蛇の呪い
美しい紅葉に目をやりながら、私は彼女の後ろを歩いていた。
「やっぱり山の空気はいいね。気持ちいい!」
由美子はそう言って手を広げて大きく息を吸った。
「バイオリン持ってきてみても良かった気がするわ。」
「え?」
「この赤く燃える山々を背景に音を奏でたらそれはそれは気分がいいと思わない?」
「そう、かもしれないね」
「なんだかつれないわね。昨日から機嫌が悪いみたいだけどなにかあったの?」
「君が心配しているようなことではないよ。」
「そう?ならいいけど。」
女性特有の鋭さに肝を冷やしつつ受け流す。
父の遺産の問題でここのところ息の詰まるような空気が我が家を覆っていた。
莫大な遺産があるにもかかわらず、父は遺言を残さなかった。
その御蔭で我々遺族はその分割に苦慮することになったのだ。
晩年の看病などに私と母が苦労したにもかかわらず、ほとんど見舞いにすら来なかった叔父や叔母が声高に権利を主張する様を見て、怒りを感じながらも呆れ返っていた。
そんなことが続いているものだから、苛立ちが自然に顔に出てしまっているのだろう。
そんなふうにここのところの生活を思い出していたところだった。
「きゃあ!」
由美子が叫び声を上げながら尻もちをつきそうになる。
「おっと」
たまたまうまく支えに入れたので彼女は尻もちをつかずに済んだ。
「どうした?」
「蛇!大きい!」
驚きのあまり片言に答えを返す。
「確かに大きいな。もう肌寒いのに元気なもんだ。」
「感心してる場合じゃないってば。」
「まあ見てなって」
使っていた2本のストックを箸のように束ねると蛇の頭に向けて突き立てる。
するとバスケットの部分がうまいこと頭を押さえつけることができた。
私は暴れる胴体に腕を叩かれながらも頭のすぐ後ろを掴む。
「ほら。どう?」
「いや!やめてよ!」
口の開いた蛇の顔を由美子に見せると由美子は露骨に嫌そうな顔をする。
「これはアオダイショウだな。毒はないから安心しなよ。」
「ちょっと、早くあっちへやってよ。」
そのとき、私は妙なことを言った。
「蛇ってさ、食べられるんだよ。知ってた?」
「知ってたところで食べようなんて思わないわ。まさか食べるつもりじゃないでしょうね?」
「そのまさかさ。味もうまいらしいし。」
「いや。ほんとにやめて。」
「今日の私は機嫌がわるい。少しは腹いせさせてくれ。それに、別に君に食べろと言ってるわけじゃないんだからさ。」
「見るのも嫌。」
「今日の僕は強情だよ。」
そう言いながら手頃な石を見つけると、蛇の頭に向けて勢いよく振り下ろした。
「いやーっ!」
由美子は叫び声を上げて目を逸らした。
「お、すごいな。頭が潰れてるのに動いてる。」
「もう今日のこの出来事だけであなたと別れる十分な理由になるわ。本当に。」
「そこまで言うことないだろう?これで今晩の食事が少しは豪華になるってものさ。」
不機嫌な由美子をよそに私は上機嫌だった。
思えば、このときすでに私は常軌を逸していたのかもしれない。
捌くのはとても簡単で、手持ちの十徳ナイフでも事足りた。
皮を剥ぎ、内臓を抜いたものを軽く水ですすぐと、スーパーの袋に入れた。
その後の道中もずっと由美子は私の行動を咎め続けた。
しかし私はそれほど罪悪感もなく、むしろいい経験をしたと思っていたくらいだった。
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キャンプサイトで夕食をつくり、二人でランタンを囲みながら食べていた。
ぶつ切りにした蛇を私は蛇汁にした。
「思ったよりいい出汁が出てるな。臭みも全然ない。」
鶏肉にもにた淡白な味は爬虫類を食べているという感覚を薄れさせた。
上機嫌な私を見ながら、由美子はいかにも嫌そうな顔をする。
「そんなこと言ったって食べないわよ。」
「考えてみなよ。普段食べてる鶏、豚、牛だってみんなこうやって血抜きして捌かれてるんだ。そんなに違いはないだろう?」
「でも嫌なものは嫌。」
私は肩をすくめると、蛇汁に舌鼓をうった。
「私の家はね。蛇にちょっとした思い入れがあるのよ。」
「思い入れ?あんなに嫌がってたのに?」
「いい思い出だけが思い入れじゃないわ。」
「ふーん。で?」
ズルズルと汁をすすりながら話の先を促す。
「父が昔、まだ所沢に家があった頃、車で蛇を引いてしまったことがあったの。」
由美子は昔を懐かしみながら目を細める。
「でもほら、あったことあるからわかると思うけど、うちの父は弱気というか優しいでしょ?だから、わざわざ引いた場所まで戻って脇の土を掘ってそこに埋めたのよ。」
「確かに。やりそうだ。」
「しかも、その後その道を避けて通るようになったのよ。気味悪がって。」
「ははは。」
「でもね、その次の日、その蛇を引いた目の前で派手な事故があって、死人が出たの。だからうちの家では蛇は不吉な出来事の予兆なのよ。」
「たまたまだろ?流石にオカルトがすぎるぞ。」
「何を言ってもいいけど、私にとっていい思い出じゃないことは確かよ。だから蛇は食べない。あなたこそ、普段そんなことしないのに、今日はどうしたの?本当に。」
「少し腹の虫の居所が悪かっただけさ。もう平気だよ。」
「遺産のことでしょ。」
「今くらいは忘れさせてくれ。頼むよ。」
「わかった。でも私だって力になりたいわ。お父様には良くしてもらったし。」
「確かに、今うるさく言ってくる奴らよりも君のほうが親父に会ってるだろうな。」
「本当に、惜しい人をなくしたわ。早く婚約しておくべきだった。」
「仕方ないさ。容態が急変したんだ。予想よりもずっと早かった。」
「そうね。ところで、結婚はどうするの?」
「今は待ってくれ、相続問題が解決してからだ。それに流石に若すぎるんじゃないか?僕はまだ在学中だぞ?」
「そうね、一緒に住んですらいないし、お父様が居ない今、焦ることはないわね。」
彼女は仰々しく頭を下げると食べた食器を片付け始めた。
「それ、食べ切れる?」
「余った分は捨てるつもり。もともと味見のつもりだったからね。」
「そのへんに捨てないでね。マナー違反よ。」
「トイレに捨てるさ。」
しばらく舌鼓を打っていたが、やはり食べきれずに捨てることになった。
「行ってくる。」
「いってらっしゃい。」
キャンプサイトの厠に蛇汁を捨て、戻ろうというときに、奇妙な体験をした。
厠の屋根から蛇が飛び出し、顔に覆いかぶさってきたのだ。
驚き手で払いのけた、と思ったのだが、蛇はいなかった。
狐につつかれたような気分で由美子のところへ戻ると、私は先の話を話そうと彼女に話しかけた。
「さっき蛇が突然降ってきて、」
そこまで言いかけたところで彼女の様子が不自然なことに気づいた。
「おい、どうしたんだ?」
彼女は焦点の定まらない目で宙を見つめたまま、やや猫背になって立ち尽くしていた。
私は彼女の前に立つと肩にそっと手を伸ばした。
その時だった。
「うっ!」
彼女は血相を変え私の姿を血走った目を大きく見開いて見つめたかと思うと、逆に私の肩をものすごい力で掴み返してきた。
「おい!どうしたんだ!」
痛いほど力を込めて握られて思わず声を上げたが、彼女の鬼のような表情に次の言葉が出ない。
どれほどの時間だったかはわからない。
大した時間ではなかったように思うが、ずいぶんと長い間見つめ合っていたように感じられた。
しばしの後、掴んだ肩にもたれかかるようにして彼女は意識を失ってしまった。
呆然としていた私は慌てて彼女を支えると、不思議な体験にしばらく動くことができなかった。
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その後彼女は意識を取り戻したが、記憶が曖昧で覚えていないと言っていた。
頭に引っかかる出来事がまだ鮮明な中、肌寒い秋の風を感じながら、私はキャンパスの銀杏並木を足早に歩いていた。
今日は由美子のチェロの講義の日だ。
常々思っているが、やはり彼女は才がある。
日本フィルの一員として演奏する傍ら、特別講師として音大で教鞭をとっている。
もともと裕福な家庭に生まれ、音楽に触れてきたとはいえ、20代でここまでするのは恵まれた環境に寄るものだけではあるまい。
一方私は音大の中でも凡庸なもので、大学に入った頃は多少息巻いていたところもあったが、今では別の道を探り始めている。
そもそも別の大学へ行き、ビジネスを学び、父の会社を継ぐべきかと思い始めている。
今は姉が会社を支えているが、一人では何かと苦労しているようだ。
それに彼女も家庭がある。
子供がほしいと言っていたことからも、私に少しは期待しているところがあるのだろう。
そんな私がまだこの音大に居続けているのは、彼女の講義を受けるためにほかならない。
あと半年ではあるが、この講義も私にとっては彼女との大切な時間であるのだ。
教室へ入ると、何人かの同級生がすでに準備を始めていた。
なんとなしに仲のいい同級生、圭佑の隣へ腰掛けると、私もケースからチェロを取り出し、準備を始める。
「週末はどうでした?」
「あまりからかってくれるなよ。お前らが迷惑してるのはわかってるけど、こっちだって多少は気を使ってるんだ。」
「わかってるよ。それに特別迷惑したことはないから安心しとけ。単純にお前らの先行きが気になるだけだって。」
圭佑が調弦を始めると、自分もそれに合わせて調弦をした。
今日使う楽譜を軽くなめながら、練習していると由美子は入ってきた。
しかし、彼女はチェロを持ってきていない。
代わりに手には大きな木箱のようなものを抱えている。
教室にいる皆があっけにとられていると、彼女が中から取り出したのはA4ほどの鉄板だった。
それを大きく振りかぶると私達に向かって投げつけてきた。
「きゃあ!」
女子生徒が叫び声を上げるなか、由美子は次々と箱の中から金属片を取り出しては投げつけてきた。
「おい!何してんだ!やめろ由美子!」
明らかに正気とは思えなかったが、呼びかけずにはいられなかった。
金属片はいつの間にか丸鋸の歯や鉈のような刃物に変わっていた。
誰が始めたか、みなチェロを盾にその影に隠れるようにして由美子の狂気から身を守っていた。
「痛っ!」
圭佑が刃物で手を切った。
洒落にならない。
なんとかして彼女を止めなければ。
そう思っていた矢先、彼女は私に近づいてきたかと思うと、手に持っていた大きな鉈を私のチェロに向かって振り下ろした。
驚くことに私のチェロは一振りで真っ二つになってしまった。
割れた先にある彼女は笑っていた。
更に目があったかと思うと彼女は上を向きながら大きな声で笑い始めた。
「アーハハハハハ!」
教室の誰もが恐れ、驚いている中、彼女は次の行動に出た。
思えば、このとき私も正気ではなかったのかもしれない。
彼女はどこから取り出したかわからないが巨大な鉋を持って私に向かって駆け出してきた。
私はとっさに割れたチェロをかざして身を守った。
バリバリと音を立ててチェロが削り取られていく。
そして、板が無くなってしまった。
彼女は全く気に留めることなく私の体を削り取っていく。
指が飛び、腕の肉が削がれていく。
「うああああ!」
痛みと恐怖に声を上げていると、唐突に彼女の手が止まり、再び笑い始める。
かんなを手放すと、フラフラとよろめきながら笑い続ける。
「フヒヒひ、アハ、あはは」
鋭い痛みに身悶えしつつ天井を見上げた。
そこで、妙なことに気づいた。
天井が割れているのだ。
教室の端から端へと長く亀裂が入っている。
そんなことに気を取られていると、由美子の顔が視界に飛び込んでくる。
彼女は私に勢いよく覆いかぶさると、そのまま私の首に噛み付いてきた。
このとき、私は唐突に悟ったのだ。
これは蛇の呪いなのだと。
息ができずにジタバタする私をよそに、由美子は更に強く噛み付いてくる。
意識が薄れていく。
由美子が言っていたことを思い出す。
「うちの家では不吉な出来事の予兆なのよ」
まったくもってオカルトだ。
私は死にかけているにもかかわらず笑わずにはいられなかった。
バカバカしい。
おかしな話だ。
声をあげようにも締められた首では声もあげられず、コホコホと妙な音を立てるのみだ。
首から血も滴っている。
気を失う寸前に見たのは天井の亀裂が大きく割れ、大きな鉄の塊が降ってくる画だった。
私は蛇を殺したのだ。