後悔
咳をする度に、そして
辛うじて呼吸をする度に
濃い血の味が口いっぱいに広がる
口の端から
涎とも血とも言えない液体が零れ
目の前の、所々赤茶けた染みだらけの
コンクリート剥き出しの床に
更に、真新しい染みを上書きする
それを止める術は
この時の俺には、
あるはずもない
痛みは既に
特定のどこか、ではなく
全身の、ありとあらゆる場所で
絶えず悲鳴を上げている
視界も意識すら朦朧とする俺は
立ち上がる事も叶わず
地に這いずる虫ケラのように
その場に蹲る事しか出来ずにいた
だが、そんな一瞬すら
休まる時間など許されるはずもなく
その次の瞬間には、
凄まじい衝撃と同時に
俺の身体は宙を舞い
忽ち、床を転がされる
それから更に一瞬遅れて
激しい痛みに襲われる
体勢が俯せから仰向けに変わった
という些細な変化こそあれ
置かれた状況に大きな違いなど
あるはずもなく
今度は真上から
腹を踏み抜かれ
思わずと声にならない声
同時に、情けなくも
胃の中身を全て、とは言え
ろくな物じゃなく、
ほぼ全ての胃液を
吐き出してしまった感覚
それらは自分の身体と
服だけではなく
俺の腹を踏み抜いた者の靴や
ズボンの裾さえも汚してしまった
予想通り、
と言うべきか
それが
その者の逆鱗に触れ
「◯✳◯△✕◯△△!!」
と、男性の怒号が響く
何を言われているのか
俺が知り、普段から使っている言語
ではあるものの
だからこそ、その言葉の
意味だけは理解できる
幸か不幸か
それで一瞬だけ
俺に対する攻撃が止んだものの
そんな事には
何にも意味がない事は知っている
次の瞬間には
頭に強い衝撃があり
そこで、
そこで漸く
そして、
実に
“幸いな事”に
意識を手放す事が
出来たのだった
次に目を覚ますのは
暗い牢に放り込まれた時
或いは、
そこへ向かう途中の廊下
雑多な荷物の様に抱えられ
運ばれている最中だ
同じ牢に入れられている彼女は
俺とは別の場所に連れていかれる
俺と同じ様にボロボロの状態で
抱えられ、
廊下で再会する
勿論、廊下で気が付いても
気絶したフリをする
意識が戻った事を
万が一にも悟られれば
この上、何をされるのか
とても、
想像なんてしたくない
ともかくとして
俺らが解放、と言えば
少し、いや大いに語弊があると思うが
敢えて、そう表現するが
その時と言えば
俺らを抱えていた奴らの足音が
完全に聞こえなくなったのを合図に
静まり返る牢の中で
俺と彼女は、ようやっと自分の意思で
のそのそと動きだす
とは言っても、
壁やベットに身体を預ける
といった、その程度だ
無駄な体力も
気力すらない
だが、
彼女は
「大丈夫?」
俺よりも傷だらけの姿で
俺の事を気遣う
「ごめんね…
何もしてあげられなくて…」
当たり前だ
ここには
何もない
希望も
未来さえも
その全ては奪われ
与えられるのは
理不尽な暴力と
ただ死なさない為だけの
僅かな食料だけ
そんな事が一週間
いや、三日ほど繰り返されれば
心なんて
跡形もなく崩れてしまう
感情なんて
無意味だ
そうしている内に
何事もなかったかのように
食事が差し込まれる
彼女が俺の分も持ってきてくれて
目の前に置いてくれた
冷えたスープと
固いパン
透明の容器に入った
薬
変わらない
彼女が黙々と食事をするのを眺め
ふと、考える
『薬が切れたら
動けなくなって
最終的には死んじゃう』
彼女が語った言葉が
脳裏を過り
何度も反響する
それでも
構わない
どちらにせよ
今と変わらない
いや、今よりマシなのかもしれない
もういい
たくさんだ
それが、
唯一の正解だ
なのに…
そんな俺の雰囲気を
敏感に感じ取った彼女の行動は
早かった
少し離れた位置にいた彼女が
いつの間にか
俺の目の前に立った、と思った
次の瞬間には
一切無駄のない
まるで流れるような所作で
戸惑う俺を押し倒し
俺に馬乗りになったかと思えば
初日同様
自らの口で租借した食べ物を
俺へ口移しの要領で
ほぼ強制的に流し込む
今回はそれに加え
口移しと同時に
俺の鼻を摘まむ
といった
彼女らしからぬ動作
唇を離すと同時に残った掌で
俺の口を塞ぐといった事も
加わっている
俺は極度の動揺と
恥ずかしさ、
息の出来ない苦しさも相まって
口の中で暴れる
食べ物達を
どうにか嚥下したが
同時に噎せて
咳込むと
口移しされた食べ物の
凡そ三分の一程をも吐き出してしまう
そして、俺の咳きが
収まらない内に
彼女は二度目の口移し
俺の口が
吐き出した物で汚れている事など
一切気にしない
それ程までに
躊躇などなく、である
そんな事が数度続き
出された食事の三分の二程
加えて薬の全ては
見事、俺の腹に収まった
一連、終始無言で
機械的に、それをこなした
彼女に対して
俺は堪らず
何かしら文句を吐こうとするも
ふと見えた彼女の悲しげな表情は
一瞬にして俺に言葉を飲み込ませる
そして
「ごめんね…」
彼女がポツリと口にした
贖罪の言葉
瞬間、
大粒の涙が
一滴
落ちてくる
彼女は
俺の上で
「ごめん…、ごめんね…」と
何度も繰り返す
そして、
「もう…、目の前で
誰も死なせたくないの…
もう誰も…、死んでほしくないの…」
「それって…」
そこで、俺は
改めて息をのんだ
その言葉が意味する事は
彼女と初めて会った日の事を思い出せば
その時、
彼女が何を言ったかを思い出せば
容易に想像できる事だった
俺より先に
俺より長い時間
この薄暗い牢にいた
彼女
俺に言った
ある言葉
『私もそうだったけど
“初日”は口すら動かないから
こうでもしないと
食べられないでしょ?』
確かにそれは事実で
つまりは、彼女が俺にした事と
同じ事を
彼女にした者がいる
という事になる
だが、
この牢には
その人物はいなかった
ならば、その者は
一体どこにいったのか?
ここからは
完全な憶測に過ぎないが
彼女の次の言葉が
明瞭に示唆している
『それに薬が切れたら
“君も”動けなくなって
最終的には死んじゃう』
彼女はそう言った
それが仮に事実だとすれば
彼女は何故
【それを知っているのか】
実に簡単な話である
彼女は誰かが
【そうなった】のを
見ていたのだ
少なくとも
一人
下手をすれば
何度も
何人もー
「私は…、何も出来なかった…
助けられなかった……
誰も……誰一人も!」