片恋バスストップ
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白い息の向こうに、かすむ星月夜。
いまにも落ちてきそうな星屑に目を伏せて、耳をすませた。
冷えすぎた耳朶はじんじんと痛みを訴えるばかり。
響くのは突き刺すような冬の乾いた風の音。
あの声は、聞こえない。
錆びついて朽ちかけているバス停に立ちつくすこと数分。
完全防備とばかりにブーツを装着したけれど、爪先はすでに感覚がなくなっている。
指先はすっかり麻痺してしまって、何度もビニール傘の柄を握り返した。
気を抜けばすぐにすり抜けてしまいそうで。
そうしたらもう二度と、会えないような気がしたから。
一向にやわらぐことのない手足のしびれは、痛みを増していく。
走り去る車があたしの髪を揺らして遊ぶ。
夜闇の黒海に浮かぶはカラフルな人工の星明かり。
赤や緑のイルミネーションがクリスマスという現実をまぶたの裏に焼きつけていく。
何度目になるか分からないため息には逃げ出していった幸せがあざやかにうつりこんでいて、夜の黒に消えていくところを名残惜しく目で追えば、遠くに小さなひかりが見えた。
痛む耳にアスファルトを乱暴に転がる車輪の音が響く。
ちかちかと、家並をぬって届くふたつのひかりに大きく息を吸い込んだ。
こんなにも寒くて、もうとっくに凍りついていると思った指先。
けれども、傘の柄を握りしめたてのひらはじっとりと冷たい汗をかいていた。
『お待たせいたしました。……団地行きです』
氷のかけらを含んだ風を裂いて、勢いよくスライドしたドア。
一瞬にして、何もかもを溶かすような温度に気が緩むのを感じた。
動きがすっかり鈍くなってしまった足を必死に前に押し出す。
車内に足を踏み入れれば、機械特有のアナウンスボイスが胸を締め付けた。
ヒールがにぎやかな音を立ててステップを上がる。
静か過ぎる車内に響く不釣合いなリズム音。
多少の気まずさを感じながらも、すぐさま運転席に目を向けた。
ほのかなひかりの中に浮かぶ、帽子の黒。
案の定、乗客はあたしだけだった。
目を凝らして、近づく。
とたんにヒールが踊りだす。
何度もそうしたように、今日も運転席の真後ろに腰をかけた。
『発車します。ご注意ください』
アナウンスと同時に動き出したエンジン音に紛れて、視線を上げた。
祈るように、願うように。
胸を締め付ける痛みと指先のしびれは、その一瞬だけ掻き消される。
ルームミラー越しに、目があった。
冷たく汗ばんだ手から傘が抜けて落下する。
(あのひと、だ)
鼓動と傘の落ちた音が同時に響いて、真っ白になった。
一年前。クリスマスイブ。
最終バスに乗っていたあたしの目に映ったのは、汚れた窓に叩きつけられた白い花びらだった。
「傘、わすれた」
ばちばちと弾ける音にうなだれて、それでも降車ボタンを押す。
赤紫のランプとアナウンスが響いて、一瞬だけ叩きつけられる雪の音が消えた。
けれど、凍りついていく夜に変化などあるわけもない。
重いため息とともに覚悟を決めて、停車したバスから降りようとしたとき。
かたいものが、手に触れた。
「持っていけ。イブだから、トクベツな」
冷えたてのひらにすべり込む傘の柄。
スピーカー越しじゃない、機械音でもない、低くかすれたような声。
その持ち主は目を合わせることもなく目深に帽子をかぶり直していた。
運転手にしては素っ気無くて、愛想のかけらすら見当たらなかったけれど。
気落ちしていたあたしにとってはまるでサンタクロースのように思えてならなかった。
「ありがと、うございます!」
誰もいない車内に響いた、あたしのばかでっかい声。
見えない表情の黒い帽子のあのひとから、少しだけかすれた笑い声が聞こえた。
あの日の黒いサンタクロースの声は、いまだ耳に残ったまま。
あたしをくすぐって、はなれない。
あれから、ずっと探していた。
用もないのに、バスに乗った。
ビニール傘を片手に。
この気持ちが一体何なのか。
下手するとストーカーじゃないか。
なんて不安に思いながら、それでもあのひとを待ってバス停に立ち続けた。
期待と不安とよく分からない感情は込み上げるばかりで、発散することもできずにいた。
正体の分からないものに焦れているだけの日々。
だから、ちゃんと考えていなかった。
あのひとに会ったら、何がしたかったのだろう。
落ちてしまった傘を拾い上げて、頬が熱に染まっていくのがわかった。
(傘を返す。で、どうしよう)
そもそも、何でこのひとを待っていたんだろう。
傘を返すため、それがまず大前提で、他に何か理由があったようななかったような。
だけど、待っているあいだはいつも、あのかすれた声が耳の奥であたしをくすぐっていた。
(ああ。もうどうでもいいや)
気がついたときには、指が勝手に降車ボタンを押していた。
赤紫のランプ。機械のアナウンス。素っ気無いサンタクロースの声は、聞こえない。
『ご乗車ありがとうございました。……前です』
揺り揺られる間もなく、たどり着いたバス停。
生温い温度を裂いて開くドア、アナウンスボイス。立ち上がって運転席へ。
高鳴る、ヒールと鼓動。
きっと、あたしのこともあのときのことも、覚えてはいないだろう。
だけどあの声がもう一度聞けるなら。
それで満足だ。
「あっ、の! 傘、前にお借りしたんですけど! ありがとうございました!」
耳鳴りみたいな心臓の音。
途切れ途切れの緊張丸出しの声。
顔が見れなくて、頭を下げたまま傘を突き出した。
ちかちかと響くのはハザードランプ。
どこどこと波打つのは、あたしの中から響くモノ。
そして。
「ウケるな、お前」
正面から聞こえたあの笑い声。
「外、見てみろよ。また降ってんぞ」
「さ、っきまでなんともなかったのに」
開いたドアの向こうに横殴りの白。
夜に散るそれはきらきらとランプをうつして地面に叩きつけられている。
「今度、返しにこい。次は派出所に来いよ。わざわざバス待ちしなくていいから」
あたしの努力は、どうやらこのひとの知るトコロだったらしい。
波打つものに火がついて、足元から何かがせり上がってくる。
「じゃあな」
かすれた笑い声。
目深に被った帽子の黒。
わけもわからず待ち続けたバス。
だけど、いま満たされているこの気持ち。
ステップを下って、地面にたどり着く。
スライドしたドアの向こう側で、白い手袋に包まれた片手があたしに向けられていた。
「――発車します」
機械アナウンスで発車するはずのバスから、聞こえたのはあの素っ気無い声。
てのひらからすべり落ちた傘の柄。
遠ざかるバスと、黒いサンタクロース。
耳の奥でまたあの声があたしをくすぐるものだから。
思わず、熱っぽい耳を塞いでしまったのだった。
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お読みくださって、本当にありがとうございました。
ちょっとしつこい文面になってしまいましたが、ひとこといただければ幸いです。
ありがとうございました!
2007.11.22 梶原ちな
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