八.
銀色に煌めく刃。
客の増えた車内に、悲鳴が響き渡っていた。
「騒ぐんじゃねえ! 少しでも騒ぐとぶっ殺すぞ!!」
定型文を叫ぶ男。
その右手に、包丁。切っ先は運転手の首筋に据えられていて、それは、走行中の車内が少しでも揺れれば今にも肌を裂いてしまいそうな距離感で、これが決して冗談の類ではないことを知らしめていた。
泣き喚く幼子、震える老婆。
悪漢もまた、興奮で頬を紅く染め上げていて、一歩間違えれば大惨事に至らないとも限らない張り詰めた緊張感が車内中に走る。
阿鼻叫喚の車内で一人、悠介は、バスジャックなんて本当にあるんだなあとぼんやり思っていた。
どうでもいい、というのが率直な感想であった。バスジャック犯が凶行の末に目的を成し、たとえば大金を得ようが、あるいは志半ばで警察に逮捕されようが、悠介の人生には、もちろん、微塵の影響もあろうはずがない。あるいは、なにかの間違いで悠介が凶刃に倒れたとしても、悠介自身が一切困らないというのだから、やはり慌てふためく必要などどこにもない。
この、バスジャック中の車内においても、悠介は無敵の人であった。
「停留所をすべて通過しろ。少しでも指示したルートから外れたら殺す」
悪漢は、刃物を横向きにして、包丁の平の部分を運転手の首筋に押し付けた。包丁のひんやりとした感覚が運転手に伝わり、過呼吸気味だった運転手の呼吸がさらに慌ただしく波を打つ。
そんな運転手の様子を傍らで見ながら、存外、冷静な頭で悪漢は考えた。
もしも、この運転手に倒れられでもしたら、このバスを動かす者がいなくなる。この運転手は、人より気が弱いみたいだから――もっとも、バスジャック犯に包丁を突き付けられる運転手の比較対象を知らないのであるが――この運転手ばかりに、あらゆる精神的負担を押し付けるのは得策ではない。
“バスの運転”と“凶刃の恐怖に晒される人質”の役割は、分担させるべきである。
そう思い至った悪漢は、あらためて車内を一望し、人質に相応しい者の品定めを行った。
そして、そんな悪漢の思考回路を、車内の誰よりも冷静な頭で、悠介は驚くほど正確に掌握していた。
悪漢からほど近い優先席に腰かけている悠介は、悪漢の一挙手一投足を把握していた。特異な行動をとる者を凝視するというのも、ダウン症患者としてはさもありなんという挙動なのであるから、遠慮をする必要はなかった。
悪漢が人質を探しているのを察したとき、悠介は、ここが程よき引き際なのでは、と思った。
死ねるかもしれない。
あの鈍色に煌めく刃が、ついに、自身の生命活動を終わらせてくれるかもしれない。
そんな、期待にも似た思惑を込めて、悠介は、悪漢の顔を真っ直ぐに見据えた。
悪漢と、目が合う。
数秒の沈黙の間、二人は真っ直ぐに見つめ合った。
けれど、悪漢は、先ほど、ちらりと老婆と目が合った際にはそれだけで怒鳴り散らしていたにもかかわらず、悠介に対してはなんら敵意を示すことなく、すっと視線を外した。
そうして、悠介の一つ後ろの席に座る、制服を着た女子中学生に目星をつけた。
――魔除けの仮面が、いついかなるときでも、災厄から悠介の身を護る。
悪漢は、包丁を構えながら車内を闊歩して、女子中学生の傍らに立つと、一言「来い」と言った。
失望が、悠介を襲う。
“魔除けの仮面”の効力に、思わず失笑が漏れる。重々、理解していたはずなのに。
死ぬるのは、今日のこの日でも、あるいはまた今度の機会でも、いつでもよかった。別に、どうしても今日死ななければならない事情があるというわけではない。
なので、その感情は、虫の居所が悪かったとしか形容しようがなかった。
失望は、やがて腹の底で別の感情に変貌し、悠介の体内を所狭しと暴れ回る。それは、他ならぬ、憤怒の炎であった。
八つ当たりである。どうしても死ななければならぬわけではないが、「今日、死ねるかもしれない」という期待を裏切られた悠介の失望は、存外、大きかった。そしてそれは八つ当たりという形で、悪漢に向かう憤怒の炎となった。
見知らぬ女子中学生の身を守りたいなどと、そんな野暮ったい想いが悠介にあるわけではなかった。微塵も、なかった。悪事を働く男に対し、義憤を燃やしているわけでもない。
ただただ、己の期待を裏切られたことに八つ当たりの念を抱え、そして、悪漢のその大いなる“同情心”を、食らってやりたいと、考えただけだった。
悠介は、傍らに立つ悪漢の包丁を指さした。
そして、叫んだ。
「ああああー!!」
思いっきり、寄せて。阿呆のように。間抜けのように。魔除けの仮面を全身に被って、叫んだ。
その声に悪漢はびくりと身体を強張らせ、女子中学生に向けていた包丁を翻すと、声の出処に向けた。
「包丁!! ほうちょー!」
しかし、声の出処が“悠介”であることを理解すると、舌打ちを一つして、思わず悠介に向けた包丁を、ぱっと天井に向けた。
ちょうど、悪漢の手首の腹が、悠介の目の前に差し出されるような形となった。
反射的に、身体が動いた。
悠介はその手首に顔から飛びつくと、力の限り、かぶりついた。
悪漢の悲鳴が車内に響き渡る。
噛む、などという生易しいものではない。悠介の歯が肉を裂き、鮮血が散る。手首から肉が剥がれる。力の限り、悪漢の手首を噛み千切った。
悪漢の左腕が悠介のこめかみを幾度も殴打した。悪漢の左膝が、悠介のみぞおちを幾度も蹴り上げた。
それでも悠介の口は、狂ったように悪漢の手首にしがみついた。鬼の形相であった。
やがて、悪漢の右手から包丁が剥がれ、バスの床で冷たい音色を鳴らすと、それを機として、車内の男たちが一斉に悪漢へと襲いかかった。
床に押し付けられた悪漢の傍らで、悠介は、血に染まった形相で仁王立ちになっていた。
〇
――3週間が経っていた。
暗い部屋で独り、なにをするわけでもなく、布団に横たわっている。
惰眠を貪るでもなく、身体を癒すでもなく。ただ、横たわっていた。
窓を覆う遮光カーテンの、その縁まで完全に漆黒に覆われているのであるから、今は夜である。
少し、思うところがあった。
悠介には、勝算があったわけではなかった。
死んでもいい。むしろ、死にたい。その捨て身の心意気が反射的に身体を動かし、偶然、悪漢を討ち取ったに過ぎない。あんなものは、幸運としか言いようがなかった。
けれど、勝因は幸運だけではない。
それは言わずもがな、悠介に包丁を向けた悪漢が、思わず包丁を翻し天井に向けた、あの瞬間。あの愚行がなければ、今回のような結果にはならなかったであろう。
ここのところが、悠介には少し、腑に落ちなかったのである。
彼とて、伊達や酔狂でバスジャックという凶行に思い至ったのではなかろう。さぞかし、苦悩と葛藤に悩み苦しんだ末の、究極の判断だったのであろうと、その心情を察するには余りある。
そんな彼が、わざわざ己の身を危険に晒してまで、凶刃の切っ先を悠介に向けることを避けたのである。
これは、とても非合理的な判断であるように悠介には思われた。もちろん、その瞬間まで悪漢にとって悠介は紛うことなきダウン症患者であっただろうから、その悠介に足元をすくわれるなどとは想像すらできなかったであろうことを差し引いても、である。
見知らぬダウン症患者に刃物を向けることが、彼にとってはそれほどの禁忌だったのであろうか。
バスジャックの成就と、ダウン症患者に抱く同情心を秤にかけて、おおよそ釣り合いがとれるほど、彼にとって同情心とはそれほど大きいものだったのであろうか。
それは、もはや、“同情”ではなく、“温情”なのではないか?
己には、哀れみの視線しか向くことはないと思っていた。悠介が、これまで食らってきたと思い込んでいた、“同情心”。もしかすると、その、正体は。
そして、悠介は思う。彼の“温情”を盾にして、謀り、足元をすくい、討ち取った。彼の悲願の邪魔をした。
むろん、論ずるまでもなくバスジャックは悪である。何者かにその成就を妨げられたからといって、彼が文句を言ってもいい道理などはどこにもない。
けれど、悠介は?
魔除けの仮面を被り、これまで数多の人間の“温情”を己の糧としてきた。
バスジャックが論ずるまでもない悪ならば、己の存在は、果たして――。
悠介は身体を「く」の形にして起き上がると、部屋の隅の椅子を拾い、布団の上に置いた。
のそりと椅子の上に両足で立つと、ちょうど顔の前あたりに縄で繕った輪が来ていた。まさに設計通りの位置である。
数秒の逡巡ののち、静かに両手を伸ばすと、悠介は、梁に結ばれていた縄を解いた。
悠介が、ひとり、雨の中で佇んでいた。
傘はない。屋根もない。降りしきる雨粒のひとつひとつが、確実に悠介の身体を湿らせてゆく。
しばらくすると、背後にしていたコンビニエンスストアから若い男が出てきた。年は二十を数えたばかりというところであろう。髪は紅く、ズボンはだらしなく下がっていて、耳たぶを金色に光る装身具が貫いていた。
「まーた、傘、ないんスか?」
この日は、男の恋人の誕生日であった。付き合いたてである。なにもかもが楽しい時期である。例によって、男はいささか心が広くなっていた。慈愛の精神に満ちていた。
「これ、使っちゃっていいっすよ。たくさんありますから」
そう言って差し出されたビニール傘を、悠介はちろりと振り返った。
――顔立ちは、変わらない。
釣り上がり気味の瞳にぱっちりとした二重。鼻は潰れたように低く、顔全体がのっぺりと平坦である。
けれども。
“魔除けの仮面”を脱ぎ捨てた悠介の瞳には明かりが灯っていて、その表情はいささか逞しく感じられた。
「いいえ。少し、自分の足で生きてみたいと思ったんです」
そう言って、悠介は、降りしきる雨の中を駆け足で去っていった。
(了)
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
なにか一言お声がけいただけますと、本当に嬉しいです。
また、次回作でお会いできましたら幸いです。多謝。