第百九十三話 アントンが旅立つ日
見事に一発合格を果たしてくれたアントンを労ってやれるほど時間にゆとりはそんなに無かった。もちろん発表が有った日は学校を出てから教会に報告に行き、帰宅するとマルサールとキッカからももみくちゃにされるほど喜ばれ、俺とタージさんで色々な料理を作り夜にはみんなで祝宴を開いた。本当にこの間の苦労が報われたご褒美時間はこの時間だけだった。。
正直、医学学校が全寮制だとは知らなかったからアントンがこの家から居なくなることは想定外の事で心のどこかで寂しさを感じていた。しかし入寮まで5日しかない。一週間後には入学式だ。それまでに学校で言われた物を用意しなければならないからだ。物によっては入寮後にしか手元に届かない物も有ったがそれはしょうがないことだった。
いよいよ明日が入寮の日。今はあらかじめ書き出しておいたリストと照合しながら漏れが無いか最終確認をしていた。
「いよいよ明日だな。こんなに早くアントンが居なくなるとは思わなかった……」
「僕もです。こんなに早く店長からの課題を達成できるとは思っても居ませんでした」
「おれがアントンにしてやれるのはここまでだから、あとは自分の努力だからな」
「はい」
「それと、ここはもうお前の家でもあるんだから時々は顔を店に来いよ」
「はい」
「あと…… 何でもない。身体には気をつけろよ」
「ありがとうござます」
その夜、アントンはマルサールとキッカの3人で遅くまで何やら話をしていたようだ。
翌朝、入寮の日を迎えた。17時までに入寮手続きを済ませるように案内書に書いてあったが、あまり遅くすると後ろ髪を引かれるからと12時には出かけるが、それまでは店に出ていたアントンの元にたくさんのお客が見送りに来てくれていた。
「トンちゃんが居なくなるなんて残念だわ」
「医学学校に行くんだ。将来が楽しみだよ」
「たまには帰ってきてね」
「これから修繕は誰に頼めば良いのかしら……」
いや、俺が居るから……と心の中で突っ込んでしまったが、寂しさを感じていたのは俺だけではなかったようだ。
「みなさん。ありがとうござまいす。学校へ行っている間はなかなか会えないかもしれませんが俺が戻れる場所はここしかありません。だから時々帰っても来ますし、長期休みの時は店を手伝うつもりですからその時はよろしくお願いします」
アントンがあいさつをすると「頑張れよ」「良い医者になれよ」とみんなから声がかかり拍手が沸き起こった。中には「お嫁に貰って」と、おかしな声も聞こえたがこれはスルーだ。
そして多くの人に見送られてアントンは学校に向けて歩き出した。
主人が居なくなったアントンの部屋。さっきまでここに居た形跡も残さないほど綺麗に掃除された部屋。正直に言って共に作業をしていただけあって一番可愛かった。言葉による会話は少なかったけど仕事を通して無言で語り合う経験がなかった俺だがそれも心地よかった。
「店長~~ お客さんだよ」
マルサールが呼びに来た。そしてこの訪れた客によりまたしてもトンデモ無いことに巻き込まれる事になるのだった。




