フラワーダスト
難しい顔をしている。
背中まで伸びたさらさらの髪。腰をかがめて唇をぎゅっと結んで。ブレザーの袖から少しだけはみ出た親指と人差し指を口に当てて難しい顔でショーケースをじっと見ている。
学校帰りだろうが、こんな時間に珍しい。美しい髪だった。少しブラウンがかっていて、もしかして染めたのだろうかと勘繰る。勿体ないなと少し思った。
次の日もまた彼女を見つけた。昨日に負けない難しい顔だった。小さく「うーん」と聞こえてくる。何をそんなに悩んでいるんだろうと思う。ぼんやりと彼女の髪を見ていると、手に持っていたチラシを引っ張られた。
「ちょっと!」
慌てて正気に戻ると目の前におばさんが立っていた。
「あ、すみません!」
「一枚頂いていいわよね。もう、ぼうっとしない!」
「申し訳ございません!」
一枚を婦人に渡してから手元の紙の束に目を落とす。来た時からあまり重さが変わっていない。ついで腕時計に目をやると、もうそろそろ昼休憩が終わる時間だった。一つ息を吐いて踵を返す。せっかく店長になったというのにこのルーティーンは変わらない。おそらくやめても売上に影響はないだろうが、やめるきっかけも無くずるずると続いている。俺はこういうところがある。
もう何日目だろうか、ここのところ毎日見かける。相変わらず飽きずにショーケースを見つめていた。こちらもまた何ともなくその後ろ姿を眺めることが日課になりつつあった。
それにしても何を見ているんだろうか。さりげなくショーケースに近づくとああそうかと思わず声に出しそうになった。
今日は二月十二日、もうすぐバレンタインなのだ。彼女の視線の先には様々なチョコレイトが並んでいた。予想外に安く仕事仲間に買っていこうかと思ったとき、彼女がちらっと振り返った。目が合って、それからあ、と小さな口が開いた。
「深山さん?」
思わず眉根を寄せた。果たして自分はこの少女と面識があるのだろうか。思い出せ……と必死に記憶を漁っていると少女があっけらかんと笑った。
「覚えてないですよね、そりゃあ!私、昔深山さんに切ってもらったことあるんですよ。まだ中学生になったばかりだったので覚えてないと思いますけど。」
「ああ!」
思い出した。確かに昔一度彼女の髪を切ったことがある。でもその時は確か……。
「でも……そんなに髪きれいだったっけ?」
記憶の中の少女はお世辞にも綺麗とは言えない髪質で、一生懸命アイロンをかけたものだ。
「いえ、あの時はそれはそれはひどい状態でした。でも深山さんが一生懸命綺麗にしてくれて、私も頑張ろうって思ったんです。それで必死にお手入れして……。」
「そうだったんだ。すごいね、さらさらだ。」
思わず髪に手を伸ばしそうになり、おっと、と両手を挙げる。
「ごめん。」
「ふふ、大丈夫ですよ。あ、そうだ、私チョコ買おうと思ってるんですけど。」
視線をショーケースに戻すと彼女は細い指でつつつとなぞった。
「この大きなハートのチョコレートと、こっち、こっちの詰め合わせで悩んでるんです。どっちがいいと思いますか?」
彼女の頭の上から覗くと、両手で包めるくらいの大きなハート型チョコレイトがリボンで巻かれている。それからこっちは宝石のように色とりどりなチョコレイトのバラエティパックだ。
「誰かにあげる用?」
そう聞くと少し照れくさいような顔をしてはいと頷いた。
「彼氏に。おかげさまでお付き合いさせて頂いてて。」
「へえ!髪の毛頑張った甲斐あったじゃないか。」
「もうすぐ半年になるんです。初めてのバレンタインなんですけど、どっちをあげようか迷っちゃって。」
ハートの方は女子高生でも頑張れば手が届くお手ごろ価格、バラエティパックはそれよりも500円高かった。
「何もらっても嬉しいと思うよ。」
またえへへと笑った。
「そうだといいんですけど。どうしようかな。」
幸せそうだなと思った。ちらりと時計を確認すると、もうすぐ昼休憩が終わる時間だった。
「じゃあごめん、俺は仕事があるから行くよ。そうだな、ハートの方でいいと思うな。きっと喜ぶよ。」
そう伝えると、彼女は笑って、はいと言った。
仕事帰りに通りかかると、彼女が会計をしていた。店員から紙袋を受け取って嬉しそうにお礼を言っていた。一瞬、まさかずっとここにいたのかと思ったが制服ではなくカジュアルな格好に着替えていたため、また来たのだとわかった。
声をかけると、笑顔で小走りに近寄ってきた。そっと紙袋の口を開けて中身を覗かせてくる。
ハート型のチョコレイトだった。
「こっちにしたんです。500円安いけど、でもこっちのほうが気持ちが伝わるかなと思って。たぶん私も、伝えやすいから。差額の500円分、気持ちをあげようと思うんです。」
「絶対喜ぶよ。君の気持ちに500円は安いくらいだと思うけどね。」
えへへ、とまた照れくさそうに笑ってから、急に真面目な顔をして頭を下げた。
「ありがとうございます。相談に乗ってもらって、それで……」
本当に大したことはしてない。
「髪を切ってくれて。あの時深山さんに切ってもらわなかったら今の私は無いと思ってるんです。ずっとお礼を伝えたくて、なかなかタイミング無かったんですけど、本当に感謝してます。」
思わずにやけそうになって口元を押さえた。
「美容師冥利に尽きるな。こちらこそ、ありがとう。」
その時だった。遠くから男の声が聞こえた。
「おーい、美雪!」
ショッピングモールの入口を見ると、男子高校生がこっちに向かって手を振っていた。
「あ、拓斗くん。」
彼女が呟いて、慌ててスクールバッグを開き紙袋を押し込んだ。
「すみません、もう行きますね。」
「あ、ああ。気をつけて。」
颯爽と駆けていく彼女を目で追いかけていると、少年と目が合った。表情はわからなかったが、笑顔でないことは分かった。
まあそりゃあ自分の彼女が知らない男と話してたら気分悪いよな、と思い反対側へと歩き出した。
同僚にチョコでもと考えていたが会計の桃園に「先パイ、そういうの重いっす。」と言われたのでやめておこうと思った。
「とってもお似合いですよ。」
二月十三日、今日はいつもより客が多い気がする。もうすくバレンタインだからか女性客が圧倒的に数を伸ばし、売上も伸びていた。本番は明日だからか、流石に大きく髪型を変える客はあまりいない。そんな中目の前の客は腰より長いロングから背中中心まで切ってくれという要望だった。我ながら上手くいったと思う。
「ありがとうございます!」
最近、感謝されるのが嬉しくなってきた。今までは社交辞令として流していたが、彼女のおかげでこそばゆく感じるようになったのだ。
会計まで案内し、待ち人数をチェックした。
「北川様、北川つぐみ様ー、どうぞ。」
声を張り上げると待合の端に座ってスマホを弄っている少女が立ち上がった。栗色の髪をしている。
目線はスマホのまま、こちらに近づいてきた。こういう類の子はどうやって歩いてるのかと未だに思う。
席に案内し、タオルを肩にかける。
「本日はどうなさいますか?」
準備をしながら聞くと、何かぼそっと呟いた。
「すみません、もう一度……」
「軽く整えるだけでいいです。長さは1センチで。」
「はい。では椅子あげますね。眼鏡はこちらにお願いします。」
眼鏡を外すとさすがに文字が読めないのか、携帯を膝において目を閉じた。
着々とカットを進める中、ピロン、と少女の携帯が鳴った。程よく日焼けした手がそれにのびて、ロックを解除した。ちらりと見えた範囲では、どうやら彼氏とやり取りをしているらしかった。あとどれ位で終わりそう、と聞かれたのか、「すみません、あとどれ位で終わりますか?」と言ってきた。
「あと15分くらいですかね。お急ぎですか?」
「いえ。」
お前との会話は求めてないと言いたげに顔を戻しすごい速さで返信を打った。向こうも直ぐに返したようで、迎えに行くよ、表示された。
これから彼氏に会うのか、なら気合いを入れなきゃなと軽く肩をまわした。
「いかがでしょうか。」
「……はい。これでいいです。」
「では、お会計へご案内します。」
そう言って入口を見た時だった。自動ドアの横にどこかで見た事のある顔がいた。
『あ、拓斗くん。』
そうだ、確かあの子の彼氏の……。
「たっくん!」
ぎょっとして隣を向くと、少女が彼に手を振っていた。もう一度少年を見る。
間違いようが無かった。彼だ。
「……お連れ様ですか。」
掠れた自分の声を聞いた。
「……ええ。それでどこに行けばいいんですか?」
「失礼しました。こちらです。」
心の底で警鐘が鳴っている。おかしいと言っている。だが何もできまい。最悪の事態は憶測に過ぎない。
「待たせてごめん!どう?」
「可愛いよ。すっごく俺好み。」
「えー、あんま変わってないよ?」
「いいんだよ。そんくらいの長さどストライク。長けりゃ長いほどいーの。」
裾をぐいっと引っ張られた。桃園君が小声で叱った。
「店長。次の方呼んでください。何してるんですか。」
「悪い。」
「しっかりしてください。すごい顔ですよ。……何か?」
「いや、何でもない。沖矢様、沖矢昴流様ー。お待たせ致しました。こちらへ。」
その後はずっと、彼女が頭から離れなかった。
それから何人目か、そろそろ店じまいが迫る頃、心を無にしてシャンプーをしていると、チリンチリンと鈴がなった。来客の合図だった。
「いらっしゃいま……。」
桃園君の挨拶が途切れた。振り返ると、泣き腫らした彼女が立っていた。頬がキラリと光っていた。ボールペンを手に取り表に名前を書いてから、振り絞るような声で言った。
「カットお願いできますか。」
今にも崩れてしまいそうな決壊を必死に撫ぜている。呆然と見つめていると、彼女と目が合った。俺に気付くとむりやり唇の端をつり上げ微笑を作って、それからつっと顔を歪ませた。途端涙が目尻で盛り上がり、滝のように流れだした。見せまいと顔を伏せる。
俺が一歩踏み出すと、はねられたようにパッと顔を上げ、すぐに翻して店の外へ歩き出した。
何も考えられなかった。ただひとつ、彼女を放っておけないということだけは確かにわかった。
仕事を放り出して追いかけると、店を出る直前桃園君の声が聞こえた。
「店長待って!」
振り返るより先に自動ドアは閉まって、右に折れたときドア越しに悲痛そうな顔が見えた。迷惑ばかりかけている。それがわかっていても、止まれなかった。
「……美雪ちゃん。」
店から少し離れたショッピングモール外壁の一角でうずくまっていた彼女を見つける。声をかけるとびくっと肩が揺れて、それからゆっくりと顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃだった。
「みやまさんっ……。ごめんなさっ……。」
こういう時に、どうして良いか分からない。俺はこの子のことを何も知らないし、親身になったとしても上辺だけになってしまう。何も出来ないもどかしさに身の内が焼けるようだった。
「……どうした。」
聞きたくなかった。貴方の顔が嫌いすぎて涙が出たんですと言われた方が、いっそましだった。
「髪、とか、切ってもらおうと思って。深山さんに。そしたらきっとまた変われるから。だから、あたし、あたし本当はっ……。」
手を伸ばせないでいる。
「あたし本当はわかってて。あ、遊ばれてるんだってわかってて。でもずっと目を背けて、頑張ればいつかこんなの現実じゃなくなるって思ってて。」
泣き笑いのような顔をして膝を抱いていた腕をゆるめた。膝の上に、くしゃくしゃになった紙袋が乗っていた。そっと手に取ると、もはや原型をとどめていないハートのチョコレイトが入っていた。チョコレイトの中に入っていたと思われる真っ赤な血のようなジャムが、袋の中に飛び散っている。
「美雪ちゃん。」
「切ってくれませんか。この髪、もう要らないから。長いのが好きって言われてのばして、茶色が好きって言われて染めて、眼鏡は嫌いって言われてコンタクトにして、全部全部あの人のために自分を変えて、好かれたかったからそこまでできたのにもうこんな……こんなの無いよ……。」
笑いながら大粒の涙を流している。笑っていても笑顔じゃない。何も言えない。
「切って、切ってよ。……切ってもらえないんですか、私がもうこれ以上可愛くはなれないから?こんな、こんな無様だからですか。馬鹿みたいで。なら私―――。」
鞄をひっくり返した。細々としている物をさっと漁って、細いペンのようなものを手に取った。キャップをとると、刃が太陽光を反射して光った。チャッと音がして、ハサミへと早変わりした。
左手で横髪を掴み、徐にハサミを近付けた。
「やめろ!」
慌てて右手をハサミへ伸ばす。すんでのところではじき飛ばした。刃に小指が軽く刺さったのか、鋭い痛みが走った。じわっと血が滲み、あっという間に滴り落ちる。
それを見て彼女が血相を変えて右手を取った。
「深山さん!……あ、ああ、ごめんなさい。ごめんなさい!美容師さんなのに、私……。」
「気にしなくていい。でも今みたいなのは絶対にやめてくれ。お願いだからそうやって切らないでくれ。頼む。俺が切るから。……頼む。」
必死に絞り出すと、戸惑った顔をしてわかりましたと言った。ポケットからハンカチを出して血を拭おうとすると、すっと手を出された。今度はこちらが戸惑う番だった。
「私がやります。」
「いや、大丈夫。」
「私のせいですから。……ほんとうに、ごめんなさい。」
たじろぐくらい暗い声だった。ほんとうに自分を責めているのだ。辛いのは全部そっちだろうに。
「……美雪ちゃん。」
「……はい。」
横髪を見つめ、優しく手で梳いた。さらさらの髪がつっかえることなく指の間を滑っていく。
「切ってあげる。俺が責任をもって、前よりももっともっと綺麗にするよ。今の君の比じゃないくらいに。……彼奴なんかが、見ることもできないくらいに。」
はっとしたように顔を上げた。深い眼差しをそのまま見つめ返す。
「でも一つ条件がある。」
「……はい。」
「決着をつけておいで。」
微かに薄い唇が開いた。
「君はまだ何も伝えてないだろう。いわば逃げてきた訳だ。それじゃあだめだ。……闘っておいで。罵っておいで。負け犬にはなるな。」
「…………。」
「待ってるよ。どんな結果になっても、どんな辛い思いをしても待ってるから。俺は君たちのことを何も知らないからね。それと……」
ポケットに手を突っ込んだ。目当てを見つけて引っ張り出す。
「これをあげる。」
「……半額券?」
やっと彼女が笑った。チケットには、『美容院サウザンド・カット半額券』と書かれている。カバのキャラクターから吹き出しが出ていて、50%OFFの文字が太太しい顔をして踊っていた。
「500円だよ。お得だろう?」
片眉をあげてにやっと笑うと、負けじと歯を見せて笑った彼女は口元にチケットを持っていった。
「女の子が弱ってる時に営業なんて、ずるーい。」
手を差し伸べて立たせると、彼女はそのまましばらく、繋がった手を見つめていた。日が落ちている。
「絶対、行きますね。」
「待ってるよ。」
いつの間にか雪が降っていた。
店に戻ると、スタッフが一斉にこちらを向いた。しでかした愚行を思い出し顔が引き攣ると共に、桃園君が大きくため息をついた。
「み〜〜や〜〜ま〜〜!」
背中をバンっと叩かれ前によろけた。同僚の立花だった。
「なんだ、立花……。」
「なんだじゃねーよ!お前急に仕事ほっぽりだしやがって。誰が後始末してやったと思ってんだ。」
「あぁ……お前がやってくれたのか。本当に申し訳ない。ありがとう。」
「俺じゃねーよ。」
「は?」
顎をしゃくる。その先を見ると、桃園君が無言でレジを打っていた。
「まさか。」
「まさかだよ。お前の穴に桃ちゃんが入ってくれたの。で、俺が桃ちゃんの代わりにレジしたの。つまりまあ俺が助けてやったと言っても過言――」
「桃園、ほんとなのか。ずっと、カットだけはやりたくないって言ってただろう。」
面接に来た時のことを思い起こす。人の髪を切ることにトラウマがあって、レジだけでいいんなら、と言われたことを。
彼女はまたひとつ大きくため息をついて、気だるそうにこちらを見た。
「勝手に行っちゃったんだからそうするしかないじゃないですか。常連さんだったし……他に人がいなかったんすよ。」
「俺は!?」
「だから……早く仕事戻ってください。」
営業時間がすぎていてもやることはあった。寧ろここからが時間との勝負だった。歩き出してから、すれ違いざまにもう一度礼を言った。
「……本当にありがとう。あとで、礼をさせてくれ。」
「要らねーよ!」
突然響いた怒鳴り声に、店中の動きが止まった。驚いて見つめると、桃園はカウンターにおいてあったペンを勢いよく掴み上げ、そのまま何かに耐えるように震えたあと、投げやりに下へと叩きつけた。
「そうやって善人ぶって……結局ホイホイついてったじゃんか。自分の年考えろよ……。」
何も言い返せずに沈黙していると、立花がそっとしゃがんでペンを拾った。渡すと、桃園はペンを払い除け、再び床に落とした。すかさず立花がもう一度拾う。今度はさっきよりも速く叩きつけた。
「……ももちゃ――」
「拾って。」
一瞬間があり、もう一度立花が手を伸ばすともっと大きな声で言った。
「拾って!」
ペンのあるところまで移動し、拾ってそっと桃園に差し出した。しばらくそれを見つめていたが、ぱっと受け取ってペン差しに乱暴に差し込んだ。
「……桃園。本当に社会人としてやっちゃいけない事をしたと思ってる。笑いごとじゃないし、最低だ。反省してる。迷惑をかけた。……申し訳ない。」
直角に腰を曲げて謝罪する。微かに震えをまじえた声が降ってきた。
「別に……そういうことじゃない。私はただそんなんじゃないんです。……こちらこそすみませんでした。あのままあの子にいられたら邪魔だったから、先パイをそんなに責めることは……すみません。ごめんなさい、仕事戻ってください。」
ゆるゆると店が動きだす。もう一度小さく謝ってから、自分も仕事に戻った。
立花と桃園が、なにか後ろで会話を交わしていた。
「……先パイ。」
皆が帰ったあと、戸締りをしていた。仕事部屋と裏部屋との仕切りのシャッターを閉めたとき、帰ったはずの桃園がドア付近に立っていた。
「どうした。帰らないのか。」
「……帰ります。」
もう後は店を出て施錠するだけなので手持ち無沙汰になり、桃園の方を向く。
「先パイ。」
「なんだ?」
「私、悪かったとは思ってますけど、謝ろうとは思ってません。先パイのこと、嫌いなんで。」
「いや、今回の件は俺が一方的に悪い。面倒をかけたし相当イライラしたろう、本当に悪かった。」
「……はい。」
一通り会話が終わり、沈黙で満たされた。
「……それじゃあ、そろそろ――」
言いかけた時だった。つかつかと歩み寄って、持っていた紙袋をドン、と胸に押し付けられた。
「本当に、嫌いです。」
「それだけです。」
キィ、と音を立ててスタッフ用の扉から出ていった。
壁にもたれかかって、紙袋を開けた。質素なラッピングがされた木の箱が入っていた。
リボンを解いて箱を開けると、見覚えのあるチョコレイトのバラエティパックと、折りたたまれたカードが入っていた。あのショーケースで売られていたものだった。
カードを開いて、文字を読んだ。目を閉じて、壁にそって腰を落とした。
空気清浄機の音だけが微かに聞こえる、夜の静けさに耳をすましている。
カードには丁寧な文字で『好きです。』と、そしてその下に小さく、『好きでした。』と綴られていた。
冬の匂いがしていた。
校門に寄りかかって、青空を見ていた。下校時間だから当たり前だけど、多くの生徒が友達と、あるいは恋人とはしゃぎながら帰っていく。聞き慣れた声がして、覚悟を決めた。彼が、女の子と一緒に歩いてくる。
「拓斗くん。」
2、3歩前に出て彼を呼び止めた。隣の女の子がしまったという顔をした。彼は顔色一つ変えない。
「おー、美雪。おはよ。」
「たっくん…?」
「今日学校休んでるって聞いたけど。」
「うん、さっき来たの。今日バレンタインだから、どうしてもこれ渡したくて。ちょっとだけお借りしていいかな?」
女の子に向けて言うと、強気な目をして睨んできた。
「いいよ。ごめんつぐみ、また明日な。」
「……わかった。」
女の子が大股で去っていった。独占欲が強いのかな、と思った。こういう子がタイプだったのかな。
少し歩いて、規定の帰り道から逸れる。いつも私たちが一緒に帰るとき、彼はこの道を選んだ。あんまり見られるの好きじゃないんだ、と言いながら手を繋いだ。そういう人なんだと馬鹿みたいに思っていたけど、こういう人だったんだ。
「……さっきの子、誰?」
微笑んで聞くと、意外そうな顔をした。
「仲のいい友達だよ。でも、美雪もそういうの気にするんだな。」
「もってなに?」
「……別に、深い意味は無いよ。」
拓斗くんは足を止めて私をまじまじと見た。
「どうかした?今日いつもと感じ違うじゃん。なんかあった?嫉妬してる?」
いつものように人差し指を滑らせて頬をなぞられた。唇に触れて止まる。とんとん、と軽く唇を叩いて、ふっと笑った。
昨日見てしまったものを思い出し、肌がぞわりと粟立った。
「齋藤くん。」
指を手で包んでそっと顔から離した。名字で呼んだのは初めて会った日以来だった。
「ど、どうかした?美雪――」
「あたしね、知ってるんだよ。」
「……何を」
気丈に作った表情が壊れていってしまう。まだ、まだだめ。
「……。知ってるの。」
泣いてはいけない。
「―――知ってるの。」
彼の胸の中心を見つめた。
「拓斗くんといて楽しかったよ。幸せだったし、すごく……嬉しくて。」
頭の中から思い出を追い出すことに精一杯で、感情の制御に手が回らなかった。
「美雪」
「でもごめんね、拓斗くん全然楽しくなかったもんね、私なんかと、ごめんね。独りよがりなの気がつかなかったんだ。」
彼の顔から表情が消えていく。めんどくさいことになったと思われている。
「でもだったら、言って欲しかったな。」
涙が伝う。だめだと思った。なにかほかのことを考えなければ。
「言ってよ。やだって言ってよ。好きじゃないって言ってよ。」
だめだった。どうやっても溢れてしまう。思い出が溢れて、溢れて呑まれてしまう。
「もういいよね?齋藤くん。」
「美雪!」
「呼ばないで!」
伸びてきた腕を振り払った。
『美雪ちゃん』
「もう気軽に呼ばないで。もう終わろう。」
「なあ、待てって。心配させたなら謝るよ。」
『俺が切るから。』
「触らないで!」
彼の手が髪に触れた。自然と涙が出た。
「二度と触らないで。あんたなんかのために手入れしてたわけじゃないんだから!」
『決着をつけておいで。』
「もう、もううんざりなの!本当はずっと知ってた。あんたがほんとに私を好きじゃないのも、お遊びだったのも、見くびらないで!人形遊びのリカちゃんじゃないの!」
「そんなこと思ってないよ。俺は美雪を一番に考えてる。」
「それでもどうして頑張ったかわかる?……信じてたの!やっぱりどうしても、信じてたから!好きだった。好きだったの。ずっと好きだった……。」
「俺は今でも好きだよ」
「じゃあどうして!」
『負け犬にはなるな。』
「じゃあどうして北川さんと一緒にいたの。今日何の日か知ってる?」
「知ってるよ。でも休んで――」
「絶好のチャンスだって思ったんでしょう?まさか過ごせると思ってなかったから。だからいつもは途中の路地裏で待ち合わせなのに校門から一緒に出てきたの、知ってるから、全部知ってる。」
「被害妄想だよ!落ち着けって!」
「悪あがきだね。もういいんだよ、喜んでいいよ。」
持っている紙袋を両手に分けてひとつずつもつ。片方には割れたチョコレイト、もう片方には買い直した方が入っている。
「これ、どっちのが拓斗くんのだと思う?」
彼は恐る恐る割れていない方を指す。私は笑う。
「そんなわけないじゃん。ほんとバカ。」
左手を突き出して、受け取るように促した。やおら受け取ろうとした瞬間、手を離した。ドサッと音を立てて紙袋がアスファルトに落ち、グシャグシャになったラッピングが顔を覗かせた。
「思い出も想いもチョコも今までも、もうぜんぶ塵だよ。」
右手の紙袋を大切に両手で抱きしめる。
「あんたみたいなクズにはお似合いかもね。」
彼は呆然と俯いていた。
「……ゴミ箱になってあげられなくてごめんね。」
ひとり、路地裏を抜けた。立ち尽くす彼を見て少し感傷に浸って、かぶりを振って駆け出した。
チリンチリンと鈴がなった。
彼女が立っていた。待ちわびたよ、と笑った。
「カットお願いします。」
桃園君と話す声が聞こえる。
「店長が空くのはまだかかりそうですが、お待ちになりますか。」
いつも通りの声だった。彼女は困ったように囁いた。
「すみません、待たせてもらってもいいですか。」
「かしこまりました。」
作業を続けていると、桃園君が伝票片手に近寄ってきた。
「待たせたらぶっ殺しますからね。」
ドスの効いた声でそう言ってスタッフオンリーの扉へ消えた。そう言われてもと苦笑して、それから手を早めた。
「どうでしょうか。」
「いいですね、ありがとうございます。」
後ろ髪をどうにかしてくれという要望だったお客様に鏡を向ける。オーケーが出て、ほっと息をついた。会計に連れて行って、桃園君に受け渡す。
受付表を見る。
「落合様、落合美雪様。」
彼女が立って、はいと微笑んだ。
名前の横にチェックを入れた。
「ご案内します。」
椅子を下げて座らせる。髪を持ち上げてタオルを首に巻いて、シーツをかける。
その間彼女は、どこがこそばゆいような顔をしていた。
「本日はどうなさいますか?」
微笑んでいつも通り聞くと、遂に笑いだした。
「美容師さんですね。」
片眉を上げて反論する。
「美容師だからね。」
「そうじゃなくて。」
彼女が言った。
「いつもみたいに話してほしいです。なんか面白くなっちゃう。」
「面白い?これが?」
「面白いです。深山さんは客に対してもっと生意気であるべきです。」
「魅力的な提案だけど、じゃあそれは君だけにしておくよ。」
「やったぁ!」
無邪気に笑う。少年との戦いがどうなったかは聞かないでおく。
「今日はどうしたい?」
髪を小分けして留めながら聞くと、即座に返された。
「切ってください!」
思わず笑いが漏れる。
「切りに来たんだろう。そりゃ切るさ。」
「あ、えっと……ショートボム!」
「ボブな。ショートでいいの?」
「ボムってショート以外にもあるんですか?」
「俺はミディアムのほうが似合うと思うなー。」
「ミディアムで!!!!」
「そんな安直でいいのか?」
「いいんですよ!」
得意げに胸をそらした。それからこちらを振り仰ぐ。
「信じてますから。」
ハサミを手に取った。
「じゃあ、切るよ。」
彼女がわくわくを前面に出して頷く。座り直して、手を膝の上に揃えた。
冬尽し、ミモザの香が漂っていた。
お読みいただきありがとうございました!
もし少しでもいいなと思ってくだされば、是非感想を下さい。飛び跳ねて喜びます。
素敵な一日を過ごされますよう!