて謁見したときから告げている。その為なら、故国を裏切ることも躊躇ないと言い切った。そのときの女王の答えがこれだ。
女王の悲願が少女の願いなら、きっと今宵に叶えられるのだろう。
ふとエルは思う。女王は粛清を後悔しているのか、名もなきか弱き姫を断罪したことを後悔しているのか――どちらにしても女王陛下が、かつて自分を処刑しようとしたあの王子を赦すことは生涯ないだろうなと思えてしまった。
二年間の戦争は終わった。故国は属国を選ばされた。エルが想定していたよりも、だいぶまともな終わり方であった。本当なら王子の心残りは全てつぶすつもりだったが、女王はそれを許さなかった。
国の英雄として、美しい戦勝会に出席することになった。より人を殺したことで、軍服の胸にはたくさんの勲章が掲げられている。後れ毛も一本もない、より軍人らしい姿で会場に姿を現すと、会場はわっと歓声に沸いた。
「英雄、エル万歳! 英雄エル! われらが女神! 英雄エル万歳!」
エルは周りの様子を見ても微動だにしなかった。これらはすべて予知で知っている。大事なのはこれから。戦勝品として差し出される生贄をこの目にするまで、エルは固く口を閉ざした。
「……――ッ!」
女王陛下により戦勝品が述べられエルの前に差し出されたとき、エルはやっと、今までの自分が報われたような、変な高揚感に包まれた。
あれほど美しかった金髪はばっさりと切り捨てられていた。きっと自分が気に食わなければ、すぐに首を刎ねられるようにしているのだろう。周りには帯剣している軍人が何人もいた。首を斬るのに、長い髪は邪魔なだけだ。何人もの首を刎ねてきたからよくわかる。彼の頬は薄痩け、そして若干震えていた。
薄汚く、後ろ手に縛られた哀れな王子。敗戦の責任をとらされ、女王陛下の貢ぎ物へと差し出されたにされた王子。
国の法にのっとるならば、王子は軍法裁判にかけられたのち、処刑されるのが妥当であろう。だが、国の英雄である私が王子を終戦の証として求めた。それは皮肉にも王子の生命を永らえさせた。
王子は煌びやかな会場の中でただ一人、あまりにもみずぼらしく姿であった。エルは一瞬、ドレスも贈られず、修道服で糾弾されたあのときの自分と王子が重なって見えてしまう。しかしそれもほんのわずかな間で、瞬きの間のことだった。
エルは思い直してつかつかと王子の前まで歩く。そして王子の髪の毛を掴み、自分の顔の前まえで近付けた。
「ごきげんよう王子、いえ、今はただの奴隷でしたか」
王子は恐怖を隠し切れずに、ただエルの瞳を見つめ返した。しゃべることは許していない。王子はエルの言葉を聞くしかなかった。
エルはしばらく王子を眺めていたから、耳元でそっとささやく。誰にも聞こえないようにほんとうにささやかな声で。王子はこの上なく怯えている。ならば高らかにいうよりも、どんなに戦場にいても失われなかったかわいらしい声でささやくのが正解だろう。
「王子の大好きな国は、王子を裏切ったのですよ。あなたが大好きであった娘も、父である国王も、国民も全て王子を裏切ったのです、ああ可哀そうに、世界でもうあなたを愛するのは私しかいない!」
「メアリー……お前は……っ!」
王子が叫びそうになった瞬間、エルはぱっと王子の髪から手を放した。英雄を罵倒したとあっては、自分が許してもエルの周りのものが許さないだろう。事実、王子の顔がくしゃりとゆがんだ瞬間、周りの兵士たちは音もなく柄に手をかけていた。
エルは床に伏した王子を眺めてからあえて王子から目を離す。今度は、周りに聞こえるようにわざと両手を広げて演説を始めた。
「これは私の戦勝品として、大切にされることを望みます。このものの献身で一つ国が救われました。亡国の王子よ、私たちはあなたを歓迎しましょう」
これで王子の身柄は真実英雄のものだと周知された。ここにいるものは国の今後を担う重鎮ばかり。この言葉ひとつで王子の安全をはかりつつ王子は自分のものだと言えば、エルはいくらでも叫ぶつもりだった。
実際は叫ぶ必要もなく、エルがさらに言葉を継げなくても会場は喝采に包まれた。
王子が床に這いつくばりながら声を殺して嗚咽を漏らしているのをエルはあえて見逃した。エルがそのことを言及すれば、英雄の御身を煩わせたといって、狂信者たちが王子を隠れて害するかもしれないから。王子を害していいのはもはやこの世でエルただ一人である。
エルがその事実に喜ぶのは帰ってからでいい。今は王子の為に、あえて王子を突き放す。
今はつらいかもしれないが、家に帰ったら王子をたんと慰めようとエルは決めていた。
甘やかすのは今後たくさんできる。時間はたくさんあるのだ。
王子を先に家に帰すのではなく一緒に帰るよう、あえて客室に閉じ込めておけとその辺にいる衛兵に命令した。王子はいまだすすり泣いている。そろそろ、かわいそうな姿をこれ以上観衆に見せないよう配慮するのも主人の役目だった。
王子が退出し、辺りはいったん和やか雰囲気に包まれる。
英雄である限りには、接待をする必要がある。別れたばかりであるが、早く王子に会いたいなと、エルは王子に想い馳せながら、和やかな会談に身を投じた。
広大な敷地。庭師によって整えられた薔薇が咲き誇る美しい庭園。暖かい気候に、そよぐ風。幾人も執事とメイドを傍に控えさせている中で、亡国の王子である彼は茶を嗜んでいた。
エルはテーブルの向かい側に座って、うっとりと王子を見つめていた。ただ見つめているのではない。彼女は王子の体調の変化も見逃さないようちくいち観察していた。もらい受けた直後は栄養失調のきらいが見られたが、エルが昼夜問わずしっかりと看病したので、体調もすっかりよくなった。そうでなくても、彼がもし風邪を引けばエルはすぐに国一番の医師に見せる権力も財力もある。
王子の為ならば予言を使うことも一切厭わない。今でも王子に近付く不穏分子はすべて秘密裏に片づけている。中には、表舞台にいなくなって久しい少女もいた。
エルは未だ少女を殺していない。王子の心をひとかけらでも手に入れた彼女を生かすのは業腹だが、まだ使い道がある。王子を壊したくなったときの代わりはとっておいたほうがいい。王子にうっかり八つ当たりしまってはいけない。
少女は未だ王子の心に自分がいると思い込んでいるようだ。それはまるで小説の主人公のようで、エルは少しだけ彼女を哀れに思った。だがその感情も、王子の前では飛沫のごとく消し飛ぶ。大事なのは王子が平穏に、自分に愛でられること。
エルがこのまま小説通りのメアリーならば、悲劇の聖女として処刑されていただろう。それではいけない。エルは激情家であり、聖女とは程遠い。エルがエルらしくあり、かつ王子と結ばれるには結局こうするしかなかったのだ。
王子はエルのものになってから、まったくしゃべろうとはしない。唾を飛ばしながら糾弾していたころも懐かしいが、寡黙な王子も悪くはない。
エルは過去の王子の姿を思い出しては堪能していた。エルの妄想を邪魔するものはもういない。
しかしエルはたまたま気付いた。王子が言葉を発しようとして、あきらめていた瞬間を見てしまったのだ。王子自身も気付いていないだろう。だがエルは今や王子自身よりも王子のことを知っている自身がある。
王子に憂いがあってはいけない。エルは王子に問いかけ、彼の憂いを取り除くことにした。
「王子、何か言いたげな顔をしていますね。いいでしょう。一つだけ、何を問うても不問にいたします。あなたを罰することは決してないと我が神の名において誓いましょう」
王子が息を飲んだ。当初投げようと思った言葉に疑問を抱いているのだろう。しかしそれでもいい。王子の質問が何であれ、エルは誠実に答えるつもりだった。
「君は、聖女に相応しくない――こんなの、とても聖女とはおもえない」
王子はじゃっかん蒼褪めながら、口を震わせながらエルにたずねた。エルははて? と、首をかしげた。きっと王子はいろいろなことがあって忘れているのだろう。そうに違いないとエルは結論付けた。
幼子を諭すようにエルはできる限りやさしい口調でエルに返答をする。
「私は一度たりとて私は聖女であると、だれかに言った覚えはありませんよ」
エルは神に誓ったが、神はこの世にいないと思っているし、聖女であるならばこんな非道をそもそも犯さないと思うのだ。
エルはたくさん人を殺した。これからも殺し続けるだろう。だから聖女にはなれなかったし、これからも成り得ない。それに今のエルは聖女よりももっと相応しい名前が用意されている。
エルはそっとティーカップに口をつける。今なら女王の言うこともわかる。感情のままに故国を蹂躙しなくてよかった。庭園も、このティーカップも、テーブルの上に置いてあるお菓子も、元は王子の故国にのっとったものだった。
王子の心の安寧をはかるためには、王子が懐かしがるものも必要であった。彼女は敵を屠る力はあるが、何かを育てる力はない。
それこそ人間と同等であった。予知は万能ではない。行動を予知できても、他人の感情を理解することはできないのだ。
エルは少し先ばかりの光景を脳裏に浮かべてから、王子より先に問いかける前に答える。王子がさらに質問を重ねることはわかっていた。だから、懇切丁寧に王子が聞きたかったことを口にする。
「王子以上の怪物になった自覚はあります。王子以上の権力をもち、王子以上の多くの人を殺しました。これからも殺し続けましょう。女王陛下は仰いました。あなたをつなぎとどめたいなら、人を殺し続けろと。きっとこの能力がなくなるか、私が殺されるまで私は人を殺すのでしょう」
少しのどが渇いた。珍しくエルはしゃべり続けた。喉を潤すために口につけた茶はすでにぬるい。エルは執事に目配せして新しい紅茶を入れてもらった。
ここの執事もメイドも、エルの命令にしか従わない。あとで王子の見えないところで、王子に不便をかけないよう便宜をはかる必要があるとエルは思い直した。
エルは新しく注いでもらったティーカップを手にしながら、改めて王子を見る。
陶磁器のごとく美しい肌、整った顔つき、切りそろえられてはいるが、未だ髪が短い頭。
どんなに外見が美しくても、ただそれだけならばエルは愛さなかった。
「あなたは度し難いクズである限り、私はあなたを愛するのです。私の首を掻っ切るそのときまで、きちんと悪人でいてくださいね」
この台詞を言うまではエルはある光景を脳裏に映していた。私が悪人でなくなっても、君は私を愛するのか? 答えは言うまでもない。彼の在り方に彼自身が疑問をもったとき、王子がエルの首を掻っ切るその前に、エルが王子の首に手をかけようとするその一瞬が見えていた。