第10話:病院
落ち着いた葵は今、静かな寝息を立てて眠っている。
葵の母親(茜さん)は一旦家に帰ると言って、さきほど帰り、
俺は茜さんが戻るまで居てやるつもりだ。
同世代の子たちと比べて、華奢で儚げな印象を受けたのは、
病院にずっといるため、発育が追いついていないためだった。
そんな葵を見つめて、俺にも何か出来ないかと考えることにした。
しかしどこかに連れて行くことも出来ないし、
傍にいて話相手になってやるくらいしか思いつかない。
「…ゆーちゃん」
「お! 起きたか」
「ママは?」
「あぁ、一旦家に戻るってさ」
「そっか」
そう言って身体を起こしたので、俺は布団の上にあったカーディガンを肩から掛けてやった。
「葵?」
「なぁに?」
「何か俺にして欲しいことないか?」
「う〜ん」と考える姿が可愛らしい。
「…ずっと」
「うん?」
「ずっと傍にいて欲しい…」
潤んだ瞳ですがるように掠れた声で言葉を紡ぐ葵。
「…あぁ、いるよ…ずっと傍にいる」
と言って葵の頭を撫ぜてやると、嬉しそうに笑った。
もうすぐ面会時間が終わろうとしていた。
茜さんはすでに戻って来ているし、そろそろ帰るかと思い立ち上がると、葵が俺の袖を掴んできた。
「ん? どうした?」
「帰っちゃダメ!」
少し拗ねたような顔で、しっかりと袖を掴んでいる。
「だけどさ…面会時間終わるし…」
「ダメ!ったらダメ!」
そこでベッドを挟んだ向かい側にいた茜さんが葵を叱る。
「葵! 我侭言うんじゃないの! 裕二君を困らせないの!」
「ゆーちゃんは我侭言ってもいいって言ったもん!」
…はい、そういえばそんなこと確かに言いました。
茜さんが俺をジト目で睨んでくる。
(え? 俺が悪いんですか?)
「お、俺は別に構わないっすよ」
そこで茜さんがとんでも無いことを口走った。
「じゃあ、葵のベッドで一緒に寝てあげてね」
「「…っ!!!」」
「な! なにを言っちゃってんすか!
「そ、そんなのまだ早いよ、心の準備が…」
葵はそう言いつつ顔を真っ赤にしている。
「何が早いんだよ葵! 心の準備ってなんだよ! 意味分かってんのかよ!」
「あらあら、そんなに動揺してどうしたの?」
「あ、茜さんがいきなり変なこと言うからでしょうが!」
「あら、じゃあ私と一緒に寝る?」
「だ!…」
一瞬どもった俺を今度は葵がジト目で睨んでるよ。こえぇ!
「だぁかぁら! なに言っちゃってんすか!」
「裕二君ってホントからかうと面白いわ」
もうなんか、ため息しか出てこないよ。はぁ。
今日は俺が泊まるから、茜さんは家に帰ることになった。
「じゃあ裕二君、葵に変な事しないでね」
「変な事ってなんすか!? しませんよ!」
「ふふ」と笑って、歩き出す茜さん、その背中はひどく疲れているように見えた。
「今日は俺がいますから、ゆっくり休んでくださいね」
振り向いて「ありがとう」と言う茜さんの瞳は、濡れているように見えた。
俺は看護士さんに用意してもらった寝具に寝ている。
「…ゆーちゃん? 寝ちゃった?」
「ん? まだ寝てないよ。 眠れないのか?」
「うん…寝るのが怖いの」
「寝るのが怖い? なんで?」
「…そのまま……目が覚めないんじゃないかって思って…」
薄暗い病室の中で、俺は身体を起こし、ベッドの脇の椅子に座ると、葵の手を握った。
それは小さくて暖かい手だった。
「大丈夫、俺が起きててやるから安心して寝ろ」
「うん…ゆーちゃんの手、大きくてあったかいね」
「そうかな?」
「そうだよ」
そう言うと葵は目を閉じて、眠りについた。
はやっ! っていうかそれだけ、不安だったんだろうな。
俺は空いている手のほうで、葵の頭を撫ぜた。
翌日、面会開始時間にやってきた茜さんは、だいぶ元気になっているようだった。
「裕二君のお陰でゆっくり休めたわ」
「お役に立ててよかったです」
「何かお礼をしなくてはね」
「え? お礼なんていりませんよ」
「でもそれは私の気持ちが許さないから」
「あ…だったら、最後まで葵の傍に居させてもらえないすか?」
「…最後まで?」
「…はい」
その意味を考える茜さんは、少し涙ぐんでいた。
「そういや、旦那さん…葵のお父さんに会ってないですよね?
1度ちゃんと挨拶したいんですが」
「そうねぇ、うちの人は、仕事が忙しくてなかなか来れないわね、
それに裕二君が気を遣うから、とも思っているみたいだわ」
それからしばらく、学校帰りに病院に寄るのと、休みの前の晩は病院に泊まることにした。
病院という特殊な環境の中でも、何もない穏やかな時間が過ぎる。
でもそんな穏やかな時間は長くは続かなかった。