第二章
第二章
まるで、新たな門出を嘲笑うかのように降りしきる豪雨の中、傘を差した賢治はビルの入り口付近で、ぱっかりと口を開けたままバベルの塔のようにそびえ立つ本社ビルを見上げ突っ立っていた。
「しかし、デカいな……うしっ! どんな仕事をするのか想像もつかんが、IQ野郎達になんか負けるもんか!」
そう自分に言い聞かせ、エントランスに備え付けられた透明過ぎるほどに透明な自動ドアをくぐったのであった。
前方に、大理石で囲まれた高貴さが漂う場所があり、二人の女性が並んで座っている。その憂いを含ませた四つの瞳が賢治を射抜いた。
高ぶる気持ちを何とか押さえつけ、研修所での最終日に指示された通り、受付の女性にその旨を伝えた。
「斎藤様ですね。お待ち致しておりました。部署までご案内致します」
予備動作もなくスッと立ち上がり、両手をお腹の辺りに丁寧に添え、軽くお辞儀をしたその女性は、賢治の視界の隅に入っていた中央のエレベーターホールに向かい歩き出した。
ふと、賢治が目を向けると扉の上部に番号が記されている。
左手前が一番で始まっていて、右手前が二十番と記されていた。
その数に、驚きを顔に出すのは恥ずかしかったので、『どんだけ――!』と、またもかなり前に流行った、おねぇ言葉、を胸中で叫んだのであった。
が、しかし。
賢治の前をしなやかに歩く受付の女性は、休日の新宿アルタ前ほどの、人の波を器用にくぐり抜け何故かその場所を通り過ぎて行く。
その先には、この大きなビルとは不釣り合いな細い通路があり、賢治は釈然としないながらも後に続き進んで行くと、ガッチリとした強面の警備員が一人立っていた。
受付の女性は、警備員に対して丁寧にお辞儀をした。慌てて賢治もお辞儀をする。
「では、声紋生体及びDNAコンディクション認証を行いますので、そのままお待ち下さい」
と、まるで声帯にその手の機器でも組み込んでいるのではないか、と思えるほどの重低音で、警備員はその体躯に不釣り合いな小部屋に入りなにやら操作をしている。
「あ、あの、すごく厳重なんですね?」
その問いに対する彼女の返事は、うっすらとした微笑みを口許に浮かべただけ。
賢治は、にへらっと笑みを返し、日本を代表するほどの企業ともなると、ここまで厳重にするものなのだな、と感心していた。
その直後、賢治は違和感を感じた。
気付くと、身体の周りを薄く透明な膜のような物が覆っている。その膜のような物には青や赤や黄色の電気信号みたいな物が飛び交っていた。
不思議に思った賢治が、これは、なんですか? と聞く前に、その膜は消えていた。
「認証が取れました。どうぞお進み下さい」
笑み一つ浮かべる事のない仏頂面の警備員がそう言うと、横開きの厳重そうな扉が開く。
その五メートルほど先、見えるのは扉の開いているエレベーター。
次第に距離が近づき良く見てみると、扉が開いているのではなく、どうやら扉と言う物がついていな
いようだ。さらに、入り口の周りにはボタンらしき物が見当たらない。その手前で、ピタリと彼女は立ち止まり振り返った。
横に逸れて、細く綺麗な右手をスッと差し出した彼女は、一瞬で心を奪われてしまうほどの魅力的な笑みを見せた。
「ここからは、斎藤様お一人でお願い致します」
と、透き通った声音でそう告げる。
ここまでは、然したる問題はない。近代的なエレベーターなのだと感心し、賢治は彼女の言葉に対し素直に従ったであろう。
が、しかしだ。
彼女が差し出した右手の先には、床がないのである。
どこまで続いているのか分からない暗闇が、大きな口を開けているのだ。
「あ、あの、お一人は構わないんですけれど……」
なにかの冗談だろうと苦笑いを浮かべた賢治に対し、彼女は口許をふっと緩め、そして慈愛を滲ませるような声音で、
「お乗りになれば宜しいだけですわ」
と優しく告げ、賢治の背中に掌をそっと添え軽く押し出した。
「う、うわっ! ちょ、ちょっと!」
崖っぷちで突風に煽られたように賢治は手をバタつかせ、なんとかバランスを保っていた。眼前で口を開けている暗闇が、その密度を増し広がったように見えた。
「では、いってらっしゃいませ」
彼女は人差し指で賢治の背中をツンと突いた。その微量の力により、ギリギリ保たれていたバランスは崩れ、賢治は終わりの見えない暗闇の穴に吸い込まれるように落ちて……。
いかなかったのであった。
「こ、これは、透明な床があるんだ……それならそうと――」
と、賢治はからかわれた怒りを抑えつつ、ゆっくりと振り向いた直後。
『シュン』と音が聞こえたかと思うと、目前にいた笑顔の女性が一瞬で視界から消失。
圧迫感と窒息感が同時に襲いかかり、体内の全臓器が急激にせり上がってきているのが分かった。
暗闇の中を、とてつもないスピードで下降している。いや、落下していると言った方が適切なのかも知れない。そんな緊急事態、賢治の頭に浮かんだ物は、ディズニーシーのアトラクション、『タワー・オブ・テラー』であった。
「ちょ、ちょっと、停めて……停まった?」
体感時間は長く感じられたものの、実際はほんの数秒だったのであろう。しかし、どれほどの深さに達したのか賢治には判断できない。すぐに、『シュン』と音が聞こえた。
「今の音は……たぶん扉が開いた音だよな?」
及び腰で手を差し出して、その存在を確認して見る。やはり、スカスカで何もないようだ。目前には、素材は分からないがキラキラと銀色に輝く両開きの扉が見える。
顔だけ出して左右を確認する。どちらにも廊下が続いているのだが、その先に人の存在を認識する事はできない。
ゆっくりと、そして確かめるように一歩を踏み出し、賢治はエレベーターの外に出た。
「ここが、俺の配属された部署なのか?」
「そこで突っ立ってないで、すぐに入室しなさい!」
「ひ、ひゃい!」
突然聞こえてきた女性の声に、賢治は驚き嬌声を上げた。しかし、辺りを見回したが誰もいない。どうやら設置してあるカメラで賢治を確認し、アナウンス的な物で言ったのであろう事は理解できた。
賢治は、その扉の前に立ち、ゆっくりと細く息を吐き、「失礼します」と声をかけ重そうな扉に付いている赤いボタンを押す。すると、ほんの一瞬で目前から扉がなくなり室内の風景が現れた。
広さは大した事はない。例えるなら中学校の教室くらいだ。正面に大きなデスクがあり、黒髪を後ろで結んだ女の子がそこに座り、デスクの上で両手を組み、まじまじと賢治を見つめている。
一応、紺色のスーツを着ているのだが、どう見ても、どう頑張っても、薄目でぼやかして見ても、その幼い顔や華奢な体つきは、入学したての高校生にしか見えない。
左手には壁と水平に四つのデスクが並べてあり、一番手前のデスクが空席で残りのデスクには三人の女性が座り、全員が賢治に視線を向けていた。
しかし、奥の女性は賢治と同年代に見えるものの、それ以外は、『女性』と言うよりも、『少女』と呼ぶに相応しい外見であった。
中央には、良く分からない機械の塊みたいな物が設置してあり、透明の丸いケースで覆われている。その機械の後ろから、一匹の犬がトコトコと尻尾を振りながら現れた。
どうやら、チワワのようだ。
明らかに異様なこの状況が理解できずに、賢治はただ茫然と立ち尽くしていた。
その時、正面に座っている女の子が、ピクリと眉を動かし透明感のある強い声で言った。
「黙って突っ立ってないで、自己紹介位したら?」
「あ、はい。今日から本社に配属になりました斎藤賢治です。あの……つかぬ事を伺いますが、ここが私の配属された部署で宜しいのですか?」
「そうよ、あなたの配属先は、八文字科学技術製作所の特殊技術課。私がマネージャーの八文字舞夜。みんなもついでだから自己紹介してくれる?」
笑み一つ浮かべる事さえなく、彼女はそう言った。
黒髪を後ろで結っているせいで、パッと見は健康そうな美少年のように見えるものの、凛とした姿勢に中性的で端正な顔立ち、透明感のあるその声がやけに印象的だった。
「初めまして、チーフの桂木波紋です。よろしくね」
と、唯一女性と呼ぶに値する彼女が、煌くロングヘアーを掻き上げて立ち上がった。彼女はかなり背が高く、切れ長の瞳にシャープな縁なしメガネが見事にマッチし、紺地にグレーの細いストライプが入ったスーツを着こなしている。
その姿はまるで、セレブなキャリアウーマン向けに発行された、ファッション雑誌の表紙を飾るモデルのようだった。
呆けた顔で賢治が見惚れていると、入れ替わりで隣の少女が立ち上がった。
「どうも、孔雀愛霧です。これから一緒に頑張りましょうね!」
今の女性との比較で小さく見えてしまうが、身長は標準と言ったところだろうか。
紺色のスーツの襟元から覗いている、ほっそりとした白い首は、ガラス細工の花瓶のような脆さが窺える。
その上に添えられている形の良い小顔には、純粋無垢な少女の微笑みが浮かんでいて、栗色のツインテールが賢治の男心をくすぐる。
こんな子に上目遣いで、『……おねがい』とか言われたら断れる男はいないだろうな、などと不埒な想像をしていると、ちらちらと窺うような視線に気付いた。
視界の端に映っていたその少女に視線を移す。その子は、頬をほんのりと紅葉させて、何か言いたそうな顔でモジモジしている。
「……えっとぉ……あのぉ……おはようございます。私の名前は生花桃子でぷ……うひゃ! うぅ……モモは……モモは気も小さいし……背も小さいですけど……一生懸命に頑張っていますので、よろしくお願いしまぷ……あひゃ! うぅぅ……」
思いもよらぬ箇所で二度も噛んでしまい、赤面して涙ぐんでいる少女は、デニム生地のオーバーオールを着て、立ち上がったのか座ったままなのか分からないほどの身長に、亜麻色の髪がクルクルと巻いてあるショートカット。大きくてつぶらな瞳に長いまつ毛、柔らかそうな唇にシュッとした小さな顎が、とても可愛らしく健康的に見えた。
マネージャーである、八文字舞夜がチワワを指差し口を開いた。
「で、この子が……」
「マヤ、自己紹介くらい自分でやるよ。主に装備や武器の転送をやっているサスケだ。よろしくな!」
と、チワワが言った。
――え……いま、喋ったのは犬ですか? それとも、腹話術的な?
「ま、いろんな事をあんたには説明しないといけないから、取り敢えず空いてる席に座ってくれる?」
この部署のマネージャーだと名乗った舞夜の指示を受け、賢治は激しく瞬きを繰り返しながら、空いている席に腰を降ろした。
「時間かかっちゃうから、わからない所は話し終わってから質問してね。うちの本業に関しては、この会社を志望したわけだし理解はしてるわよね。それとは別に、政府からの依頼を受けて公的機密業務も行っているの。この課の仕事がそれ。ここまでは理解出来る?」
深く澄んだ瞳に、一片の曇りさえ見せず舞夜はそう言った。
本来であれば、『公的機密業務』と言う言葉に反応するのが筋ではあるのだが、賢治の脳内はチワワが喋った事で、一般的な思考回路ではなくなっていたのであった。
――そのチワワは、犬ですか? いや、この質問は変だな。
――その犬は、チワワですか? いやいや、犬種を聞きたい訳じゃないし。
「あの……質問なんですが、その犬は犬ですか? いや、そのチワワはチワワですか?」
結局、訳の分からない質問をする賢治であった。
「サスケは、犬の形をしたロボットよ。でもロボットって言い方はサスケに失礼かな。人間の脳の数億倍はある超高度な人口知能を持ち、物質の転送機能を兼ね備えているわ」
サスケと言う名の、どこからどう見ても生チワワにしか見えないロボ犬は、舞夜の膝の上で小さな舌を出し、これまた小さな尻尾をひゅんひゅんと振りまわしている。
――そうか、ロボット犬か……確か数十年前に、アイボとか言うロボ犬が開発されてから、日本の科学技術はここまで進歩してたんだな……ん?
「物質の転送機能ってなんですか?」
「仕事の時にあれもこれも持って行くのは大変でしょ。だから、サスケが必要な物を必要な時に届けてくれるのよ。便利でしょ!」
その、見事なまでに屈託のない笑顔は、レッドゾーンを振り切るほどに魅力的だが、当たり前のように言っている内容は懐疑的で、これはもしや、あまりにもリアル過ぎる夢なのではないのか、と賢治
は自問してみた。
が、しかし、どうやら夢ではなさそうな気がするし、意識も五感も自分なりにではあるが、ちゃんと機能していると思われる。
とうの昔に型落ちして、売値が付かないパソコン並みの頭脳……いや、電卓並みの頭脳をフル稼働させ、色々な考えを巡らせてみた。
公的機密業務やら、どう見ても高校入学直後にしか見えない少女が上司だとか、物質を転送するチワワ型のロボ犬だとか、どれもこれも現実的ではない話ばかりである。
数秒後、賢治の脳裏におぼろげな推測が浮かび上がった。
――もしかして……これってドッキリ的な奴か?
何処かに超小型カメラが仕込まれていて撮影しているんだな、と思い辺りをきょろきょろと見回したが、すぐに見つかってしまうようなミスをこの巨大企業がするはずがない、と思い直し視線を舞夜に戻し遠慮しがちに言った。
「あ、あの、これって、どっきり的なやつですよね? 気付かないふりとか苦手でして……」
と、照れながら頭をかいて見せた。
賢治の脳内では、実はみんなどこぞの劇団員かなにかで、すぐにそれなりの地位の人が入室してきて、『これは状況判断テストなんだよ、君は見込みがあるな』とかなんとか言われて、本来の部署に異動するのではないかと考えていた。
突如、空気が軋むような圧迫感が室内に満ちた。ほんの今まで迷いのないすっきりとした笑顔を浮かべていた彼女が怒気を含んだ目で賢治を睨んでいる。
その華奢な身体からは到底想像がつかない、桁外れの衝撃音を立ててデスクを叩きつけ、その勢いと共に立ち上がった。
「はぁ? あんた死にたいの?」
「マヤ、落ち着いて! 普通の人間だったらこうなるわよ!」
激昂した舞夜を諌めるように、チーフだと名乗った波紋が言った。
「す、すみません……」
賢治は肩を竦め、美しい顔を阿修羅のように歪めている舞夜から視線を外す。
どんな美少女でも、女は怒らせると恐ろしい……ん? 普通の人間だったら? って?
と、波紋が言った台詞に疑問を抱き、賢治は小首を傾げていた。
舞夜は、気持ちを落ち着ける為なのかは分からないが、後ろで一つに結っている黒髪を一度ほどき、小さく整った顔を二度ほど振ってゴムを口にくわえ、肩先にかかった煌く黒髪を両手で束ね、もう一度きつく結い直した。
賢治は気付かれぬよう視界の隅でその姿を捉えていたのだが、さっきとは対照的で、その一連の仕草は神がかるほどに美しく、そして愛らしかった。
「……ま、確かにそうね。私も大人げなかったわ。じゃあ、説明を続けるわよ。公的機密業務と言うのは何か。あんた、次元って言葉聞いた事ある?」
「次元ですか? 三次元とか四次元とかのですか?」
賢治は、ルパン三世の相棒ですよね、とボケたかったのだが、阿修羅の映像が脳裏に焼き付いていたので恐ろしくなり素直に答える事にした。
「ふっ、ルパン三世の相棒とか言ってたら、あんた死んでたわよ」
「い、意外と空気読めるタイプなんで……」
「次元と言うのは、空間の広がりを現す一つの指標なの。ある空間内で特定の場所や物を唯一指し示すのに、どれだけの変数があれば十分かとも言えるわ。例えば、地球は三次元的な物体だけど、表面だけを考えれば緯度・経度で位置が指定出来るから二次元空間であるとも言えるし、人との待ち合わせの時は建物の階数や時間を指定する必要があるから、この観点からは四次元空間に生きているとも言える。言ってる事、わかる?」
「は、はぁ。なんとなくは……」
「ただし、これは人間の知能で考えた理論でしかないのよ。実際は、この場所にも違う次元が存在する。この世界は三次元なんだけど、空間を隔ててゼロ次元から四次元までが存在してて、住んでいる生物は違うわけ。まぁ、わかりやすい説明をするなら、幽霊って見える人には見えるわよね、あれは二次元の生物なのよ。いわゆる死後の世界。でも、空間を隔ててるから触ったりは出来ないの。その他で例えるなら妖精ね。あれは一次元の生物なの。少数だけど、人間の中にもそれらを見る事が出来るスキルを持っている人種も存在する。ここまでは大丈夫?」
「は、はぁ、わかりやすい例えを使って頂いたので……」
賢治は、判然としないながらも頷いて見せた。言っている事はなんとか理解出来るのだが、それが仕事とどうつながるのか先が読めない。
「その次元間の隔たりに、なんらかの理由で亀裂が生じる事があるのよ。その隙間から、本来三次元に存在してはいけない生物が侵入する可能性があるの。殆どの生物は別次元では生命を維持する事が出来ないんだけど、稀に恐るべきスピードで進化を遂げる生物が存在するわけ。例えるなら、フライフィッシュって知ってる?」
「雑誌のUMA特集で見た事あります。肉眼では捉えられない早さで飛行する魚みたいな奴ですよね?」
「そう、あれは本来一次元の生物なのよ。ただ、あの生物は悪意もないし人間に危害を加えないからほっといてるんだけどね。あとは怨霊や悪霊ね。元々三次元で生きていた人間だから、適応力があるのかも知れないわ。私達の仕事は、その侵入して来た別次元の生物の中で悪意のある者を処断して、次元の亀裂を修復するのが仕事なの。理解出来た?」
「ま、まぁ、言われている事は理解できましたけど、それが政府から依頼されている機密業務なんですか?」
見る限りでは至極真面目に話しているし、嘘を言っているとは思えないのだが、すぐにこの話を理解するのは、賢治ではなくても困難を極めるであろう。
「あんたも聞いた事あるでしょ。実は、アメリカでは宇宙人と協力して色々な物を開発してるって話し」
「ま、まぁ、聞いた事はありますけど……」
「世間の混乱を招かないように秘密裏にやってるから信じにくいかも知れないけど、日本でもそうなのよ。次元の隔たりがなくなってしまうと、生態系が完全に崩壊してしまうの。いわゆる地球滅亡って奴ね。それは、地球だけの問題じゃなくて、各惑星や太陽系・銀河系にさえ影響を及ぼす事に成りかねないの。だから地球と各惑星の知的生命体が力を合わせて、この銀河的プロジェクトを遂行してるの。世界の主要国には、私達のようなチームが存在するのよ。信じられないかも知れないけど、現に私達はその知的生命体と日本人のハーフなんだから」
舞夜のその言葉で、隣に並んでいる三人が同時に賢治を見て頷いた。
「え? は? 宇宙人とのハーフ? えっと……」
賢治は、呆気に取られて二の句が継げなくなり、口を半開きにしたまま横に並ぶ全員の顔を見渡した。
誰をどう見ても、普通以上に美しくて可愛い生粋の日本人にしか見えない。実際、賢治は宇宙人と言う者を見た事がないので、あくまでもテレビや映画で見た映像との比較になるのではあるが。
「まぁ、いいわ。すぐに信じなくても、そのうち嫌でも信じざるを得ない事が起きると思うし。これ以上詳しく説明しても意味がないでしょうから、これで終わりにするわ」
と、舞夜が賢治から視線を外したその時に、けたたましいサイレンが鳴り響き赤いパトランプみたいな物が室内を照らし出した。その音と光に驚いた賢治は、椅子から立ち上がり慌てふためき、上ずった声を出した。
「な、な、なんですか! 火事ですか!」
「次元の亀裂が出来たのを特殊衛星がキャッチしたのよ。取り敢えず座りなさい!」
「は、はい。すみません……」
と、肩を竦め賢治は席に着いた。ふと周りに視線を移すと、賢治を除いた全員が中央の機械の塊を真剣な眼差しで見つめている事に気付く。
賢治は椅子に座り直して姿勢を正し、みんなが見つめている中央の機械を、意味も分からずどこか唖然とした体で眺めた。
すると、その機械が動き出した。無数の光が機械の中を駆け廻り、『ヴン』と音を立て頭上に立体映像を映し出したのだ。
その映像は、トカゲの顔にムカデの体をした奇妙な生物。
その下にはデータらしき物が書いてある。
「デス・ワーム……全長二十五メートル? レインボーブリッジ?」
「一次元との空間に亀裂が生じたのね……急がないと橋を破壊しかねないわ。斎藤、これを着なさい!」
「え、え、え? これを着るってどう言う事ですか?」
舞夜から投げ渡されたのは、銀色に輝く錠剤のような小さなカプセル。その舞夜を含めた四人は、いつの間にか身体にぴったりと張り付いた、お洒落なウエットスーツのような物を着ている。そんな状況で戸惑っていた賢治に、
「斎藤ちゃん、ほら早く飲み込んで!」と、波紋が急かす。
「の、飲み込む?」
どうやら切迫している状況のようで、考えている暇はなさそうだと判断した賢治は、目を閉じ思い切って飲み込んだ。すると、徐々に体が変色して行き、みんなと同じウェットスーツのような物が身体を覆っていた。右側の腰の部分には、刀身のない柄の部分のような物が付いている。きょろきょろと自分の身体を見回していると、隣にいた波紋が話し出した。
「詳しく説明している暇はないから、必要な事だけを言うわよ。そのプロテクトアーマーは、ある一定までの思考を具現化出来る装置が付いているの。だから、空を飛べると思えば飛べちゃうわけ」
「あ、あの、もう少し具体的な――」
賢治が言葉を言い終える前に、いきなり天井の一部が開き大きな透明ケースのような物が降りてきた。その情景を唖然として見つめていると、賢治を除いた四人はその中に素早く乗り込んでいく。
思考が沈黙を守ったまま、口を半開きにしてその場に突っ立っていると、舞夜の怒声が賢治の脳に響いた。
「ほら、早く乗りなさいよ!」
「え、あ、はい!」
いったい今なにが起きているのか、考える暇さえ与えてはくれない。次々に常軌を逸した、想像する事さえも困難な状況が連続している。
「出動!」
舞夜が声を放つと、その透明ケースは恐ろしいスピードで上昇を始めた。その急激な上昇による重力が賢治の体を襲い、息をする事も立っている事さえもままならない。しかし、不思議と周りの四人は平然としている。
「あ……あの……い、息ができ……ないんですけど……」
「もう、斎藤ちゃん。さっき言ったでしょ、思考を具現化出来るって。自分の体重をなくしてしまえばいいの。ほら、早くしないと空から落ちちゃうわよ?」
波紋にそう言われた直後、その透明ケースはビルの最上階から空にポンと飛び出した。目前には、立ち並ぶ高層ビルの屋上や東京タワーまでもが一望出来る。
「ちょ、ちょっと、これはなんなんですか! えっと、思考を具現化……俺の体重はゼロ……俺の体重はゼロ……俺の体重はゼロ――――!」
どうやら、落下している感覚はない。賢治は、怖くて閉じていた目をゆっくりと開く。
いつの間にか、降りしきっていた雨は止み、雲の合間からは、眩しい光を放つ太陽が顔を覗かせている。
――う、浮かんでる……これは本当に現実なのか?
と、何をどう判断して正しい答えを出せばいいのか分からず、賢治は空に浮かんだまま固まっていた。
その姿を見つめていた舞夜は、イラついた表情を浮かべ、
「なにボケッとしてんのよ、斎藤! 次は高速で空を移動出来る思考をしなさい。そして私達に付いて来なさい!」
と告げると驚くべきスピードで飛んで行き、あっという間に小さくなり消えてなくなった。
その光景を目を擦りながら眺めている賢治に、太陽光を浴びてきらきらと輝くつぶらな瞳を向けた愛霧が顔を覗かせ口を開いた。
「斎藤君、大丈夫? マヤって昔からああなのよね。無神経って言うか、無鉄砲って言うかさ。私達ここでは上司と部下だけど――」
「愛霧ちゃん、お話は後にした方がいいんじゃないかな? モモが思うに、マヤちゃんがキレちゃうよ?」
桃子が穏やかな口調で、年上に見える愛霧を諭すようにそう言った。その言葉に、両肩を竦め可愛く舌を出した愛霧は、
「そうだね、斎藤君、早速イメージしてみてくれる?」
「は、はい。わかりました……」
空を高速で移動出来る……空を高速で移動出来る……空を高速で移動出来る……空を高速でぇぇぇ―――――――――――――!
体感しているのは風を切る爽快感。それと同時に、実感しているのは違和感であった。
隣に並んで飛んでいる波紋が白い歯を覗かせ、「斎藤ちゃん、飲み込み早いじゃん!」と朗らかに言う。
「は、はぁ……」としか言えない賢治。
――もう考えるのはよそう。到底理解出来る事象ではないし、考えると言う行為事体が無駄だな。どうやら夢ではないようだけど、できれば夢であって欲しい……。
と賢治が思った矢先、舞夜の姿が見えてきた。社を出てから(社を出た、と言う表現が適切かどうかは置いといて)ほんの数秒しか経過していない。
「遅い! 何してたのよあんた達! デス・ワームが進化しちゃったじゃん!」
と、凄い剣幕で怒鳴る舞夜の指先に視線を送ると、今しがた社内で見た立体映像の怪物が、顔を水中に突っ込んで魚を食べている。良く見ると、映像では体がムカデだったのに、その足がヒレのような物に変わり鋭利な刃物のように鈍い光を放っていた。
――これ、特撮じゃないんだよな……俺の身体にはピアノ線付いてないし、あの怪物にもチャックは付いてないんだよね?
とかなんとか考えていた賢治の脳裏に一つの素朴な疑問が浮かんだので、この課の長である舞夜に聞いてみる事にした。
「あ、あの、空に浮かんでいて、ニュースとかにならないんですか?」
「それは大丈夫。このプロテクトアーマーは次元の隔たりを素材にしてるから、どの次元の生物にも姿が見えないの。あとは、生物によって生命活動を止める箇所があるんだけど、そこを先に破壊しないと再生してしまうの。だから、うちで開発したサーチシステムを使い、その箇所を破壊して処断するってわけ。ちなみに、その役割はメカニック担当である愛霧の仕事なんだけどね。これ以上進化させたら面倒だし処断するわよ!」
「了解! サスケちゃん、サーチシステム送ってくれる?」
愛霧がそう言うと、その手の上にノートパソコンのような物が浮かんできた。凄い速さで何かを打ち込んでいる。
「マヤ、ゼロパーツがあるのはチャクラの位置、武器は凍てつく槍を使って!」
「オッケ! サスケ聞こえた?」
舞夜が腰に付いている刀身のない柄の部分を手にすると、その部分に槍の形をした巨大な氷柱が現れた。
「うわっ、かっこいい!」
そんなのん気な発言をしながら、その光景をまるで少年時代にタイムスリップしたかのように目を輝かせながら、ギュッと拳を握り締め賢治は眺めていた。
「波紋! デス・ワームと交信してこっちを向かせて!」
舞夜の指示に頷く波紋。
「……交信?」
賢治は小首を傾げた。それをチラ見していた桃子が、ポッと頬を赤らめ、やや下っ足らずな口調で、
「は、波紋ちゃんは……全次元の生物と交尾が……あわわ! こ、交信が出来るのです。でもね、こっちの世界に入り込んで来る生物は殆どが悪意を持ってるから、素直に言う事を聞いてはくれないみたいだにょ……うぅ、ぐすん……」
と、今回は恥ずかしい言い間違いを含め、またも噛んでしまった桃子は瞳を潤ませ俯いたままクルクルの髪をいじっている。どうやら、緊張すると噛む癖があるようだ。
賢治が、ありがとう、とお礼を言うと上目ずかいでチラッと視線を送り、こくりと頷いて見せた。
「交信始めるわよ……キモイ……グロイ……ウザイ……こっちだよバーカ。マヤ、振り向
くわよ!」
どうやら、話しても無駄な生物には文句を言うだけのようである。
「よっしゃあ、イッケェ――――――!」
舞夜は、バカでかい氷柱の槍を振りかぶり、デス・ワーム目掛けて思い切りぶん投げた。
空気が摩擦熱で燃えるほどの驚異的なスピードで槍は敵目掛けて飛んで行き、そのトカゲ顔の眉間上部に見事命中。デス・ワームは頭を振って苦しがっている。
ギュッと拳を握り締め、『よっしゃ!』と胸中で叫んだ賢治だったが、周りとの温度差を感じ取り、不思議に思って舞夜に視線を向けた。
「どう言う事……ゼロパーツが破壊されたら、通常は消えてしまうはずなのに……」
「マヤ、破壊する直前に進化して、ゼロパーツが増えてる!」
「チッ、ふざけやがって、場所はどこ!」
「こ、これは……右足全てだわ……」
「接近戦か……仕方ないわね……」
「サスケちゃん! マヤに、凍てつく刃をお願い!」
舞夜の腰には、先ほど投げてしまった柄の部分がいつの間にか現れていて、それを抜き取ると同時に、表面が凍りつき冷気を放つ日本刀が現れた。
「モモ、私に現わしの粉をかけて!」
「ふぁ――い!」
桃子が、この状況に不釣り合いな拍子抜けするほど無邪気な返事をした直後、きらきらと輝く粉が舞夜の頭上に現れ全身に降りかかり、それを見た愛霧は目を見開き慌てたように口を挟んだ。
「ち、ちょっと、マヤ! そんな事したら姿が見えちゃうじゃん!」
「まぁ、見てて」
緊張を孕んだ愛霧の声とは対照的な、落ち着きを払った平坦な声に何故か賢治の背筋をぞくりと悪寒が走った。
デス・ワームは、眉間上部に槍が刺さったままの状態で怒り狂い、姿の見える舞夜を睨み呻いている。常人ならば恐れ戦くに違いない状況下で、この展開も予想の範疇だと言わんばかりに、舞夜は自信に満ちた笑みを口許に閃かせ、水面目掛けて急降下を開始。
その姿を追い、デス・ワームが体をうねらせ牙を剥く。
舞夜が水中へ潜った直後、デス・ワームがそれを追い大量の水しぶきを上げる。
そんな姿を目の当たりにし、賢治は心配になり横にいる波紋にぼそりと呟いた。
「あ、あの、大丈夫なんでしょうか……」
「まぁ、相手はデス・ワームだし、大丈夫でしょ」
「その言い方から察すると……デス・ワームは弱い部類に入ると言う事ですか?」
「そうね……最下層の生物かもね?」
と、長い髪を弄ぶように舞わせ静かな笑みを見せた。
――さ、最下層……あの巨大トカゲ顔ムカデが?
表情を見る限り、冗談の類ではない事がすぐに分かる。賢治は、深く重いため息をついた。
「戻ったら辞表を出そう。非常に残念だが、この仕事は俺に向いてない。いや、向き不向きの問題じゃないな。て言うか、これが仕事なのか?」
周りに聞こえないように、そうブツブツと独り言を言っていると、水面から舞夜が飛び出してきた。
「クソッ、あいつのせいでびしょ濡れだわ。手間かけさせやがって」
犬のように体を振って、体に付いている水滴を振り払っている。その姿に、なんだかホッとして、賢治は安堵の表情を浮かべていた。
「さ、後は次元の亀裂を埋めるだけね。モモ、場所はどこ?」
「えっとねぇ、あの橋の根元に亀裂があるよ!」
桃子が指差した場所に、賢治を除いた四人が向かった。
「そうか、生花ちゃんには、この能力があるんだな。孔雀さんがメカニックで、桂木チーフが交信か。で、八文字マネージャーが戦闘って感じか?」
賢治は、顎に右手を添えて、晴れ渡った空を眺めながら考えていた。
「で、俺は……単なる人間です、以上。そしてこの状況は、異常?」
我ながら上手い事言えたな、などとほくそ笑んで頷いていると。
「斎藤! なにボケッと突っ立ってんのよ! こっちに来なさい!」
「は、はい! すみません!」
書いて時の如く、賢治は四人の元に飛んで行った。
「この辺りね。サスケ、ジプサム送って!」
舞夜の声と同時に、白いセメントのような物が入ったケースが手元に届いた。桃子が指差している場所にそれを丁寧に塗り込んでいる。何もない場所なのに、不思議とそのセメントは塗れていて、塗り終わると同時に白い部分は透明に変色して行き、最初と同じ何もない空間になった。
ふぅ、と短い息を吐いて、舞夜が右手を突き出し親指を立てた。
「よし、全ての任務完了! お疲れ様でした!」
賢治を除いた三人が同じ言動を取り、晴れ渡った青空にその声が響き渡った。
ワンテンポ遅れて、がっくりと肩を落とした賢治が、
「お、お疲れさまでした……」と、言った。
――これは完全に、完璧に、非の打ちどころもなく、会社員と言う枠をブッチギリで超えている。しかし、五百人も新入社員がいたのに、何故俺が選ばれたんだろうか……。
そんな賢治の不安な表情を誰も気に留めるでもなく、
「それじゃ、社に戻るわよ!」
と、一仕事終えた爽快感を滲ませた舞夜の声で、賢治を含めた五人は大空を飛び、風景が見えないほどのスピードで本社ビルへと向かったのであった。ビルの上空に着くと五人の周りにいつの間にか透明のケースが出現し、出てきた細いトンネルのような所に入り急速に下降する。
社内に到着すると同時に透明ケースが消えてなくなり、それぞれが各自の席についた。
気が付くと四人のプロテクトアーマーは自然と消えていて、賢治だけが場違いのようにカラフルに輝いている。
誰に聞けば良いのか分からず、賢治は全員を見渡しながら、
「あ、あの、このプロテクトアーマーはどうやって脱げばいいんですか?」
と聞くと、すぐに波紋が両手で髪を後ろに靡かせ口を開いた。
「口で言っても良いけど、心の中でも構わないわ。『エフェメラ』って言うの。ちなみに、さっきは初回だったから勝手に装着出来たけど、今度から装着する時は『レギリス』って言ってね」
――エ、エフェメラ……だっけ?
声に出すのが何故か恥ずかしく感じた賢治は、心の中でそう呟いた。すぐに視線を落とし全身を見回すと、出社した時と変わらないスーツ姿に戻っていた。
「これで、私が言ってる事信じてもらえたかしら?」
舞夜は、デスクに片肘をつき掌に顎を乗せて、妖艶な微笑をその口許に浮かべたまま、どこか責めるような口調でそう告げた。
「は、はい。信じましたけど……あの、何故俺が……いや、何故私がこの部署に選ばれたのでしょうか……」
「良い質問ね、その理由は二つ。一つは、今まで装着していたプロテクトアーマーだけど、あれは普通の人間には拒絶反応が起きて装着できないの。あなたは唯一、日本人の中で装着可能なDNA塩基配列適合者なの。もう一つは、今まではこの地球上でゼロ次元との隔たりに亀裂が生じた事はなかったんだけれど、どうやら近いうちに日本で亀裂が起きそうだってデータが出てるの。やや不完全な情報ではあるけれど、あんたの遠い先祖は高名なエクソシストだったみたいね。じゃなかったら、あん
たみたいな五流大学の落ちこぼれを、会社が雇うと思う?」
「ご、五流って……ま、まぁ、そう言われればそうですけど……その、先祖がエクソシストって言う事は……ゼロ次元って言うのは、悪魔的な生き物って事ですか?」
日本で唯一の適合者と言われた時は、正直なんだか嬉しかった賢治だが、同時に不可解であった入社理由が判明した。
「そうよ。詳しく説明すると、ゼロ次元は漆黒界と言って悪魔の世界なの。一次元は蟲界と言って蟲の世界。今日のデス・ワームもそうね。次に二次元は霊界と言って霊の世界。三次元はこの世界ね。四次元は鬼界と言って鬼の世界、理解出来た?」
深く椅子に腰かけて、賢治に可憐な微笑みを投げかけている少女が、とても今までデス・ワームとか言う怪物と戦っていたとは思えない。
確かに幼い頃は、地球を守るヒーローに憧れていた賢治であったが、あくまでもあれは特撮の世界であって現実ではないと言う事を知る頃には、その思いも自然と消えていた。こうしてそれが現実の物として目の前に現れても、やはり幼い頃の気持ちには戻らないのは当然である。
「理解は出来ました……ですが、ちょっと私には無理だと思います。ですので――」
「なに? 辞めたいって事?」
舞夜は、深く長いため息をつき、あからさまに落胆の表情を見せた。
配属初日に辞意を表するのは非常に不本意ではあるが仕方がない、そう思いながら賢治は言葉を続けた。
「え、ええ……とても自分に出来る仕事だとは……」
「あ、そ。わかったわ。ちなみに、あんたが飲み込んだプロテクトアーマーだけど、一年間は体内に残留するのよ。だから一年間の料金は支払って辞めて頂戴ね。料金の詳しい説明や支払い方法は波紋に聞いてくれる?」
実に冷淡な、切って捨てるような言い方でそう言うと、引き出しから資料を取り出して目を通し始めた。
いくらなのかは知らないけど、半ば強引に飲まされたのに料金払えって酷いな、と胸中で愚痴りながら、
「……はい。あ、あの、桂木チーフ。料金は分割でお願いしたいんですけど……」
「いいわよ。可哀そうだし利息はまけといてあげる。最長は六十回払いだけど?」
メガネのレンズを通さずに、上目使いで賢治をじっと見つめ、少し悲しい色を帯びた声音で静かにそう告げる。
「有難う御座います。あんまりお金ないんで、最長でお願いします……」
「じゃあ、毎月忘れずにこの口座に振り込んでね」
渡された一枚の紙は、細かい文字と数字の羅列で埋め尽くされていた。
「はい……わかりました……丸々銀行本店で、一回の支払額が……500億ですか!」
そうは言ったものの、考えてみたら思考を具現化出来るわけだし、それ位の値段はするのかも知れないな、とも思えた賢治であった。かと言って、現実的に一般市民の賢治には払えるはずのない金額である。
「もしかして……あんた、払えないの?」
物言いは静かだったが、今までのトーンとは明らかに違った。鋭利な刃物を喉元に突きつけられているような声音が、背後から賢治の心臓をわし掴みにした。
その声にごくりと息を飲み、賢治がゆっくり振り向くと、舞夜は椅子の背もたれを大きく倒して足を組み、人の心を見透かすような妖しい瞳で見据え微笑んだ。
表情こそ笑みを浮かべてはいるが、目が笑ってはいない。
浮かべられた、その氷の微笑を一見し、賢治は直感した。
嵌められたのだ、と言う事を。
「はい……払えません」
「じゃあ、地球の未来の為に頑張るしかないわね。まずは敵を知る事から始めましょうか。今まで三次元に侵入してきた、異次元の生物について勉強しなさい。愛霧、斎藤にレクチャーしてあげてくれる?」
「オッケー! じゃ、斎藤君サイバールームに移動しましょ!」
失意の中、その場で佇む賢治の返事を待たずに、愛霧は入り口の横にあるドアに向かって歩き出した。渋々その後に続いて開けられたドアの中に入ったのだが、その室内は想像以上に広かった。いや、広いと言う表現は適切ではない。
何故なら室内の半分から先は何もないのだ。正確には終わりの見えない宇宙のような空間が広がっていると言った方が的確なのだろうか。入り口のドアが勝手に閉まった直後、賢治はその場所に立ち尽くしていた。
「く、孔雀さん……あ、あの、これはなんなのですか?」
「その孔雀さんってやめにしない? 斎藤君の方が年上なんだし、名前で呼んでくれたらいいし、ね?」
愛くるしい笑顔を浮かべた愛霧が座った場所は、賢治が何度かハリウッド映画で見た事がある、コンピュータールームのような場所だった。
「はい……愛霧ちゃん、改めて聞きますけど、この先はどうなってるんですか?」
「単なる空間よ。この部屋はね、対異次元生物用に造られたシュミレート空間なの。戦った事のない生物との模擬戦闘や、新たに開発された武器の使用練習とかね。ここでのシュミレートが実戦で生きてくるってわけね。じゃあ、今から次元別に生物を紹介して行くからここに座ってくれる?」
そう言って、空いている隣の椅子をポンと叩いた。
「まずは、一次元から行くわよ。デス・ワームはさっき見たから飛ばすね」
愛霧は、目の前にあるキィボードを、すごい速さで打っている。目にも止まらぬ早さってこう言う事を言うんだ、と何気に賢治が眺めていると、視界の隅にバカでかい蚊のような生物が出現した。それに驚いた賢治は、背中をのけ反らせ、「う、うわっ!」と、情けない声を上げた。
「大丈夫だって、あれはシュミレート用に造った物だから。名前はキングモスキート。全長は五メートル、攻撃は吸血なの。刺されると一瞬で全ての血液を吸われてしまうから即死。前回侵入して来た時は新宿の駅前に現れて、到着がもう少し遅れてたら凄惨な事になってたと思うわ。処断するのは楽なんだけど、問題は刺された人間の体内にハートワームって言う寄生虫を生み込むのよ。それが体内の細胞を食べ尽くして成長すると、キル・パラサイトって言う生物になるの。これがそれね」
浮かんでいた生物がパッと消えて、やや大きめの白いミミズのような生物が現れた。その体からは、細い糸のような物が無数に出ていて、顔と呼べる物は見当たらないが、両端からは鋭い金属のようなトゲが飛び出している。
「全長は三十センチしかないんだけど、口先から出てる針で人間の体内に侵入して卵を産み付けるのよ。それが終わるとまた体から出てきて、違う人間に侵入して同じ事を繰り返すの。産み付けられた卵は約二日で孵化するわ。一回の産卵で五匹のハート・ワームが孵化して、体内の細胞を食べて成長するの。五匹だと一人の人間では足りないから、違う人間に侵入して成長する。キル・パラサイトに成長したら、後はそれを繰り返して行くから、あっと言う間に人類は絶滅してしまうわ」
新宿の駅前に現れたのであれば、大勢の人が目撃して大スクープになってるはずなのに、賢治はこの話を聞いた事がない。
「あ、あの、この生物は人間に見えるんですか?」
「侵入したばかりの時は、人間にははっきりと認識できないわ。日本では、一人も犠牲者は出てないんだけど、世界では沢山の犠牲者が出てるの。それを見たり知ったりした人間は、政府の機密組織によって記憶の改竄が行われるの……例えば、家族が犠牲者になったら、関係者を含めた全ての人に、その人が存在していた事全ての記憶を改竄してしまう。民衆がパニックにならないようにするためには仕方のない事なんだけどね」
「確かにそうですよね」
「じゃあ次行くわよ。これがポイズン・スプリンクル。全長十メートルの蛾ね。名前の通り毒の粉を撒き散らして飛行するの。その毒が問題なのよね」
「毒が問題ですか?」
目前にいる薄茶色の巨大な蛾は、大きな目のような物が両方の羽に付いている。
「そう、地球に存在する濃硫酸の約一万倍の酸化力を持つ超熱濃硫酸を粉末化した物なの。ポイズン・スプリンクルが飛行した場所は、人間も建物も草や木までが全て溶けてしまうの。前回は海上で出現したから良かった物の、もしも都市部で出現してたら甚大な被害をもたらしたと思うわ」
「……なるほど。ちなみに、異次元との亀裂みたいな物はいつ発見されたんですか?」
「地球で初めて亀裂が発見されたのが、今から二十年前の一九九九年の七月よ。場所は北極大陸の中心部。いわゆる北極点ね。日本では、三年前が最初かしら。そう言えば、地球最初の亀裂発見前に、日本ではノストラダムスの予言が流行してたみたいね」
「あの、その時はどうなったんですか?」
「それ以前に、地球人は知的生命体とコンタクトを取っていて、色々な技術革新が行われていたんだけれど、まだ異次元生物に対する防衛技術が確立されていなかったから、各惑星の知的生命体が結束して戦ったらしいわ」
「なんか想像もできないですけど、そうなんですか……」
「うん、亀裂の発見が遅れた為に沢山の異次元生物が侵入して進化してて、その数週間に渡る戦いは凄惨を極めたみたい。最後の異次元生物が消えた時には、戦った知的生命体の全てが生命活動を停止していたの。その中に私達の母親もいた……」
「え……」
「救援に行った仲間が、その意思を受け継ぐ者を誕生させる為に戦死した女性の卵子を取り出して冷凍保存し、選出された各国の地球人との交配をしたの。その子供達が成長するまでは、各惑星の知的生命体が力を合わせて戦ったみたい。だから……私達は母親の姿を見た事がないの……」
「……」
「な、なんかごめんね、しんみりしちゃったね。さっ、この話はお終い! まだまだ沢山の生物を見てもらわないといけないから、次いくよ!」
愛霧は、その瞳に悲しげな色を僅かに滲ませ、頬を伝う一筋の涙を右手で拭った。
無理に作ったその笑顔が、とても痛々しく賢治に映っていた。
それからしばらく、ゼロ次元を抜いた、一次元から四次元までの、過去に侵入した生物を賢治は見せてもらった。その殆どがグロテスクで、恐ろしいスキルを持った生物であった。もしも、愛霧達の母親の話を聞いていなければ、賢治は恐ろしくなり逃げ出していたかも知れない。いや、恐ろしい事に代わりはないのだが、賢治は考えていた。
偶然と言えば偶然なのかも知れないが、ゼロ次元の亀裂が入る可能性が出てきた時に、受かるはずもないと理解しながら、賢治は入社試験を受けていた事。
その賢治が日本で唯一、プロテクトアーマーを装着出来る適合者である事。
そして、遠い先祖は高名なエクソシストだと告げられた事。
偶然にしてはつながり過ぎなのではないか、賢治はそう思った。なにより、愛霧達の母親が命を賭けて戦ってくれていなければ、賢治はこうしてこの世に存在していない。
二十年前の一九九九年七月に、人類は滅亡していたのだから。
特殊能力のない単なる人間である自分に、果たして何が出来るのか分からないが、やれるだけの事はやってみよう。これは自分に課せられた宿命なのだ、と考える事にした賢治であった。
とてつもない借金を背負わされるからではない、と心に言い聞かせながら。
賢治は、スッと立ち上がり姿勢を伸ばして、自分自身に言い聞かせるように、静かに、しかし力強く決意を述べた。
「愛霧ちゃん、力になれるのかどうか分からないけれど、俺は地球の為に頑張ってみるよ。これから宜しくお願いします!」
「うん、一緒に頑張ろうね!」
愛霧は、賢治の両手を力強く握り締めた。
その部屋を出た賢治は、舞夜のデスクの前に立った。書類を手に持ったまま、舞夜はじっと賢治を見つめている。
「……どうやら、やる気になったみたいね。戦闘に関しては出来るだけ早く、あんたと私のツートップにしたいから、明日から戦闘訓練してもらうわよ。わかった?」
「了解しました! 八文字マネージャー!」
「……そうね、あんたとはこれから戦闘時にパートナーになるわけだし、呼び方変えましょうか。呼び捨てはさすがにムカつきそうだから……舞夜さんでいいわ。これからよろしくね、ケンジ」
そう言って、右手を差し出してきたので、その手を握り締め賢治は言った。
「よろしくお願いします、舞夜さん!」
「よし、これからケンジの歓迎会やるわよ!」
パッと表情を明るくさせて、持っていた書類を引き出しにしまい、膝に手を当てて肘を伸ばす反動で立ち上がり顔を上げた。その声にいち早く反応した桃子は、立ち上がって大はしゃぎしている。
「わ――――い! パーティーだぁ――――!」
「今日は何処で飲もうか?」と、舞夜。
「やっぱ、ハワイでしょ! 常夏のビーチでビール! みたいな?」
と返した波紋は、左手を腰にあて右手でジョッキをあおる仕草をした。
――ハワイで、ビーチでビール?
と小首を傾げ、主役であるはずの賢治は完全に蚊帳の外にいた。
「じゃあ、着替えるわよ!」
その舞夜の掛け声で、四人はロッカールームに消えて行った。取り残された賢治は、意味が分からずにただ立ち尽くしていたが、ものの五分ほどでロッカールームの扉は開かれた。
最初に出てきたのは、真っ赤なビキニを付けた舞夜であった。目を見張るほど抜群のプロポーションで、賢治の目の前を通り過ぎて行く。
「え、え、え、なんでビキニを……?」
突然の水着スタイルに驚いた賢治は、口に手をあてて目をパチパチさせた。
次に出てきたのは愛霧だ。
白のビキニで下には短いスカートのようなヒラヒラが付いていて、走るとそれがフワフワ浮いて、その下も水着だと分かってはいても賢治はドキドキしてしまう。
舞夜に比べると若干肉付きはいいが、これはこれで、とかなんとか思っていると。
黒のビキニを身に纏った波紋が現れた。スレンダーボディにその水着が見事マッチしていて、まさにモデルの水着ショーを見ている気分になってしまう賢治であった。そうして、三人が隣の部屋に消えて行った後、ロッカールームから声が漏れた。
「ねぇ、待ってよぉ、モモを置いて行かないでぇ――――!」
パタパタとビーチサンダルの音をさせて、スクール水着の桃子が浮輪をお腹の辺りで抱え、パッと飛び出してきた。
「あれ? ケンちゃんは着替えないんですか?」
「え、いや、だって水着なんて持ってきてないから……生花ちゃんは持ってきてたの?」
いやいや、そう言う問題ではないだろ、と自分に突っ込みを入れてみたものの、とても冷静になれる状況ではなかった。
「みんな、水着はここに置いていますよ。あ、あとケンちゃんの方がお兄さんなんですから、『モモぴ』か、『ももちゃん』って呼んで下さい! 取り敢えず行きましょう、ケンちゃんが主役なんですから!」
桃子に訳も分からず腕を引っ張られて、賢治はサイバールームの入り口をくぐった。
「な、な、な、なんでハワイがここに!」
現地に行った事はないが、テレビで何度も見た事があるし、波紋もそう言っていたのを思い出し、たぶんここはハワイなのだと思いそう言ったのである。
少し離れた場所に設置してある、パラソルの中から舞夜の声が聞こえてきた。
「仮想装置使ってハワイを作り出したのよ。ちなみに、気温も湿度も日光も海も全てが本物と同じだから。水着ないなら仕方ないけど、せめて上着は脱ぎなさいよ」
その声に促され、賢治は上着を脱ぎ伸ばした足を砂浜につけた瞬間、
「ア、アツッ!」と、喚いた。
その砂浜は、頭上から照り降ろされる太陽の光を浴びて、本当に焼けていた。
「早くこのパラソルの中に入らないと火傷しちゃうよ」
白のビキニが眩しい愛霧が、デッキチェアーで横になり眩しそうに瞳を細め、賢治に微笑みかけている。隣で横になっている波紋も、微笑を浮かべて賢治に視線を送っている。舞夜は、その奥でサスケと一緒にバーベキューセットで肉を焼き始めていた。
さっきまで賢治の横にいた桃子は、いつの間にか青い海の中でプカプカと浮かんではしゃいでいる。
「……ハワイ、ありだな」
そう、小声で呟く賢治であった。
火傷しないように砂浜を早足で駆け、パラソルの中に入り愛霧の横に用意されていたデッキチェアーに座る。
視線の先には、白いビキニの可憐な少女と黒いビキニのスレンダー美女の二人が横たわり視線を賢治に向け微笑んでいる。
コンビニでの立ち読みの際、少年誌のグラビアページでさえ、人の目を気にしてすぐにめくってしまう賢治である。
目の前には、そのページに載っていてもおかしくはない美貌とスタイルを持った二人が横たわっている。
本来ならば、永遠にでも見続けていたい絶景ではあるのだが、このまま沈黙していると変に意識しているように思われてしまうのではないか、と賢治は慌てて口を開く。
「こ、この装置ってすごいですね。バーチャルの域超えてませんか?」
二人の表情を見る限り、そんな賢治の焦りを感づかれた気配はないようだ。ホッと心を撫で下ろす賢治であった。すぐに愛霧が、その問い掛けに答えてくれた。
「そうだね。ちなみに今焼いてる肉なんかは、サスケちゃんが食堂から転送してるから本物だけど、お酒は仮想装置で作り出した物だから中身は水なのよ。だから飲んで酔ってもスイッチを切ると元に戻るの」
「なるほど。こうしていても、警報が鳴れば緊急出動出来るって事ですか……それはかなり便利ですね」
と、納得しながら頷いていると、後頭部に激痛が走った。
「イタッ!」
と、声を上げ振り向くと、腰に両手をあて仁王立ちした舞夜がいた。
「あんたさ、か弱い女の私がバーベキューの用意してるのに、なにリラックスしてくつろいでんのよ。ほら、早く手伝いなさいよ!」
デス・ワームとの戦いを思い出した賢治は、『か弱い』と言う単語に疑問符を打ちながら視線を送ったのだが、パラソルの外でやっていたからなのか舞夜の体からは、何かの宝石のように輝く水滴が無数に流れ落ちていて、その身体から視線を逸らせずにいた。
「ちょっと、あんたどこ見てんのよ。上司を視漢するつもり?」
「な、なに言ってるんですか! それは、そのですね……あまりに美しくて、その、芸術品を見る感覚と同じで見惚れてしまったんですよ!」
「……なるほどね。ま、その気持ちは理解出来るから許してあげる。ほら、さっさとこっちにきて手伝いなさい!」
舞夜に腕を引っ張られて行く賢治を見て、愛霧も波紋も声を立てて笑っていた。いつの間にか、配属初日に痴漢扱いされた賢治も笑っていたのであった。
焼き上がった肉や魚介類に野菜をみんなでお腹一杯食べて、いつの間にか仮想ビールをジョッキで五杯ほど空け、顔を真っ赤にした舞夜は完全に酔っぱらっていて、隣にいる賢治に絡んでいた。
「だからさぁ、ヒック、あんたは地球の事うぉ、なぁーんも知らないわけよ。ヒック、わかる? わからないだろうなぁ、五流じゃ」
「ま、また……五流って」
「ごめんねぇ、マヤって酔うといつもこうなのよ。説教癖って言うのかな、たちが悪いの。今まではモモちゃんが的にされてたのよ。ケンジ君が入って、モモちゃん解放されたと思ったら、今度は波紋ちゃんからいじめられてるわね……そう言う体質なのかしら」
そう言って、桃子に視線を移した愛霧も色白の頬がほんのりと赤くなっていて、賢治の心中は穏やかではなかった。
「うぅぅ……やだ波紋ちゃん、くすぐったいです!」
波紋は意地悪な笑みを浮かべて、桃子の体を頻りにくすぐっている。どうやら酔うといじめ癖があるようだ。
――桂木チーフになら、いじめられたい気がする……。
賢治が、その不埒な思いを想像に移しかけた直後、後頭部にまた激痛が走った。
「イダッ!」
振り向くと、舞夜がジョッキを片手に定まらない目線でなんとか賢治に照準を合わせ、呂律が回っていない口調で、
「ちょっろ、ヒック、あんら聞いれるの! こうしているあいらにも、砂漠化は、ヒック、進んれるらからね!」
「聞いてますってば。ちょっと飲み過ぎなんじゃないですか?」
そっか、飲み過ぎても問題ないんだったな、とかなんとか思っていると、
「うるらいわね。ヒック、あんら、上司のわらしに意見するっれ言うの?」
「い、いや、別に意見ってわけじゃなくてですね……ちょ、ちょっと!」
割れたかと思うほどの音を響かせ、ジョッキをテーブルに叩きつけた舞夜が、賢治にいきなりヘッドロックをかけたのである。
「イ、イダダダダ、痛いですって!」
と言いつつも、顔の横には真っ赤なビキニで包まれた形の良い胸があり、ほんのり甘い香りもする状況である。痛さよりも嬉しさの方が断然勝っている賢治であった。
「マヤ、ケンジ君が痛がってるでしょ! ほら、離しなさい!」
と、そこに頬を赤らめた愛霧が加わり、賢治の目の前には四つのそれが揺れ動き何度も顔に接触していた。
この会社結構良いかも、などと相変わらず不埒な事を思っている賢治であった。
それからしばらくして歓迎会が幕を閉じ、シラフに戻ったみんなが各自の席につくと同時に、さっきとは別人の舞夜が口を開いた。
「ケンジ、会社は一八時で終わりだけど、いつ次元の亀裂が発生するかわからないから、非常招集がかかったらすぐにプロテクトアーマーを装着して出社しなさいよ」
「あの、その非常招集ってどうやって分かるんですか?」
「あんたが飲み込んでるプロテクトアーマーには、受信機も入ってるから脳に直接信号が届くわよ。後は、さっき愛霧からレクチャー受けた生物の資料持って帰って復習しときなさい。じゃ、お疲れ」
そう言い残して、さっさとドアを開けて一人で出て行った。賢治は指示通り愛霧から資料を受け取り、残った四人でエレベータに乗り込む。ふと疑問が浮かんだので、賢治は隣にいる波紋に聞てみた。
「非常招集って結構あるんですか?」
「そうね、たまにかな。でも仮に招集がかかっても脳に直で来るから、目覚まし時計は必要ないし心配せずに寝てていいわよ」
賢治は頷き、目覚ましがいらないほどの、『何か』が脳に鳴り響くんだな、とやや恐怖を覚えていた。
エレベータの透明なドアが開いて、四人は警備員に挨拶し豪華なエントランスを抜けてビルの外に出た。周りが高層ビルばかりで、沈みかけているであろう太陽は顔を隠していたが、ビルの隙間から差し込む夕日によって橙色に染められた街並みが、今日はなんだか幻想的に見える賢治であった。
賢治は三人に別れを告げて、会社から徒歩十分ほどで着く自宅のマンションに向かった。
「まさかの入社理由……まさかの業務内容……まさかの人種? しかし、人生は何が起きるか分からないものだ……」
そう、ブツブツと独り言を呟きながら、赤く染まりかけている空を見上げる賢治であった。