第三十二話 ペアのマグカップ
それは閉店準備をしている時だった。近くに住んで居るお婆さんがやってきた。
ミハルさんの話だと、お爺さんは長い間、病床に臥せっていると聞いたような記憶がある。
「まだお店はやっておるかい」
「はい。大丈夫ですよ」
「これをお願いしたくて持って来たんよ」
そう言ってかなり年季の入ったカップを2個持ってきた。
「もう知っとると思うが、うちの爺さんはもう何年も臥せっとって、もう長くなさそうでな……」
「そうなんですか。お辛いですね……」
「もう慣れちまったわい。それで爺さんがこのカップでお茶を飲みたいと言い出してな、どうせなら綺麗なカップで飲ませてやろうと思ったわけじゃ」
「お爺さんがこのカップを使いたいって何か思い入れが有るんですか」
「そうじゃのう~ このカップはわたしと爺さんが結婚した時の記念にとわたしらにとって大事な人から頂いたものでな。二人にとって大事な日だけに使っていたもんさ」
「分かりました。10分程待ってください。直ぐに仕上げますから」
話を聞いている内に急いで仕上げてやらないといけない気がした。お婆さんも何処か遠い目をしていて、何かを諦めたような感じをしていた。だから俺は心を込めて洗って磨いた。お二人が幸せな気分になれるように……。
マグカップを良く見ると、たぶん二人のスペル(名前)をデザインした模様がカップの縁に書かれていた。お互いの名前を書かれたのを使っていたんだろうか。模様の禿げ方が微かに違っていた。
作業を終えてお婆さんにカップを渡す。
「これがあのマグカップかい。まるで新品じゃ。頂いたあの日が甦ってくるようじゃ」
「早く帰ってこのマグカップで美味しいお茶を飲ませてあげてください」
ありがとうと何度もお礼を言いながら帰られた翌日、お爺さんが他界された事を耳にした。
今すぐ仕上げないといけないとあの時に感じたのは虫の知らせだったのだろうか。
お爺さんの願い通りにあのカップでお茶は飲めただろうか……そんなことが頭をよぎった。
それから数日してお婆さんがやって来て、お爺さんが甦ったマグカップを見て涙を流しながら「これでお前と過ごした時間を幸せな気持ちのままで最期を迎えられた」と言い残して息を引き取ったと教えてくれた。
そして、お爺さんが居なくなった今、このマグカップも使われることは無いだろうと……。
なんでもこれは二人で使う物で、わたし一人では使えない。というか、使う気持ちにもなれないらしい。だけど、お爺さんと大事な時を一緒に過ごしたマグカップ。せめてお爺さんの命日には使ってあげて欲しいと思った。




