温もり
今となっては
名前すら思い出せない
彼女との
ぎこちない初対面から
体感的な時間にして
恐らくは十数分後
“一連のイカれた状況”の中で
初めての“マトモな”人物
それも同世代の“女の子”
こんな状況
通常あり得ないと思える初対面
その全てが相まり
当然、談笑は勿論
それこそ“マトモな”
会話らしい会話など
あるはずもない
目の前の女の子は
未だ声の出ない俺に気を遣ってか
当たり障りのない問い
それもイエス、ノーで答えられる様な
質問を投げ掛け
俺の相槌や、
頷き、または頭を振るなどの
反応一つ一つに対して
屈託のない笑顔を浮かべる
その場その場の思い付きで
繰り返される彼女の
当たり障りのない問いと
俺の、声なき何らかの反応
無論、
一つ一つのやり取りの間には
気まずい沈黙が、
もれなく挟まれる
その数度目の沈黙の中
ふと、
此方に近付く足音に気付く
自然と身体が固まる
目の前を見れば、
彼女もまた
怪我や痣だらけの
痛々しい姿でありながらも
その事を一瞬忘れてしまいそうになる
そんな眩しくさえ思えた
笑顔は
跡形もなく消え去り
見るまに影が落ちる
よく見れば
どこか
小さく震えているようにも見える
一体、今から
何が始まるのか
今の彼女の姿を見れば
“良くない事”を遥かに越えた出来事
である事だけは、明らかだろう
数秒後、
俺の背後、
鉄柵の向こう側で
“再び”足音が止まり
柵が開けられ
「チッ」と舌打ちと共に
突然、背中に衝撃が走る
驚き、が一番始めに感じた事
次に、
僅に身体は一瞬宙に浮き
直後冷たい床を転がりながら
何が起こったのか、と疑問が二番
その疑問は
床を転がる最中、一瞬見えた柵の向こうの
迷彩服を纏った人物の姿勢から
自分が蹴り上げられたのだと解った
そこで今、自らに起きた
全てを理解しながら
だが、最後に感じた物は
決して【痛み】ではなく
【温もり】だった
俺の身体を包む
震える細い腕
鼻を突く
乾いていない
生々しい血の匂い
それなのに
どうしても不快でない
「だい、じょうぶ…大丈夫だから…」
耳元で囁かれた
必死に抑えようとして
それでも到底抑えられていない
震えた声は
俺に安心を与えたいのか
または、自己暗示の類いなのか
いや、
そんな事
どうでもよかった
無論、直後
背後、柵の向こう側から聞こえた
「気持ち悪りぃ…」との
嫌悪にまみれた声ですら
最早、
雑音にすら劣るものだ
床に何かが乱暴に置かれ
柵は閉じられる
次第に足音は遠退き
やがて聞こえなくなくなる
そうして、漸く、
彼女は「ごめんね」の言葉と共に
俺の身体を離した
俺は首を振る
彼女の勇気ある行動に
謝罪すべき点などあるはずもない
寧ろ、
「ありがとう」と伝えるべきなのだが
如何せん、理由はわからないが
まだ声が出せなかった
それに、
凡そ初めて感じた
人肌の優しい温もりに
それが離れてゆく事に
名残惜しささえ
感じてしまっていたのだ
「さて…」
と彼女は、よたよたと身体を起こし
時折、全身の痛みに
身体をふらつかせながら立ち上がる
それから柵の方に
ゆっくりと歩を進め
先程の人物が
置いていったであろう何かを持って
此方に戻ってきた
俺が見上げた
彼女の両手には
どこか“見覚えのある”
銀色の四角い盆が
二つ
件の四角い盆の記憶は
この時ばかりは思い出せなかったが
数日もすれば
何て事はない記憶だ
という事に辟易する
この施設に来た当初
まだ大人達が【優しかった頃】
皆が楽しみにしていた食事で
使っていた物だった
まぁ、そんな事は
どうでもいい事だが
ともかく、彼女は
「食事だよ」
と、俺の目の前に一人分を置く
まだ全身に力が入らず
意識的に動く事が出来ず
見るしか出来なかったが
この施設に来た時には
考えられなかった
湯気の足ってないどころか
とても一食分とは思えない少なさのスープと
見るからに固そうなパンが半切れ
それと、プラスチックのカップに入った
カプセル他、数種の薬
なんとも
【食欲をそそる食事】だこと
…勿論、
皮肉だが
さておき
彼女は目の前で
素早く自分の食事を終えて、
俺に近付く
それから
俺の身体を優しく抱き起こすと
「ごめんね」と前置きをし
彼女は俺の分のパンを
自分の口に含み
数回租借してから
まるで親鳥が雛鳥にするように
俺の口へと口移しの要領で
食事を押し込んできた
俺はもともと食欲が湧かない上に
驚きと恥ずかしさも相まって
飲み込む事すら
出来そうになかったが
そこは彼女が舌で
補助をする
それすら俺の羞恥心を刺激し
どうにか嚥下した直後
「何をするんだ」と
真っ赤になりながら彼女を睨みもしたが
彼女は苦笑いを浮かべ
「私もそうだったけど
“初日”は口すら動かないから
こうでもしないと
食べられないでしょ?」
と、
「ここじゃ食べないと
身体がもたない
それに薬が切れたら
私も君も動けなくなって
最終的には死んじゃう
だけど、その薬だって
刺激が強すぎて
何か食べた後じゃないと
凄く苦しむ事になるよ?」
「大丈夫、薬を飲めば
すぐ動けるようになって
多分、次の食事からは
自分で摂れるようになるから」
と、何事もないという口調で
残酷な現実を告げてくる
【現実】とは言ったものの
この時の俺には
とても理解に苦しむ事柄だったのは
間違いない
しかし、彼女の言う事が
紛れもなく真実であった事は
後に知る事となる
「それに…」
彼女は続ける
「ちゃんと先に
『ごめんね』って謝ったでしょ?
それと、私だって、
恥ずかしいんだからね?」
そう言って
べー、と舌を出して見せた
彼女の顔は
後に忘れる事など
出来ないものとなった