追跡者 ③
思考が止まったまま
周囲の状況だけが
淡々と進んでゆく
同じ投薬を繰り返すなら
痛覚すらも取り去ってくれた方が
幾分もマシと言えるのだけど
痛覚を残している点については
敢えて、というか
何かしらの意味があるのか
或いは、
そういった類いの薬剤が惜しいのか
それとも、最も単純に
何ら意味などないのか
定かではないが
そんな答えのない問題は
さておくとしても
そんな時間が
一体どれ程続いたか
正直、
時間の感覚なんてものは
いの一番に狂った物だから
到底計りきれるものじゃないけど
どれくらいか
兎も角、長い時間が経った頃
変わらない繰り返しの中に
単に【変化】と言うと
とてもじゃないが
語弊があるかもしれない
些細な
そう
【違和感】の様な物は
少しづつではあるけれど
次第に感じ始めていた
いや、違うな
認識、知覚
あの頃の俺では
どの言葉を用いた所で
正確には当てはまらない
それはあくまでも
【感覚】のような物で
改めて説明する事は
かなり難しい
それは
ある日、ある時を境にー、
という劇的で急激な変化なんかじゃなく
本当にゆっくりと、
気の遠くなるような時間を経て
【見える】景色が、ほんの少しづつ
変わっていった
今まで見えなかった物が
【見え出し】ている
無論、
【未来が見える】や
【幽霊が見える】等の
超視覚的な物じゃなく
もっと単純に
【視力】が上がっている
というものだ
とは言ったものの
前述した通り
日毎の変化は
本当に微々たる物だった
そうだなー…
例えば
子供の頃を思い出して欲しい
学校や幼児園では時期ごとに
身体測定があるだろ?
あ?
俺は勿論、
どちらも通った事ねぇよ
話を戻すぞ
身体測定
身長、体重
その他諸々の測定だな
その中で
去年より身長が
何センチ伸びた、とか
体重が何キロ増えた、とか
分かるわけだな
さて、では俺は
これを例えとして挙げたが
ここまで聞けば
俺が何を言いたいか
わかるか?
そうだ、身長は、
たった一日では
【劇的に】伸びたりせず
また、日々では変化を自覚し難い
つまりは
そういう事だ
この時の
俺が自覚した変化なんて
まさにそれだ
昨日の自分と比べて
じゃなく
少し前の自分と比べて
変わっている
というものだ
例えば、
俺が意識を取り戻せば
決まって現れる二人組
気付けば
そのゴーグル越しの瞳が見えた
次に気付いた時には
以前まで見えなかった
睫毛の生え際が見えた
また次の機会には
二人の先
天井にある無影灯の
一つの電球
そこに刻印された文字が見えた
と言った具合で
正常な意識状態であれば
驚く、という言葉では
とてもじゃないが表せない事柄だが
でも、
この時の俺にとってすれば
『だから何だ』
という感情だった
【見える景色】
もとい【視覚】が
多少変わったからと言って
置かれている状況は
何も変わらない
投薬され、
耐え難い痛みに
意識を手放す
目が覚めれば
再び投薬されー
その繰り返しだ
何も言葉を発さない
寧ろ、言葉を発す事さえ
無意味にすら感じる状況で
思考すらも
停止に極めて近い状況で
多少、感覚が
変化した所で
何の意味もない
そう、
思っていた
だが、
その日は
本当に突然に
訪れた
俺は
いつもの様に意識を取り戻す
そして、見計らった様に現れた
見慣れた奴らが俺を見下ろす
通常であれば
何かを記録し
俺に投薬をして去ってゆく
だが、
この時は違った
俺の顔を覗き込み
何かを記録するまでは
いつもの動作だったが
奴らは俺の腕に刺さっていた
点滴の類いを、徐に取り去る
その所作は、
実に乱暴なもので
多少の痛みを伴ったが
なんて事はない
投薬で与えられていた痛みに比べれば
微々たる物にすら感じられない
そして、その後
俺の頭には覆いを被せられる
閉ざされる視界
普段であれば
恐怖でしかない筈の
この状況にも
俺の心は
ピクリとも動かない
そして、カラカラという
車輪が回る音がしたと思えば
ゆっくりと身体が揺らされる
どこかへ運ばれている
そう自覚するまで
数秒も要したが
正直、言えば
どうでもいい
そうして、
暫くの後
どこかで止まったかと思えば
無理やりに、身体を起こされ
頭に被せられた覆いが
乱暴に取り除かれる
覆いを取る前から
薄々と分かってはいたが
途端、真正面から
浴びせられる眩過ぎる光に
俺は反射的に瞼を閉じ
顔を背ける
その後も、尚
執拗に
高輝度のサーチライトは
逸らされる事なく照らされている
その凶暴な光線は
幾分経っても
視界に残像のように残り続け
視界を妨げるばかりじゃなく
固く閉じた瞼さえも貫通する勢いだった
暴れる事等を
防止する目的の他
人物を特定させない事も
含まれているだろうが
今更になってー…
態々、こんな事をしなくとも
抵抗する気すら起きないと言うのに
薬漬けの子供に対して
余程、慎重な物だ、と
心底、
辟易する思いだ
どうやら
着替えさせられている
シャツを脱がせられ
パンツごとズボンを下ろされる
そして代わりの衣服が
足元から穿かされる
着替えさせられた、その衣服は
上下一体の
所謂ツナギと呼ばれる形状らしく
耳障りなジッパーの音が
聞いた事ないくらいに長い
続いて革製の手枷がかけられ
ここで漸く、煩わしかった
スポットライトの電源が落とされる
と、次の瞬間
冷たい鎖の音と共に
両腕、もとい手枷が引かれる
さっきは
気付かなかったが
かけられた革手枷には
鎖が取り付けられており
それを誰かに引かれた様だ
いきなりの事に
対応など出来るはずもなく
俺は無様に転んでしまう
床の冷たさ、
転んだ痛み
それらは確かに感じるものの
それでも心は
一ミリも動かない
動く気力を
薬によって削がれ
かつ、どれ程の期間か
定かではないが
長い時間を
ベッドで寝かされていた為に
ただでさえ筋力は衰えて
儘ならないというのに
そんな事は関係などない
心配する言は勿論
ろくな指示すらもなく
立ち上がるのを促すように
再び、無言のまま
更に強く鎖が引かれる
全く力の入らない身体
まるで自分の身体じゃないと
錯覚する程に重たい
それでも
鎖の持ち主は
一切、容赦がない
いや、改めて思えば
極めて感心が薄い様子で
こちらの行動を
待つつもりは、
一切ないようだった
俺は、と言えば
引き摺られるように
フラフラになりつつ
それでも数十秒かけて
立ち上がる
無言の命令
鎖が引かれ
歩く事を強制される
俺は差詰め、繋がれた犬
いや、家畜にすら劣る扱いだ
そうして、
連れられて、
行き着いた先が
仮に屠殺場や、
ごみ捨て場であろうとも
何ら驚きはしなかっただろう
然して、現実は
もっと残酷だった
時間にして
恐らく四、五分程度
歩いただろうか
その後、俺は
手枷を付けられたまま
暗い小部屋に放り込まれた
凍える程に冷たく、
がさつきさえ感じられる
手抜きだらけの
明らかに手抜きが目立つ造りの床は
ここに連れて来られる者に
向けられている感情と
恐らくは同様に
優しさの、ほんの一欠片すらも
感じられない
焦点が合わず
ボヤける景色
凝らした視界で
漸く捉えた目の前の
鉄柵から
ここが牢であると
ようやっと気付けた
もう、指先の一ミリすら
動けない
かといって、
意識が遠退く気配は
一向にない
ただ、
呼吸を繰り返すのみ
そして、
俺は、
この後
真の地獄は
まだ始まってすらいなかった事を
身の随まで
知ることとなった