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三.

 そもそも、母は最も間近な第三者としてかねてより観察を重ねていたわけであって、悠介の外見的特徴がダウン症患者特有のそれと酷似していることなどは、本人が自覚する遥か昔から理解していた。

 ダウン症の検査を受けさせてみよう、と母が意を決して口にしたのは、悠介が初めての誕生日を迎えるよりも早かった。

 むろん、検査をしたとて、悠介がダウン症であるという事実などは一切出てこない。悠介は、ダウン症という症候群に()らずして、真っ当に、素面で、この顔立ちなのだから。


 その事実こそが、母の中の黒い感情を()ませていった。


 悠介が三歳になるころには、もはや母は悠介を連れて歩きたがらないようになっていた。

 幼稚園への送迎などはもっぱら父の分担で、母は件の日のように隣町までバスで出かけるときなど、知り合いの目のない土地へ出向く際に限って、(それでも渋々ではあるが)悠介の手を引いて歩くようになっていた。


「もしも本当にダウン症だったなら、もっと悠介を愛してやることができたと思う」とは後々(のちのち)の母の弁だが、母が悠介ではなく己の世間体を優先するからには、詭弁の域を出ないであろう。


 さりとて、母が件のバス運転手に怒り狂ってみせたのは、そうした己の黒い感情に罪悪感を抱く幾ばくかの良心が、あの時点ではまだ残っていたからでもあった。

 自分は悠介の顔立ちについて強い嫌悪感を抱いている。身の毛のよだつほどの嫌悪感を抱いている。きっと、それは母として失格なのだろう。それくらいは自覚している。

 しかし、無礼極まりない運転手に対して怒り狂っている間は、母としてしっかりと立ち振る舞うことができているように感じられた。まるで自分が良い母親であるかのような、心地の良い錯覚に溺れることができた。


 己の非を覆い隠すかのような、利己的な計算の上に成り立った、青く、冷たい憤怒の炎。

(そのせいで失業にまで追い込まれた運転手からしてみれば、迷惑極まりないのであるが)


 まだわずか六歳だった悠介は、しかし母の怒りの形相を見上げながら、幼心に憤怒の温度を敏感に察していた。


 ――おかしいな。

 なんだか、ちがう。お母さんは、本気で怒ってやいない。

 どうして? どうしてこんなことをするんだろう。

 ()()で怒って、なんのためになるんだろう。

 運転手さんが、かわいそう。

 “手帳”って、いったいなんなんだろう。


 あのとき降って湧いたいくつもの疑問が。

 楔のようにいつまでも消えることのなかった、説明しようのない負の感情が。


 悠介の成長と共に、必然のように瓦解していった。

 歳を重ね、背も伸び、清濁併せた知恵を備えていくにつれて、あの日の疑問が、まるで始めからなかったかのようにするすると溶けてゆく。


 そして、母の、冷たい炎の正体も。

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