七.
薄暗い部屋で独り、なにをするわけでもなく、布団に横たわっている。
今年は悠介が二十八になる年であるから、布団は少なくとも五年は洗われていない計算になる。黄ばんだ枕に髪を預け、なにをするわけでもなく。惰眠を貪るでもなく、身体を癒すでもなく。ただ、横たわっていた。
人らしい感情など、とうの昔に溶けてなくなってしまっていた。
一歩、一歩。“魔除けの仮面”を着けて歩くたび、どろどろに溶けた“人らしい感情”が足の先から漏れ出ていってしまったかのような。
悠介は、もう、人として終わっていた。
ダウン症患者を騙り、人の同情心を弄ぶ。それだけを生き甲斐にしてきた男である。
いや、生き甲斐という表現すら、もはや相応しくはないのであろう。
悠介は、ぎょろりと、目玉を上に移動させた。
横たわる悠介の頭上には、梁にかけられた縄が物々しく吊るされていた。縄の先には、ちょうど悠介の頭がくぐれるくらいの輪を繕ってある。
たとえ、今日、死んでも構わない。
その心意気が、悠介をいささか大胆にさせていたのは事実であった。
4時間ほど、そのままの体勢で過ごしていた。
朝と夜の感覚を、遮光カーテンの縁を彩るかのような白い光が教えてくれる。
悠介はのそりと身体を起こすと、「く」の字になるまで大きく背を反らせ、全身の鈍い軋みを蒸発させた。あばら骨が、白いシャツの上からでも判るくらいに色濃く息吹く。腹の底の底から湧き出たような、言葉にならない唸り声が低く響く。
着の身着のまま部屋の扉を開いて、悠介は、魔除けの仮面で全身を覆った。
不摂生な身体を焼くように、太陽が強く照る。脂ぎった前髪が、歩くたびに視界で揺れる。
悠介はふらふらとした足取りであたりをさ迷った末、タイミングよく停まっていた市内バスにあてもなく乗り込んだ。
車内は閑散としていて、数人の乗客がまばらに座席を埋めているだけであったが、悠介はあえて優先席に目星をつけると、なんら躊躇うことなく腰を下ろした。
市内バスは、悠介にとって格好の“遊び場”であった。
降車の際、わざとらしく鞄の中身をまさぐるのに手間取ってみせれば、顔パスで運賃を免除してもらえる日もあるし、そうでなくとも、悠介の住む自治体は生活保護受給者というだけでバスの運賃が無料となるのであるから、いずれにしろ運賃を徴収されることはない。
言わば“2段構え”の体制である。
けれど、悠介にとっては保護証明書を提示することなく運賃を免除してもらうことができれば“勝ち”と、こういう感覚であった。
その他にも、満員の車内ではこぞって悠介に席を譲ろうとする阿呆共。
わざとよろめいてみせれば、心配そうに駆け寄ってくる間抜け共。
そういった連中の同情心を食らうことで、悠介はどうにか生き長らえていた。それは比喩などでなく、本当に、この趣味がなければ悠介は既にこの世にいなかったであろう。
悠介を哀れむ同情心だけが、悠介の生きる糧であった。
時間が、無為に流れてゆく。
窓際の席で太陽の熱を感じ、時折、微睡ながら。
あてもなくバスに揺られる。今日、このままどこかで死のうかなと、本当になんとなく頭を過ぎる。
――しばらく、眠っていたようだ。
目が覚めると、そこは地獄の沙汰だった。
次回、完結。