最終話:別れ
その日は、朝から何故か落ち着かず、携帯電話ばかり見ていた。
お昼を食べて、そろそろ午後の授業が始まろうとするころ、
ブブブとマナーモードにしてある俺の携帯電話が震えた。
嫌な予感がして、慌てて電話にでると茜さんからだった。
「葵の容態が悪くなったの! すぐに来て!」
おれはそのまま鞄も持たずに教室を飛び出した。
途中クラスメートが何か言っていたが無視して走る。
もう葵のことしか考えられなかった。
葵の笑顔、怒った顔、泣いた顔や拗ねた顔が浮かんでは消える。
病院に着いた俺は、慌てて病室まで走る。
病室の入り口が見えた時、俺は身体が硬直して立ち止まった。
葵の病室からは、入れ替わり立ち代り看護士が出入りしていた。
病室の中からは葵の名を呼ぶ茜さんの声が聞こえている。
震える足で、病室に入っていくと、酸素マスクを着けられた葵と、
ベッドの横には茜さんが座っている。
そしてその後ろに見知らぬ男性が立っていた。
それが葵の父親(翔太さん)だということは容易に分かる。
俺が病院にいるときは、一度も会うことが無かった。
会ったとしてもどんな顔で会えばいいのか分からないけど。
最初に俺に気づいたのは翔太さんだった。
「もしかして君が裕二君かい?」
「あ、は、はい、そうです」
「そうか…、葵のそばに行ってやってくれ」
「はい」
俺はベッドに近づき茜さんの横、葵から見える場所に立った。
茜さんは、涙に濡れた顔で葵の手を握っていた。
「葵…? 裕二君が来てくれたわよ?」
その声に反応した葵は、重たそうな瞼を開いて、俺のほうを見た。
「…ゆー…ちゃん…」
酸素マスクを通して、葵の弱々しい声が聞こえてきた。
弱々しい息づかいをしながらも、俺に語りかける。
「…ゆーちゃん…もうすぐ…お別れ…だよ…」
「な、何言ってるんだよ葵!」
「葵はな、もう少し大きくなったら手術して、元気になって、
そしたら遊園地に一緒に行くんだよ!」
「…そうだね…遊園地…行こうね…」
「そうだよ!…行くんだよ!」
「二人で手を繋いでさ…、アイスクリームなんか食べながら、
二人とも笑顔でさ、いっぱい…、いっぱい…遊ぶんだよ!」
俺は我慢できずに、ベッドに顔を伏せて涙を流す。
葵はそんな俺の頭に手を乗せて。
「…ごめん…ね」と呟いた。
そんな俺の言葉を聞いた茜さんが、涙と嗚咽交じりに葵に縋りつく。
「葵……ごめんね…こんな身体で産んでしまって…ごめんね」
そんな茜さんの肩を、葵の父親の翔太さんがしっかりと掴んでいる。
「ママ…葵は…パパと…ママの子で…本当に…良かったと…思ってるよ」
「葵の…ほうこそ…こんな娘…で、ごめんね…苦労…ばっかりかけて…ごめんなさい」
「苦労なんて思ったこと1度も無いよ、葵はパパとママの自慢の娘だ」
翔太さんは優しく微笑んでいた。
しかしその目の端には涙が滲んでいる。
「…ありがとう……パパ…」
「……ゆー…ちゃ…ん…」
弱々しかった声が、更に弱くなっていた。
俺が涙で濡れた顔を上げると、葵は最後の言葉を紡ぐ。
「…思い出を……ありがとう…そして……葵を…忘れないで……ね」
「あぁ……忘れるもんか! 絶対忘れないよ」
「約束……だ…よ…?」
「あぁ……約束だ」
葵は弱々しく微笑んだようだ、そして……
「パパ………ママ…………ゆー……ちゃ…ん……」
静かに閉じられたその瞼は、二度と開くことは無かった。
「ご臨終です」
無機質な声でそう言うと、医者と看護士たちは一礼して去っていった。
病室には、俺たちの泣き声と嗚咽が響き渡った。
翔太さんの計らいで親族席に座らせてもらっている俺は、
葵の嬉しそうに笑った写真を見つめていた。
その写真は、動物園に行った時に俺が撮ったもので、
よく撮れているということで、茜さんが選んだ。
脳裏には葵の笑顔、泣き顔や拗ねた顔が浮かんでは消えていく。
年齢的な差はあったが、俺は葵を異性として好きだった。
世間から見たら、それは歪なもので許されることではないが、
お互いの中にお互いの存在があったことだけは、紛れもない事実であり、
それを否定したりなどしない。
(葵、今度生まれ変わったら、幸せになろうな…)
不意に涙が頬を伝うが、その視線は葵の写真に向いていた。
その日は、朝から良く晴れた暖かい日だった。
俺は1人で煙突から登る煙を見ている。
葵の天国への旅立ちだった。
火葬場の待合室に居るのが苦痛だったので、
照りつける太陽の下に出てきていた。
「葵…」
「…忘れないよ」
その時、俺の頭を撫ぜるように一陣の風が、髪の毛を揺らしていった。
それが葵だったのかどうかは分からないが、俺は少し微笑むと、しっかりとした足取りで、
燦燦と輝く太陽の下を歩き出した。