追憶
2020-04-22「Pixiv」にて投稿した作品を転載する。
ピアノについて、私が知っていることは驚くほど少ない。
かなり弾きにくく、それが得意な人間は大抵数学が得意だ、ということくらいだ。
それでも家にはシンセサイザーがあったから、ピアノ曲の初歩の初歩くらいなら、片手で弾くことができる。
片手で。
片手間ではなくて。
……冗談はともかく。
仮にピアノが弾けなくとも、生きていくことは可能だし、弾くことができなくとも、何の曲であるかを理解することは十分に可能だ。
その曲を鑑賞し、楽しむことも。
そして、奏者の腕前に心揺さぶられることも。
その家に入った時、目についたのは大きなグランドピアノだった。
年季の入ったそれは、リビングの隅に追いやられて、どこか寂しげに見えた。かつてはつやつやと光っていたであろう巨躯を縮こませ、何とかそこに適応しようと必死になっている。そんな風に見えた。
昔買ったんだが、と雇い主は言った。
置き場がないものでね。見栄もあって買ったのはいいんだが、メンテナンスが必要だと知ったのは買った後になってからだった。こんな辺鄙な場所から持ち出すのも難しいから、参ったものだよ。
由緒あるものなんですか、と私は尋ねた。だったはずだ、と彼は答えた。
没落した華族が、敗戦を機に手放したものだ。ナチから逃げた、高名なユダヤ人が、その家の人間のために作ったとか、なんとか。
私が買わなかったらコイツはスクラップになっていたことだろうよ、とさも自慢げに言う彼にはお気の毒な話ではあるが、仮にユーゴスラヴィア製のピアノが原価の2000倍で売り出されていても、彼は嬉々として買ったことだろう。
そして、購入額で自慢する。
彼にとってはその程度のものでしかないのだった。
ジャパン・アズ・ナンバー・ワン。
そんな言葉が巷では飛び交っているそうだ。残念ながら私は、ほとんどその恩恵をあずかることもできていないが、とはいえ、三流大学出の人間が避暑地の別荘管理の仕事にありつけたのは、その、未曽有の好景気とやらのおかげだろう。
一応持ってきた履歴書にざっと目を通し、雇い主は鷹揚に頷いて、契約書を作った。
海外ではこうやって書類を作るんだよ、それがたとえ、どんなちっぽけな契約であったとしてもね。
そういって彼は、ヨッコラショとハンコを取り出して、朱肉をたっぷりつけて擦り付けるように判を押した。
そんなわけで、私は仮初とはいえ、この豪華な別荘の管理人に収まったというわけだった。
別荘の管理と言うのもかなりざっくりした内容だったのだが、契約書には抽象的に『家主が快適に過ごせるようにすること』とし書かれていなかった。
初めの一週間ほどはこの文言をどう解釈しようかと悩んでいたものだったが、やがて私はこの別荘を自分好みに変えていくことを楽しむようになっていた。
使われていない部屋の掃除から始まり、パーティ用に用意された数々の食器を改めて磨いたり、挙句の果てには外に出て、草刈まで始める始末だ。
一人暮らしのアパートではもちろんのこと、実家でだってこんなことはしなかったものだが、環境が変わればやる気も変わる、と言うことだろうか。
避暑地として使用されている別荘だけあって、外に出ても快適だ。程よい汗を流しながら草刈を終えると、部屋に戻り、ソニーの最新ディジタルオーディオプレイヤーで音楽を聞く。
もしここに雇用主が帰ってきて、彼の最新のプレイヤーでイギリスのパンク・ロックを聴いている労働者がいたらどんな反応をするだろうか、と考えると、思わず笑いがこみあげた。気分は完全にカウチポテトだ。
このように、私自身がアパートから持ち込んだCDもあったが、最近ではもっぱらここにあるものを聞くことが多かった。
ずらりと並んだグラモフォン・レーベルのクラシック。指揮者は大抵、カラヤンかベームで、その中にはビニールの包装すら剥がされていないものまであった。私はそれをペリッと剥がしてプレイヤーにセットする。ドイツやオーストリアが誇る交響曲の数々。
ソファに体を埋めながら目を閉じてそれを聞いていると、ゆっくりと体の力が抜けていく。
目を瞑ると、雇用主の顔が浮かぶ。俺はジャパニーズ・ビジネスマン、世界を股にかけて仕事をしているんだとばかりの自信に満ちた顔。
そして、他人を見下すことで悦に入るあの独特の目つき。
こういった楽しさも知らずにコレクションすることで満足している彼が、いっそ哀れに思えたほどだった。
音楽が佳境に入ったころ、私は何となく目を開けた。視線に入ってきたのは、あのグランドピアノだった。
掃除の一環として埃を拭き取ったりはしていたが、それ以上のことはしていなかったそれに、なぜだか惹きつけられていた。一旦CDを止めて、ピアノの椅子に腰を下ろす。
金にものを言わせて購入した、と自慢するだけあって、確かに立派な代物だった。普通のピアノであればメーカーの刻印が入っていそうな場所には、金文字で名前が彫ってある。あまりに流暢すぎる筆記体は、私には読み取れなかった。多分製作者の名前だろう。
その少し下に、こんな文字が刻まれている。
”Für meine Elise"
ナチから逃げたユダヤ人、と雇い主は言っていた。
ドイツからはるばる、日本へ。
しかも肝心のナチス・ドイツの同盟国であった日本へ身を寄せたユダヤ人は、自分たちが迫害されるかもしれない、とは思わなかったのだろうか?
私は蓋を開き、鍵盤をじっくりと見下ろした。それから意を決して――なぜ意を決してなのかは私自身わからなかった――鍵盤に指を落とした。
予想以上に大きな音がして、私は慌てて指を引っ込めたが、電子オルガンとは違うピアノは、別荘の吹き抜けに木霊し、余韻と共に空気の中へと消えていった。
私に調律の技量はない。
いつこのピアノが手放され、いつ雇い主が購入したのかは定かではないが、少なくとも、華族のために造られたであろうこのピアノは、愛着と共に手入れされていたのではないか、と私は思った。
食糧を調達する帰り、私は中古のブルーバードを運転しながら、気まぐれにレコードショップに寄った。個人が経営している小ぢんまりとした店だったが、品揃えは他の店にも負けていない。
店主らしき中年の男性は、退屈そうに頬杖をついて、本を読んでいた。
私はその男の前に立ち、CDを探しているんです、と私は言った。
「どんな?」
「ピアノ曲です。ただ……クラシックには詳しくないので」
「クラシックの、ピアノ?」
店主は若干姿勢を正した。さっきまで退屈に曇っていた瞳に、わずかに光が戻っていた。
「ええ。オススメがあれば、是非聞きたいんですが」
椅子から立ち上がった彼は、先導するようにして狭い通路を歩きながら、引き続き尋ねる。
「作曲家とか、演奏者とか。そう言ったのには、特にこだわりはない?」
「ええ。詳しくないもので」
ただ、と私は付け加えた。
「できれば、ドイツ系の作曲家のものを」
ふん、と、侮蔑とも相槌にもとれる声と共に、店主が言う。
「優れた作曲家は、いつだってゲルマン語圏の人間だ」
店主が立ち止まった。背表紙を指でたどって、何枚かCDを抜き出す。
「これとかいいんじゃないかな」
「じゃ、お願いします」
店主はビニール袋の中にCDを二枚、押し込んだ。それから、店を出ようとする私の背中に、こんな言葉を投げつけた。
「CDじゃ本物の音楽は味わえないぞ」
「じゃ、本物の音楽っていうのは?」
「次点でレコード、ベストはナマ」
店主はそう断言した。
別荘に戻ってから、さっそくCDをプレイヤーに入れた。ライナーノーツにはいかめしい顔のベートーヴェンとメンデルスゾーンの姿があった。彼らが作ったという聞いたことのないピアノ曲を、聞いたこともない奏者が演奏していた。
ただ一曲だけ、知っている曲が入っていた。
「エリーゼのために」
いくら何でもセンチメンタルが過ぎたかもしれない。
ドイツ語が彫ってあるピアノを見かけて、ドイツ圏のピアノ曲を買いに出かけるなどどうかしている。
真夜中に目を覚ました私は、そんな風にかぶりを振って、自分の中の迷信を追い出そうとしたが、それもうまくいかなかった。
それもこれも、贅沢すぎるベッドのせいだろう。煎餅布団で暮らしていた人間が、帝国ホテルで使っていそうなベッドを使い始めたから、揺り戻しが来たのだ。
とまあ、テキトウに理由をでっちあげてベッドから出ると、冷蔵庫から100%リンゴジュースを取り出し、グラスに注いで飲んだ。
カーテンの隙間から、わずかに月明かりが差し込んでいる。優しくピアノを照らし出すこの光景は、月の女神の接吻に見えなくもなかった。
その日から私の中で、ピアノの存在感が徐々に増すようになっていた。一通りクラシックを聴き終えて、実際に鍵盤に指を滑らせる。聞いたものをそのまま再現できるほどの腕もないので、一音一音、噛み締めるようなやり方だ。
スピーカーから聞こえてくる、スタジオのこもった音とは違う。同じピアノとは思えないほどだ。重く、空気を震わせる振動。
数十本の黒と白の鍵盤を組み合わせ、一つのメロディを作り出す。それは宇宙を彷徨うような茫漠とした作業にも思えたし、一方で、ボートを漕いで向こう岸まで行くだけの簡単な作業にも思える。
そして私は、気が付けば、昔小学校で習った有名な曲の一節を奏でる。
ピアノ曲の初歩の初歩。
ベートーヴェン、歓喜の歌。
「優れた作曲家は、いつだってゲルマン語圏の人間だ」
店主の言葉が頭の中で何度も木霊した。
その優れた作曲家を生み出してきた国々は、芸術家という夢を断念した一人のオーストリア人によって牛耳られた。人々は彼らに熱狂し、彼らの旗を高く掲げた。そして、彼ら自身の、優れた民族圏を拡大するために血に固執して、国を挙げて人種差別を始めた。
己がドイツ人ではないと徹底的に否定された人々は、今や己が話す言葉にすら、迫害者の影を感じたかもしれない。鉤十字と、髑髏と、ホルスト・ヴェッセル。
ピアノのドイツ語は、どのような思いと共に刻まれたのだろうか。
ピアノに触れるようになってからしばらくたったある日、私は唐突に、奇妙な夢を見るようになった。トーキーのような白黒の映像が断続的に浮かび、消えていく。
一人の紳士が立っている。彼は背広を好んでいたが、夫人の方はいつも着物を着ていた。無論社交ダンスが行われる場では洋装も難なくこなしていたが、取引先の西洋人たちからすれば、ヤマトナデシコを思わせる、着物のほうが有利に事を運べると考えた旦那に従っていたからだった。
それが功を奏したかはわからないが、夫婦は身分的に不慣れと思われていたビジネスを次々と成功に収め、一軒の洋館を建てたのだった。
そして彼らを喜ばせるニュースがもう一つ、二人の間に新たな命が宿ったということだった。
世間では変わらず好景気が続いている。少し足を延ばせば、来日した著名な指揮者率いるウィーン・フィルの演奏を聴くことができたかもしれなかったけれど、私にはそんな気はさらさらなかった。月末、自分の口座に振り込まれた金額を確認して、その金でクラシックCDを増やす。そして戯れにピアノの鍵盤に指を滑らせ、最後に拙く指を動かして第九を演奏する。
そして、夢の続きを追うのだ。記録映画に収められた、一つの家族の歴史を俯瞰するように。
夫婦の間に生まれたのは一人の少女だった。折しも世間は好景気に沸いていた。少し前まで続いていた、欧州の間で勃発した戦争の特需がまだ影響していたのだった。
けれども夫婦は、情勢を楽観視していなかった。負け戦の苦みを噛み締めることとなった国々の処遇は未だ決まらないが、明るい未来が待っているとは思えない。戦勝国ですら国が傾くほどの借金を背負っていた。当然そのツケは敗戦国に向けられるだろう。
加えて、新たに登場したという数々の兵器は、戦争を一変させたというのが、もっぱらの噂だった。殺し合いはより凄惨なものとなり、一種のスポーツのような健闘を称えあうようなものではなくなった。戦場は憎悪と怨恨だけが支配する、そんな場になり始めていた。
いつの時代も先行きは不透明なものだ。ただ、立ち込める暗雲に対し、一個の家族ができることは驚くほどささやかなものだ。夫婦はこの先、どんな未来が待ち受けようとも、愛娘に生き延びる術を教育することが自分たちの義務だと信じて疑わなかった。
雇い主から送られてきたのはテレビだった。労働環境の改善のためと言うよりは、多分、自分が別荘に来た際に楽しめるように設置しておけ、という意味だったのだろう。小売店の技師らしき人々がテレビをセットし、その日の内からテレビを見られるようになった。
一方私は、今更ながら自分が外部の情報を得る手段がほとんど限られていたことに驚いていた。一通り番組を一周すると、カラフルなシャツを着た若者が、ダンスフロアで踊る姿がちらりと映った。
トラボルタと比べるほうがおこがましい、体を揺すっているようにしか見えない滑稽な動き。
けれど彼らは本当に楽しそうで、この先の未来には何一つ恐れるものはないのだと信じているかのように、無垢な瞳を輝かせていた。
テレビを消して、いつものようにソファに座る。プレイヤーの電源を入れると、ソファに腰を下ろす。そして、ふと目を開く。
ピアノの前に、少女が座っていた。短い脚をパタパタと揺らしながら、鍵盤に指を走らせる。彼女にだけは聞こえる音に、嬉しそうにはしゃいでいる。
自分の瞼がぴくぴくと痙攣していることがわかる。いったん目頭を押さえ、再び目を開ける。少女は変わらずそこに座っている。
モノクロームのままで。
CDの収録時間は第九がちょうど収まるように作られている、という話を聞いたことがあった。ウソかホントか、それを提案したのはカラヤンだという。
そんな次世代のオーディオが、終わりに向けて0と1の信号を発信している間に、少女の姿は徐々に変貌していった。スカートは時に和服となり、ドレスとなった。彼女は髪を伸ばし、時折簪を挿すこともあった。
そして、ピアノに向かう彼女の表情にも変化が見られた。楽譜と鍵盤とに交互に視線を落とし、音を確かめる。ぎこちない右手の動きが滑らかになってきたころ、恐る恐る、左手が鍵盤の上に翳される。中指、親指と言った比較的力がこもりやすい指で一音、次に和音。
彼女は一つ一つ、音楽を習得していく。
教養がなければ、生き残ることはできないのだと、両親は言う。
しかし、何事にも限界はある。
芸事はすぐには上達しない。反復ほど退屈なものはない。変わらない自分が嫌になり、変わらない練習が嫌になる。こなれてきたからこそ、彼女の、音楽に対する傾倒もマンネリが始まっていた。
転機が訪れたのは、ちょうどその頃だった。
電話が鳴っていた。私は夢うつつのまま、受話器を取った。この仕事を教えてくれた大学の先輩が、興奮した声でテレビをつけろ、と叫んでいた。私は受話器をいったん乗せると、リモコンに手を伸ばした。
飛び込んできたのは、どこかの銀行が破綻した、というニュースだった。他のチャンネルに替えると、この銀行の破綻は始まりにすぎず、連鎖的に倒産する恐れがあること、金融市場に大きな縮小がみられ始めること、早くも株価の下落が始まったことを、金融ジャーナリストが深刻そうな顔で言っていた。
私はたっぷりジャーナリストの横顔を鑑賞してから、電話に戻った。先輩の声はほとんど泣き声になっていた。
持っていた証券がほとんど紙くずになった、と彼は慟哭した。車も、家も、まだまだローンが残ってる。人生設計が全部パアだ。
お前は何か株とか買ってなかったのかと聞かれ、買ってなかったと答えた。先輩は私を怒鳴りつけた。どうして買わなかったんだ。
金がなかったし、興味もなかった。そう答える前に先輩は、どうせお前だって、すぐに仕事がなくなるさ、と捨て台詞を吐いて電話を切った。私は受話器を戻し、テレビを消した。
そして、プレイヤーの電源を入れた。
彼はひどく不愛想な男だった。
彼はベルリン・オリンピックで、ヒトラーが世界に向けて披露したマジックに騙されることなく、早々に第三帝国を脱出していた。芸術にも理解があると評判だった東洋の夫婦を頼って日本に身を寄せたのだが、直後の日独防共協定は彼にとって青天の霹靂とも呼べるものだっただろう。事実上、ドイツと日本が手を組んだようなものだ。
無論彼は、日本人すべてがヒトラーに賛同しているとは思わなかったし、彼の祖国についてもまた同様に思っていた。彼はトスカニーニの行動力に敬愛の念を抱きつつ、(彼の目から見れば)対極的なフルトヴェングラーに何とも言えない苛立ちを抱えてはいたが、それでも才能のあるユダヤ人をドイツ国内から保護しようとする姿は『消極的な反抗』であると理解の念を示した。もちろん、フルトヴェングラーの才能について抱いている畏敬の念は揺らぐこともなかったことは言うまでもない。
それでも彼は、避難先の日本が彼の祖国を『乗っ取った』ナチと手を組んだ事に対して憤慨しなかったと言えば嘘になる。さらに言えば、どんなに夫婦が西洋に対して理解を示していると言えども、西洋と東洋の文化は決して相容れないであろうと彼は固く信じ込んでいた。事実、日本人が自前の交響楽団を設立しようとしているという噂を聞いた時、彼は鼻で笑ったものだった。
けれども彼に与えられた仕事は、夫婦が溺愛する一人娘に対して教師となることだった。
音楽学校を出た人間特有の選択肢で、彼には三つの肩書があった。作曲家、楽器職人、そして、演奏家。
初めの肩書はほとんど捨てたも同然だった。あのワルターですら作曲はあまり芳しくなかったのだからと彼は自分を慰めたものだ。
続いて楽器職人に関しては、どちらかと言えばこれこそが彼の将来を左右した、先天的なものだった。つまり、両親がまさにピアノ職人であり、息子にも音楽を愛してほしいと思っていたのである。そういう意味では、彼は生まれながらのピアノ職人であった。
最後の肩書は演奏家だったが、彼は自分を凡庸だと信じて疑わなかった。同好の士で集まってちょっとした演奏会を開き、その際に披露することはあったし、また、望まれれば進んで演奏して見せたが、それでも芸事の世界には上には上がいることは歴然とした事実だった。
音楽は、誰かの特権ではない。すべての人間に与えられる宝物なのだ。
だが少なくとも、人種差別を公然と行う連中、特にあの嘘つきドクトルががなり立てるプロパガンダの材料として、かつての偉人たちの遺産が穢されていくことは、彼にとっては耐えがたい苦痛だった。
そんな内情を抱えたまま、音楽を理解できるかどうかもわからない少女に音楽とは何か、を教えなければならない彼の心情は察するに余りあるだろう。
彼は僅かばかりの年長者として、雇用主の娘に対して西洋の礼儀を示した。フロイライン、と呼び掛け、ぎこちなく頭を下げた。
椅子に座った少女は、じっと彼のことを見つめていた。東洋人の中でも特に感情を見せないことで有名な、日本人の少女は、自分を値踏みしているのだろうか?
そうではなかった。彼女はすっと立ち上がり、深々と頭を下げた。それから、ぎこちなく彼の両手を握ると、母音の強調された独特のアクセントで、言った。
"Freut mich, Sie kennen zu lernen. Ich hoffe, Sie haben auch Spaß mit mir."
おそらく辞書の構文を、単語だけ直して持ってきたのだろうが、そのいかにもたどたどしい発音は、彼に大いなる感銘を与えたのは確かだった。彼はぱくぱくと口を動かし、短く、ダンケ、と言った。
彼女の態度が彼の態度を軟化させたのは確かだが、だからと言って甘い採点をするほど、彼は音楽に対し不誠実ではなかった。とはいえ、彼女のピアノの腕前は一朝一夕で身につくようなものではないことは、彼自身がよくわかっていた。
彼女の演奏にフェティッシュともいえるオリエンタルなものを感じるだとか、雅楽の影響がみられるだとか、評論家がやりそうな判断は彼の脳裏にはなかった。
彼は故国から遠く離れた土地でも、モーツァルトやベートーヴェンが息づいていて、決して色あせていないことを知ったのだった。それが、どれだけぎこちないものだったとしても。
音楽の腕前は、聞くことで多少は理解できる。しかし、どのように改善すればいいかは、やはり言語を介さなければ相当に難しい。彼は身振り手振りや、NeinやGutと言った、わかりやすい単語を駆使したが、それでも十分な指導とは程遠いものだった。
やがて、意を決した彼は、彼女の掌に自分の掌を重ね、指使いを動きとして教え込んだ。ドゥ、ドゥ、とピアノの音階を真似しながら。
濁流のような光景が、私を避けて流れていく。名も知らぬ青年と少女の交流。音楽と、ピアノに込められた二人の記憶。頬と頬が触れ合いそうな距離で、二人が微笑む。彼女の誕生祝いに、両親から依頼されるまでもなく作り上げた渾身の出来の、彼女だけのピアノ。互いを理解しようと、熱がこもるにつれて上達していくピアノの腕前。
それらの光景は、あくまでも青年側のものだった。青年の、歓喜を伴った情景の焼き写し。
それを受け継ぐピアノは、頑なに青年の遺志を守っていた。どのような悲劇的な結末が待ち構えていたか、私に教えようとはしなかった。すべての記憶は映画のように美化されて、ピアノは気まぐれに相手に差し出す。
太平洋戦争も、敗戦も、ピアノが売られることとなった経緯すら。
決して踏み込ませることはない。思い出を買い叩くような人間に、想いや感情や、歓喜までは売り渡さないとでも言うかのように。
ピアノとの別れは確実に迫っていた。連日別荘の黒電話が鳴り、私は電話に出た。雇い主がいないかどうかの確認の電話と、恫喝まがいの言葉。雇い主の連絡先は、銀行破綻の報道前後から通じなくなっていた。
私は何もしなかった。銀行が破綻し、特大の不景気がやってくるとしても、私にできることは何もないのだ。再就職の不安もあったが、それでも、私は何もしなかった。
世間で報道されているニュースがよいことなのか悪いことなのか、私には理解できなかったからだ。
何よりも、不景気と言うのは忘れたころにやってくるだけで、永遠に続くものではないと、繰り返し繰り返しピアノが語りかけているからだった。
ピアノは見届けた二人の男女をドラマチックに物語る。二人はやがて、別荘の中を歩き回るようになる。
しかしそれは、あくまでもこの空間が、閉鎖されている間だけだ。
三か月ほど経ってから、差し押さえが始まった。私は契約しているだけの管理人であることを告げた。差し押さえに動いた人間は、委細承知と言わんばかりに頷いた。
私は雇い主について尋ねた。彼は顧客から過剰投資の失敗を責め立てられて自殺したらしかった。彼の負債がどれほどかはわからないが、別荘を丸ごと売ったところで穴は埋まるまい。
私はふと、一つ思いついたことを尋ねた。
「ピアノを譲り受けたいのですが、無理でしょうか? もちろん、買い取るつもりではあるのですが」
代理人だか執行人だかは、冷ややかに私を見下ろした。
「それは、しかるべき債権者に渡る手はずになっている。別荘の管理を維持するために雇われたからと言って、君のものになったわけではない」
そんなことは思いもよらなかった。私は肩をすくめ、彼に鍵を渡した。
最後に部屋を振り返った。ピアノは初めてここを訪れた時のように、冷たく沈黙していた。