冷たい場所
左右の壁、床と天井
それと、奥の壁を
打ちっぱなしのコンクリートに囲まれ
部屋の内と外とを
頑強な鉄柵が明確に隔てる
極めて無機質な空間
それでいて
ずっと肌が触れている床は
それでも、一向に冷たいまま
目の前の鉄柵も
実際触れなくても解る
この床と同様に冷たいのだろう
そして、空気までもが
残酷なまでに
酷く冷たく感じられ
呼吸の度に、
喉、その先の肺、
酸素を運ぶ血液、
血管が巡る全身までもが
冷却されてゆく感覚に襲われる
既に、
手足の指の感覚はない
人間の常識に当てはめるなら
この先に待つのは
熱力学の法則により
じわじわと死に至る
簡単に言えば
【凍死】だ
死を避ける方法は
大きく二つ
一つは
自発的要因で身体を暖める事
今すぐ身体を動かし
体温を上げる事
もう一つは
外的要因で身体を暖める事
つまり、
火や
毛布、人肌などで暖を取る
温かな食べ物を食べる
などだ
しかし、
そのどちらも難しい事は
明らかだった
何せ、
指の一本すら
自分の意思では動かなかったからだ
“幸い”
身体は酷く震えている
カチカチと奥歯は鳴る
煩い程に心臓は高鳴る
意志がどうこうの前に
身体は一瞬も諦めず
【生きよう】
と必死なのだ
【生きていたい】のだ
「死んだって、
構わないのに…」
そんな思いが頭を幾度も霞める
人生、というには
余りにも短い時間しか
“まだ”生きていない
一致どころか
身体と頭の意向は
正反対とすら思える
全く以て
笑えない話だ
はっきりとした意志の反対は
無関心や無頓着だ
仮に、
もしも仮に
今、
【生きたい】と
思ってみたところでも
変わらず
身体は一ミリも動かない
出来ない
“言い訳”ばかりが
諦めの言葉ばかりが
頭を埋め尽くす
真っ黒に
塗り潰されてゆく
やっぱり
ダメだ
もう
諦めよう
諦めてしまえば
きっと
楽に
ゆっくりと
瞼を閉じた
その時だったー
微かな
それでいて奇妙な音が
聞こえた気がした
「気のせいー」
一瞬は
そう思ったものの
今度は確実に
耳に届く
足音
音からして
革靴か
その類い
そして、音と音の
間隔から歩幅を推測するに
大人の、
それも多分、男性だ
しかし、すぐに
その音の、細やかだが
一つの違和感に気付く
足音と足音の間隔は
一聞、一定だが
その片足の足音が
ほんの少しだけ重たい
着実に
そして真っ直ぐに近づいてくる足音
暫くの後
現れた独特の深緑迷彩柄のズボンを纏う
足が二本
目の前で止まる
革靴か、と思った足音は
目の前の人物の半長靴
それが此方を向くと
鉄柵が
ガラガラと音を立てて動き
次に
何かを放った音が聞こえ
次の瞬間には
背後に何か
落ち、転がる音が鳴る
その音から
ある程度の重さがあり
かつ、
落ちた瞬間の苦しげな呻き声
転がる音の直後、
絶え絶えな呼吸と
弱々しい咳き込む声
音の正体が何か
と、想像するより早く
思わずと
背筋に冷たい物が流れる
“物”のように放られた“それ”は
恐らくはー
そして、
何事もなかったかの様に
目の前の人物は牢の扉を閉め
来た道を、ゆっくりと戻ってゆく
その足音が、
十分に遠ざかり
やがて聞こえなくなる
すると、
背後で衣擦れの音と共に
気配がゆっくりと動き出し
此方に迫ってくるのを
感覚的に、だが
そう直感する
全身の毛が
総立ちする感覚
先程感じた寒気とは
全く別種の悪寒が
全身を震わせる
先程の迷彩服のズボンを履いた
【誰か】は
恐らくは
害意がある
と、いうよりも
無関心や無感情に近い
だが、曲がりなりにも
こうして牢に入れている以上は
積極的な殺意はないのだろう
対して、
今、背後にいる者はどうか
俺自身、自分では動けず
ろくに抵抗は出来ない
加えて、同じ牢の中に居る以上
隔てる物はない
手を伸ばせば触れられる
そんな距離まで気配が迫った
次の瞬間
不意に腕を掴まれ
そして引き寄せられる
牢の入り口、鉄柵と
その先の廊下を向いていた筈の
俺の視界は
凡そ90°、勢いよく回転し、
今度は天井を向く事となる
今から何が起こるのか
【わからない】からこそ
恐怖は倍増する
過呼吸になるのではないかと思う程に
呼吸と鼓動は速まる
先程まで
【生きる事を諦めていた】と言うのに
まるで矛盾し、滑稽なほどだ
だが、次の瞬間
耳に届いたのは
これまでの恐怖と
まるで反する
そんな声だった
「そんなに…怖がらないで…」と
弱々しくも、優しい声色
続けて
「大丈夫、私は…何もしないから…」
隠しきれてない苦痛に歪みながらも
それでいて、奇妙な程に穏やかで
「私は…、私の名前は……」
彼女とは
これが初めての会話の筈なのに
心から安心できてしまう
何一つ嘘がない、と
納得させられる
そんな、声
だった
もう一度、引かれ
俺の視界は再び90°回転し
漸く彼女の顔を
加えて、
状態を認識でき
思わず息を飲む
俺と、ある意味では
同じ高さにあった彼女の顔は
所々とは言えない程に鬱血し
または痛々しく出血し
この時の俺の歳と
さほど変わらないと思われる
幼さの残る彼女の顔は
よく見れば、真新しい傷だけではなく
少し古い傷、例えば瘡蓋のような物まで
確認できる
そんな彼女は苦しげに這いつくばり
それでも
こちらに傷と痣だらけの手をのばしている
表情を作る事さえ
耐え難い痛みを伴っただろうに
それを必死に隠し
穏やかで、屈託のない
そんな微笑みを
こちらへ向けて
「よろしくね
新入り…くん…」
どんな精神状態なら
子供に、そんな仕打ちが出来るのだろう
今、現在となっては
そう感じる
この時、
そうして声を掛けてくれたのは
後に、彼女は
俺の初めての親友となる
そんな人物である
また、そうなる事を
後悔する出会いだった事を
俺が知る由もなかった
この時、
俺は彼女の名前を
確かに、聞いたはずだった
彼女と過ごした日々は
さして長くはなかったが
それでも、その間で
幾度となく名前を
口にしたはずだった
それに加え
その後に起こる、或る出来事からもー
本来であれば
彼女の名前は
忘れ得ぬ名前になるはずだった
だが、
そんな彼女の名前は
今現在、思い出す事は
叶わなくなってしまっていた