第五章
第五章
今日は出社時刻の二十分前に部署に到着した。昨日は舞夜が先に出勤していたのを知らずに、サスケだと思い恥をかいてしまったので、今日は全ての部屋をチェックして、誰もいないのを確認してから椅子に深く腰掛けた。
「しかし、俺の塩基配列とか言うのが日本で唯一適合するって不思議な話だよな。いわゆる、一億分の一って事だろ? 他の四人は、生まれながらに自分の宿命を本能が教えてくれてたって桂木チーフが言ってたけど、俺は何も知らずに生きてきた訳だもんな。国家機密だし言えないんだけど、この事実を実家の両親が知ったら腰抜かすだろうな。て言うか、まず信じないだろ。問答無用で、精神科に連行されるはずだ……」
そんな事を考えながら、ぼんやりと中央にある機械の塊を見つめていた。
……ん? もしも、友達に仕事の内容聞かれたらなんて言えばいいんだ?
『斎藤、あの超一流企業でお前どんな仕事してるんだ?』と、聞かれたとするだろ。
『いやぁ、大変だよ。毎日異次元の生物相手に戦わなくちゃいけないんだからさ』と、苦笑いを浮かべながら答える。
『なるほどな、営業も大変だよな。取引先の社長なんて、俺らからしたら異次元生物みたいなものだしな』と、上手い表現方法を取ったのだと思われるのが落ちだな……。
しょうもない事を考えてため息をついた時に、入り口の扉が開いた。
「おはよう、ケンジ君!」
愛霧が、入り口の扉から入ってきた。今日は髪を結んではいない。艶やかな栗色の髪が肩先に優しくかかり歩くたびにふわりと浮かぶ。賢治と目が合った直後に、すっと視線を逸らしたその頬は、ほんのりと紅葉しているように窺えた。
――やはり、そうなんじゃないのか? 俺の事を……いかん、いかん、また思考がラブモードに移行する所だった。そうだ、休日の事を聞こう。
「あ、あの、愛霧ちゃん」
「え、な、なに?」
まるで意表を突かれたように、愛霧は戸惑いを表情に浮かべていて、現実と恋の狭間で苦悩する賢治に圧倒的な可愛さをまざまざと見せ付けた。
「あの、この会社の……いや、この部署の休日ってどうなってるのかな?」
「あ、休日の事ね!」
なんの事だとお思いだったのですか? と、賢治は真実を知りたい衝動に駆られたのだが、なんとか自制心を働かせざわついた気持ちを落ち着けた。
「うん、本社の休日は土日祭日だとは知ってるんだけど、この部署って特殊でしょ。だから、どうなってるのかなと思って」
「同じだよ。でも非常招集がかかったら出社しないといけないけ――」
「おはよ……あら、もしかしてお邪魔だったかしら?」
扉から入って来た波紋は、口角を上げてニヤリとし交互に視線を送った。
「何言ってんのよ、波紋ちゃん! ねぇ、ケンジ君!」
「はい、休日の事を聞いていただけですよ」
賢治の落ち着き払った言動で、波紋の疑念はやや気薄になったように見えた。自分の席についた波紋は、鞄の中から必要な書類を取り出しながら口を開く。
「そうなんだ。話し変わるけど、斎藤ちゃんの休日の過ごし方は?」
「休日ですか? そうですね、お恥ずかしい話しなんですが、どちらかと言うと無趣味なもので、特に何をするでもなく時間だけが過ぎていくみたいな感じですかね」
「へぇ、だったら今週の土曜日さ、明後日なんだけど、暇だったら付き合ってくれない?」
眼鏡越しに、大人の魅力たっぷりな視線と、うっすらとした微笑みを浮かべた口許が、賢治の鼓動を一気に早くした。
「え、な、なんでですか?」
「暇なんでしょ? じゃあ、決まりって事で。斎藤ちゃんの自宅に、昼過ぎには迎えに行くね!」
「あ、は、はい。わかりました……」
その会話のやり取りを、卓球の玉を追う審判のように視線を交互に送る、愛霧の姿が賢治の視界に入っていた。
「おはようござい……ま――――す!」
元気な笑顔の桃子が出勤してきて、三人の声が、「おはよう」と、重なった。
「あ、そう言えば、マヤは特別会議があるみたいで、それが終わり次第くるって言ってたわよ。各自、やるべき事をやってなさいってさ」
その時、賢治の脳裏に今の内容と関連性は皆無なのだが愛霧が数日前に話してくれた内容がふと浮かんだ。
すると、一つの疑問が導き出された。二十年前に各国の地球人との交配が行われたと言っていたが、その内容からすると四人の年齢は同じ一九歳と言う事になる。知的生命体とのハーフなので、成長度合いが地球人と同じなのかどうかが分からないが、桃子はとてもその歳には見えない。特に、はっきりさせなければいけない事ではないのだが、賢治は聞いてみる事にした。
「モモちゃん、年齢はいくつなの?」
「むに? 地球人としての年齢って事ですか?」
この質問返しの内容は、生まれてから初めての経験だった。
「え、あ、うん。そう」
「みんなと同じ一九歳です!」
「そうだよね。じゃあ、俺の三つ下だね」
「うん、ケンちゃんは三つお兄さんです!」
屈託のないその笑顔は、どう頑張ってもそうは見えないが、小柄で童顔な人もいる訳だから驚くのは失礼である。
そうか、と言う事はクリスやシンディも同い年って事になるのかな? でも、交配がその一度だけとは限らないしな……ま、いいか。
そんな事を思いながら視線を横に移すと、なんだか浮かない顔の愛霧はデスクの一点をじっと見つめていた。
「愛霧ちゃん、訓練付き合ってくれるかな?」
「……」
「愛霧ちゃん?」
「え? あ、はい!」
「訓練付き合ってくれる?」
「あ、う、うん」
なんだか気のない返事に聞こえた賢治であったが、愛霧はすぐに立ち上がりサイバールームに入って行ったので、賢治もそれを追い特訓を開始したのであった。
昼食を間に挟み、二人は終業時刻まで訓練を続けた。結局舞夜は、一度も部署に顔を見せる事はなく、みんなに別れを告げた賢治は自宅に向かって歩いていた。
元々、賢治は運動神経が悪い方ではなかったからなのか、プロテクトアーマーの性能のお陰なのかは分からないが訓練はかなり順調に進んでいるように感じていた。しかし、比較対象がいないので自分の上達速度が早いのか遅いのかも分からないし、どれほど戦闘スキルが上がっているのかも、数値が出る訳ではないから分かりづらい。
「舞夜さんやシンディは別格だし、桂木チーフは基本的なポジションは戦闘ではないし、今のままでいいのかな……。そうだ、舞夜さんと同じように基礎体力を上げる努力でもするか。よし、思ったが吉日、今日から朝晩の走り込みだ!」
ぐっと拳に力を込め、賢治は決心を固めた。自宅に戻り、すぐにTシャツと短パンに着替え全身が映る鏡の前に立った。
そのまま、右手を顎にあて角度を変え鏡に映る自分を見つめる。
「なんか、少し精悍な顔付きになってきたんじゃないか? まぁ、少なからずそうなるよな。だって命を賭けて戦ってるんだし。その変化が愛霧ちゃんの恋心を呼び起こした……みたいな?」
鏡に映るニヤけたアホずらに気付き、賢治は気を引き締め直して玄関のドアを開けた。廊下を歩きエレベーターに乗り込み一階のボタンを押したのだが、その下降スピードが大人になってからメリーゴーランドに乗ったかのような、ものすごく緩慢なものに感じられた。
「……慣れと言う物はすごいな」
そう一人呟きながら、マンションを出て夕焼けに染まる街を眺めながら走り出した賢治であった。
一時間ほど近くを走り、くたくたになって自宅に戻った賢治は汗でべとついた服を脱ぎ捨て風呂場に駆け込む。
「いやぁ、疲れた。こうやって走るの何年振りだよ。でも、もっと頑張って早く頼られるような存在にならないとな」
シャワーで汗を流し終えた賢治は全開に開けている窓辺に立ち、星が顔を覗かせ始めた群青色の空を見つめていた。
「あ、そう言えば、明後日桂木チーフに誘われたんだったな。これって、デートなのか? 映画見て食事して雰囲気が盛り上がり……続きはウェブで! みたいな? いやいや、あんな美人に俺なんかが……いや、世の中に絶対なんてないんだとこの部署に配属されて知ったばかりじゃないか。きているのか……モテ期が?」
そんな事を考えながら、時間と共に襲ってきた睡魔と闘う事もなく、賢治は深い眠りについたのであった。
次の日は、出社時刻を過ぎても舞夜と愛霧は姿を現さなかった。昨日の晩と今朝のジョギングで、お尻の筋肉が張っていてほんの少し体を動かしただけでも痛みが走る。
「桂木チーフ、イタッ……二人は会議ですか?」
「うん、ゼロ次元用の武器開発を急ぎで進めてるみたいよ。どうしたの、怪我でもしたの?」
波紋は、レンズの向こうにある切れ長の瞳を賢治に向けてそう聞いた。
「いえ、何でもないです……と言う事は、ゼロ次元との隔たりにいつ亀裂が起きてもおかしくないって事ですよね……」
「まぁ、そうなるわね……あ、そうだ斎藤ちゃん、明日なんだけどさ、やっぱり現地集合にしてくれる?」
賢治は、頭の中で未知なる生物の事を考え、現時点での自分の戦闘力で果たして倒す事が出来るのだろうか、と物想いに耽っていたのだが、その声で一気に現実に引き戻された。
「え? 現地集合ですか?」
「うん、六本木の東京ミッドタウンに一三時ね!」
その声に反応した桃子が、右手を高々と突き上げ口を挟んだ。
「モモも行きたいで――す!」
「モモちゃんの服の趣味は私とまるで違うでしょ。時間掛っちゃうから駄目!」
桃子は、波紋の声に口を尖らせてシュンと俯いた。
どうやら、単なる荷物持ちのようである。賢治の淡い期待は、脆くも崩れ去ったのであった。
「わかりました、遅れないように行きます」
ま、家で暇してる事に比べたら全然良いか、とすぐに気持ちを切り替えた賢治であった。
「そうだ斎藤ちゃん、二人でコンビプレイの練習しましょうか? モモちゃん、サイバースペースの操作方法ある程度知ってるわよね?」
口を尖らしたままの桃子は、つまらなそうにコクリと頷いた。波紋の視線は賢治に向けられていて、何かを語っている。その意味に気付いた賢治はすぐに口を開く。
「モモちゃんは、コンピューターの操作も出来るんだね、凄いね!」
その発言に、次第に尖っていた口が広がっていき桃子は満面の笑顔を浮かべて顔を上げた。
「そうなんです、モモは結構凄いんです! なんでもモモに任せて下さい!」
どうやら、褒められた事で機嫌が良くなったようだ。それを見た波紋は少しだけ口角を上げ賢治にウインクをした。
ここ数日の訓練の成果で、賢治は波紋の動きに後れを取る事は一度もなかった。当然、舞夜ほどの動きは出来ない物の、その成長具合に波紋や桃子は喜びの声を上げてくれた。
そうして、昨日と同じように昼食を挟んで就業時刻までその訓練を続け、三人は部署を出て自宅に戻って行ったのであった。
「よっしゃ、今日も走るぞ!」
自宅マンションを出た賢治は、昨日よりも三十分は長く走る事を誓い特に折り返し地点を決める事もなく走り出した。
しばらく走っていると皇居外苑が見えてきたので、公園の中のジョギングもいいな、と思い中に足を進める。目の前に巨大な噴水が見えてきた時に、ジョギングをしている一人の女性が視界に入った。
それは、赤いTシャツに短パン姿で、首にかけた水色のタオルで滴る汗を拭きながら、思い詰めたような表情で走る舞夜だった。
賢治は追い付いて声を掛け、キリリとした表情を浮かべて、『一緒に走りませんか!』と言うつもりだったのだが、そのスピードに付いて行けずにその差は縮まる所か広がって行くばかりで、心臓は今にも破裂しそうだった。
周りに人がいるので大きな声を出したくはなかったのだが、この状況では仕方がない、そう思った賢治はやや遠慮しながらも聞こえるように叫んだ。
「舞夜さん!」
その声に立ち止り振り返った舞夜は、一切表情を変える事なくこう言ったのであった。
「なんだ、あんたか……じゃあね」
「な……!」
より一層スピードを増した舞夜の姿は、あっと言う間に遠ざかって行く。賢治は、その小さくなって行く背中を、立ち尽くしたまま口を半開きにし呆然と見つめていた。
周りの可哀そうな人に送られる視線に気付き、慌てた賢治は夕日に向かって全力で走り出した。瞳から流れ出す汗を何度も何度も拭きながら。
少なからず、舞夜の取った行動に理解は示していたものの、賢治はどこか釈然としないまま自宅に戻り、べとついた身体に熱めのシャワーを浴びせていた。
「しかし、あれはないんじゃないの。そりゃ、俺と一緒に走ったらペースダウンしないといけないから、邪魔になるのは分かるけどさ。言い方があるでしょ、言い方が。『なんだ、あんたか……じゃあね』って酷くね? いつか、舞夜さんより強くなったら、同じ事をしてやる。しかし……果たして、そんな日が訪れるのだろうか……」
なんだか気分が沈んできそうだったので、風呂場を出た賢治は思考を切り替え明日着て行く服装を選ぶ為に衣装ケースを開けた。
「桂木チーフはどんな服装で来るのかな……感じ的にはお姉さん系のオシャレな雰囲気だと思うんだけどな。それに合わせるには、俺は薄手のジャケットに合うような服装が良いかな。ま、無難な所でジーンズに白のカットソー着て、紺のジャケット羽織れば良いか」
デートではないのだと考えると、そこまで真剣に悩む必要もないなと思い、明日の服装はすぐに決まった。
しばらくテレビを見ながらベッドで横になっていると、瞼が重くなってきたのでテレビを消して眠りについた。
目覚まし時計の音で目覚めた賢治は、時を刻む長短二つの針を見て慌てて飛び起きた。
「ヤバッ、遅刻だよ! なんで、こんな時間に目覚ましが鳴るんだよ! 配属五日目に遅刻なんて洒落にならんぞ!」
ボサボサの髪をてぐしでとかし、急いでワイシャツを羽織った時に、「……休みだ」と、気付いた。なんだか、とても損した気分になって床に座り込んだ賢治であった。
「そうだった、休みだけど走り込みするために目覚ましかけてたんだ」
遅刻だと思い込んだ賢治の脳は、舞夜の阿修羅の顔を思い浮かべ完全に覚醒していたので、すぐに着替えを済まして家を出た。
一時間ほど近所を走り、シャワーで汗を流した賢治は腹が減っていたのでトーストを焼いてバターを塗り、冷凍のパスタを温めて食事を済ませた。
「しかし良い天気だなぁ。これがデートだったら気分も高揚するけど、単なる荷物持ちだからな。ま、これもサラリーマンの仕事って奴か……俺は、サラリーマンなのか?」
と、無意味な思考を繰り返しながら、予定していた出発時刻を待っていた。
結局やる事がなくテレビを見ながら時間を潰した賢治は、予定通り自宅を後にして最寄りの駅に向かって歩いていたのだが、ふと立ち止まる。
「私用でプロテクトアーマーを着ても良いんだろうか……いや、怒られたら嫌だしやっぱ地下鉄で行こう……」
一秒でその結論を出した賢治は、再び同じ歩調で歩き出したのであった。
「……十分前か、ぴったりだったな」
土曜日と言う事もあり、東京ミッドナイトの周りは大勢の人々が行きかい、人波でごった返していた。ファッションにあまり興味のない賢治は、六本木に足を運ぶ事は殆どと言って良いほどないし、デートで来るにしてもここ何年も相手がいないのだ。
道行く人波に目を向けると、やはりお洒落な服装に身を纏っている女性が多い。もうすぐ到着するであろう波紋の事を考えると、もう少し気合い入れて来るべきだったかな、と気にしていた所に、自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おまたせ、斎藤ちゃん!」
声が聞こえた方に顔を向けると、波紋が後ろ手を組み涼しげな微笑を浮かべて立っていた。その姿は驚愕に値するほどに美しい。周りの男性の殆どが、隣に女性を連れている奴でさえ、波紋から視線を外せずにいたのである。
膝上二十センチほどの艶のある黒のハイウエストに、初夏を思わせる純白のブラウスをインしていて、そのブラウスから透けている淡いブルーの下着がなんとも魅惑的で、スカートから伸びている綺麗な足は、数億円ほどの保険をかけていたとしても、アメリカ大統領でさえもが納得するであろうほどの脚線美を誇っている。
いつもと違い、赤と黒が混ざったフレームのメガネをかけていて、洗練された女性の美しさを醸し出し、耳元からふわりと浮いたストレートの髪がビル風になびき、なにか幻想的な物さえも感じてしまう。
カツカツとヒールの音を響かせ賢治の前に立ち、ほんの少し顎を出せばキスできるほどの距離まで顔を近付けてきた。
「そんなにじっと見ないでよ、エッチ」
その蜂蜜のように甘い声と、溶けてしまいそうなほどの視線に鼓動が停止し、賢治は軽い脳震盪を起こしかけた。
「す、すみません。あまりに綺麗だったもので……」
「その言葉は素直に受け取っておくわ。じゃあ、行きましょうか!」
こくりと頷いた賢治は、しなやかに歩く波紋の後ろを、お付きの人のように追いかけた。
波紋は、次々にブランドショップに入り、出る時には三つほどの紙袋が賢治の手に増えて行く。ほんの一時間ほどで、その手には持ち切れないほどの量になった。
「あ、あの、桂木チーフ、まだ買い物を続けるんですか?」
その殆どが布で出来た服とは言え、ここまで量が増えると鋼鉄製の甲冑でも入っているのではないかとさえ思えてしまう。
前を歩いていた波紋が、ピタリとその足を止めて振り向いた。
「え……ど、どうしたんですか?」
「ケンジ君、今日だけでいいから……波紋って呼んで」
レンズの向こうに悲しみを含んだ瞳が涙で潤んで宝石のように輝き、固く閉じた淡いピンク色の唇が少し震え、白く透き通るような肌はその心の純粋さが現れているように見える。
「え……それって……俺の事を……」
「なんてね、うっそ! もう少しだけ付き合って!」
賢治は眉宇を細め憮然な表情を浮かべ怒りを露わにし、この行為に対して敵意も含まれている口調で抗議してみたものの、するりと無邪気な笑顔で交わされ、季節が変わり散って行く花びらを見ているように心に虚しさが残っただけで、そこからさらに一時間ほど、まるで家来のように付き合わされる羽目になったのであった。
四時間ほどの長くて切ない買い物が終わり、賢治は満足顔の波紋とカフェで向かい合い座っていた。
「あぁ、気持ち良かった。ありがとね斎藤ちゃん!」
「いつも、こんなに買い物するんですか?」
隣の席だけでは足らずに、スタッフにカゴを持ってきて貰い、そこに入れてある袋の数だけでもゆうに三十は超えている。すぐに頼んでいたアイスティとアイスコーヒーが運ばれてきた。
「外出してるぶんには構わないけど、非常招集がかかると手荷持つがあったら邪魔になるでしょ。だから買い物はシーズン事に一度で済ましてるの」
「なるほど、だからこんなに沢山なんですね」
波紋は、シロップとミルクを少量入れて、氷とグラスが奏でる涼やかな二重奏を美しい指先で奏でた。
「でも、斎藤ちゃんのお陰で助かったわ。一人だと大変だもんね」
そう言ってストローに口を付けて、ほんの少しだけアイスティを喉に通した。その姿は、男ならば誰もが見惚れてしまうほどの優雅さに、媚薬のような憂いが含まれる見事なまでのコントラストを描いた肖像画のようだ。
「あれ、斎藤だよな?」
うっとりと見つめていた賢治の脳に、遠くから聞こえた気がしたその声で、目の前の女性は単なる上司なのだと現実世界に引き戻され振り返ると、大学時代ゼミが一緒だった佐々木幸一が立っていた。
その別名は『女殺しの幸一』と言って、親が金持ちで芸能人並みのルックスとウィットに飛んだジョークを兼ね備え出会う女性を口説きまくり、しかも成功率が抜群に高い。当時の賢治はその姿を羨ましそうに眺めていた事を思い出した。
当然のように、佐々木の視線の七割は波紋に向けられている。
「おぉ、佐々木か! 久しぶりだな!」
と声をかけても、賢治に対するその割合は増える所か減っている。
ふいに、まるで風で靡いたタンポポが、その種子を舞い上げたかのような、そんな笑顔を波紋が浮かべた。
「こんにちは桂木です」
「……あ、どうも初めまして……さ、佐々木です」
その女性らしい柔らかみが浮かぶ暖かい笑顔に、佐々木は完全に心を奪われていた。
「お、お前、いつの間にこんな美人と付き合ってたんだよ!」
痛みの後に熱を感じるほど、バシンと音を立て背中を叩かれた。多分そのつもりで叩いたのだろう。賢治は、彼女だと見栄を張りたい思いをグッと堪えた。
「……バカ、違うよ。俺の上司だよ」
「あ、だよな。こんな美人とお前が、な訳ないよな。いやぁ、しかし美しい。美神アフロディテでさえも、あなたを見たら腰をガクガクしてへたり込み口から泡を吹きますよ。最初に、この光景が視界に飛び込んだ時なんて、高名な肖像画を椅子に立て掛け、独り言を呟いている精神を病んだ斎藤だと思ったくらいですからね。そうだ、美味いイタリア料理の店を見付けたんで、良かったら今度お食事でもいかがですか?」
キリリとした表情を作り、『女殺しの幸一』の本領発揮だ。
波紋は、うっすらとした微笑みを口許に浮かべた。その後に続く言葉は、佐々木が喜びを露わにするものであると思える、そんな笑顔であった。
佐々木も、そう感じたのであろう。期待と喜びが滲み出そうな表情を浮かべている。
「お誘いは嬉しいんだけど、私は普通の地球人には興味ないんだ。それに、あなたよりもケンジ君の方がずっと素敵だし」
そう言って賢治に視線を向け、「ね、ケンジ君!」と微笑んだ。
「あ、な、なんかお邪魔みたいっすね……じゃあな、斎藤……」
引きつった笑顔を浮かべ、『女に殺された幸一』は、その場を足早に去って行った。
「ちょ、ちょっと、桂木チーフからかわないで下さいよ!」
と言いながらも、今の発言で浮かんだ笑顔を引っ込める事が出来ずにいた。
付き合ってくれたお礼にと、少し早めの食事を御馳走されて、思った以上に良い一日だったな、と小声で呟きながら地下鉄に乗って自宅へと向かった賢治であった。
駅から自宅に向かって歩いていると、マンションの入り口に人影が見えた。
「あれ? 愛霧ちゃんじゃないかな……」
近づくにつれて、ぼやけていた顔の作りがはっきりと見えてきた。それと同時に彼女も賢治の存在に気付き、一度合わせた視線を逸らし声が聞こえるほどの距離になった時に、今気付いた、と言わんばかりの視線を向ける。
「愛霧ちゃん、どうしたの? なにかあったの?」
「え、ううん。たまたまこの辺り通ってたから、ケンジ君なにしてるのかなって思ってよってみたんだよね。そう言えば、今日は波紋ちゃんとお出掛けだったのすっかり忘れてたよ。いま帰りなの?」
その言葉が真実なのかどうかは分からないが、賢治はその問いに対して素直に答えた。
「うん、桂木チーフの荷物持ちは大変だったよ。三十着以上は購入したんじゃないかな。ま、ご飯奢ってもらったしあんまり悪くは言えないけどさ」
――まさか、今日の事が気になって俺の帰りを待ってたのかな……。
と、賢治は真実を知りたい衝動に駆られはしたが、なんとかその思いを理性と言う名の、やや切れ味の鈍い日本刀で断ち切った。
「荷物持ち……へぇ、そうなんだ! 酷いよね、それってパワハラじゃない、ねぇ、ケンジ君! そっか、そうなんだ!」
まるで、疑念が良い方に転んだかのように、愛霧は無邪気に笑っている。
「そうだよね、これは正にパワハラだよね! あ、これは桂木チーフには内緒だよ」
「うん、二人だけの秘密だね」
赤系チェックのパンプスに、スカート部分の千鳥プリーツが清楚な黒のワンピースで後ろ手を組み、賢治に向けられた笑顔は世界遺産に認定されてもおかしくない。
「あ、良かったら寄ってく?」
どうやら、断ち切ったつもりだった邪心は、むくむくと復活を遂げたようだ。
「ううん、ちょっと寄ってみただけだからこれで帰るね。また明後日会社でね!」
半瞬さえも悩む事なく、愛霧は右手を振りながら笑顔を見せて去って行った。
「これで良いのだが……でも普通あそこで少しは悩まないか? それだけ純粋だと言う事なのかな……それとも俺の勘違い?」
その答えは、いくら悩んだ所で本人に聞く以外正しい回答を得られる事はない。しかし、今はそんな時期ではないのだ、と考える事を止めにした賢治は、自分の住処へと足を進め着替えを済まし日課と決めたジョギングを終えて、特に何をするでもなく漠然と時間だけが過ぎて行き、身体の赴くままに任せ重くなった瞼を閉じたのであった。