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      三



 闇に沈んでいた中庭も、東の空がぼんやり明るくなってくると、背の高い植物や噴水の輪郭が青く浮かび上がってくる。

 中庭をぐるりと囲んでいるバルコニーに、与えられた部屋は面している。その手摺に肘をついて、ディーナは朝の祈りに指を組んでいた。

 しんと冷えた清涼な空気が辺りを覆っていた。噴水があるせいか、空気は適度に湿っていて心地いい。

 祈りが終わる頃、ひとの気配を感じた。顔を上げると、紺の闇を分けてこちらへとやってくるジャファールの姿があった。

 ディーナのもとへと足を運ぶその姿は端麗で、絵物語の主人公のように美しい。

 昨夜、アミナからおかしな提案をされたから、ヘンに意識してしまう。

「おは、おはようございます」

「おはよう。早いな」

「昨日は、早く床につきましたから。―――あ。あの、昨日は申し訳ありませんでした」

「いや。倒れる前に気付けて良かったよ。ハーフェズの悪戯で、かえって申し訳ないことをした。アイツに代わって謝るよ」

「そそそんな、とんでもないことですッ」

 ごく自然に横に並ぶジャファール。

 なんだか、ものすごく近い気がする。

 アミナがあんなこと言わなければと、内心恨みたくなる。

「具合はどうなんだ?」

 ディーナの気持ちを知らないジャファールは、気さくに訊いてくる。

「おかげさまで、休んだら良くなりました」

「昨日はいろいろなことが一度にあったからな。精神的にも疲れているはずだ。遠慮なんてせず、ゆっくり休むといい」

「あの。でも、……ご迷惑をおかけしました」

「迷惑など。他人行儀なことを言うな」

 優しい声だった。

 ジャファールは、いつかはこの国の王となって、そしていつかは―――グリュフォーンに食べられてしまうのか。

 自分は?

 自分も?

(あたしは、大丈夫なの? ちゃんと生きて帰れるの?)

 きゅっと、手摺を握る手に力がこもる。

「あの……」

「どうした?」

「グリュフォーンの器になるって、死んじゃうってことでは、ない、んですよね?」

 すっと、ジャファールは鋭い空気をまとった。

「部屋に。いいか?」

 優しかった声に、険しいものが混じる。ジャファールはディーナの部屋へと彼女の腰に手を遣った。

 腰を導くその手には、有無を言わせない力強さがあった。

 器についての話は、こんな早朝、ふたりきりでも禁忌なのかもしれない。

 迂闊だったかもとは思ったが、それ以前にジャファールは、こんな時間に部屋でふたりきりになることをなんとも思わないのだろうか。そちらのほうが気になってしまう。

「ディーナ。君は正式に、器の姫君と認定された」

 部屋に入り、バルコニーへの扉を閉じると、ジャファールは振り向いてそう言った。

「そう……ですか」

 覚悟は、あった。

「グリュフォーンの器となって命を失うことはないらしい。だが、エル・ザンディに帰ることはできない。バハーバドルで、この宮殿で一生を過ごすことになる。故郷の婚約者と結婚することもできない」

「―――え?」

 帰ることが、できない?

「どうして……ですか?」

 ジャファールはバルコニーへの窓を背にし、表情を殺したままで続ける。

「ディーナの使命は国の機密に関わるものだからだ。グリュフォーンの妻になったとみなされ、誰かに嫁ぐことは禁じられる」

「な……なにそれ」

 グリュフォーンの妻? 自分が? 冗談。

 そう言い返したくとも、ジャファールは真面目な表情を崩さないし、朝っぱらから冗談を言う男にも思えない。

「母は。母は知ってるんですか? 帰れないってこと」

「王の娘だから、もちろん知っているはずだ」

「知ってて……、知っててあたしをここに?」

 頷くジャファール。

 愕然とした。

 信じられない。けれど思い返してみると、家をたつときの両親の見送りは大袈裟すぎた。母の故郷に行って、幻聴を治してもらうだけのつもりだったから、涙ぐむ母をおかしいと思った。わざわざ男装して叔父に隊商を組ませてまでバハーバドルに急ぐ理由も、幻聴を治すだけにしては大仰だと。

 いま思えば、おかしなことだらけだった。

 母は、知っていたのだ。

 あれが両親との、兄との別れだったなんて。

 バハーバドルに入国できない家族とは、永遠にもう会えないだなんて。

「ライラさまも、悩んだ末のことだ」

「悩んだ?」

「言葉としては書いてなかったが、ライラさまの手紙には、君の負ってしまった運命に懊悩しているのがありありとにじんでいた」

「そんな」

 ライラは、最初から二度と会えなくなる覚悟で娘を出したのだ。

 バハーバドルのために、娘の命を差し出したのか。

「エル・ザンディの婚約者が、気になるのか?」

 悄然となるディーナに、どこか気に入らない口調でジャファールは問う。

「婚約者? ああ、ゴバードさんのことですか? そんなんじゃないですけど」

「ふぅん」

 心ここにあらずな答えに、目を眇めるジャファール。彼は、自分の婚約者がディーナになにを言ったのか知らないのだ。だからこんな上から目線でなんとでも取れる態度に出られるのだ。

 いい気なものだ。なんだか、腹の底がむかむかする。

「帰れないっていうのは、本当は、やっぱり死んじゃうからなんじゃないんですか?」

「死ぬ? どうして?」

「グリュフォーンは、身罷った王の遺体を食べると聞きました。わたしも、器としての役目が終わったら、食べられてしまうのでは? だから、だから帰れないってことになってるんじゃないんですか?」

「……ライラさまが娘の君をそんな目に敢えて遭わせるとでも?」

 噛みつくように訊いてきたディーナに、ジャファールは逆に尋ねる。

「そんなはず、ないけど」

 けれど実際、真実を隠して娘を異国へとひとり旅立たせた。ジャファールは、不安を宿すディーナに力強く断言する。

「そうだ。あるわけない。ライラさまは、自分の故郷のためであっても、娘の命を犠牲にするような方じゃない」

 ライラ信奉者のジャファールが言ってもあまり説得力はなかったけれど、ディーナの知る母は、そうだ、確かにそんな冷徹な人間ではない。

 ということは。

「母がわたしをここに寄こしたということは、死ぬとかそういう怖いことはないってこと……?」

「ああ。―――と、断言したいところだが、実際は判らない」

「そんな」

「おじいさまの大叔母が、前回の器の姫君だったそうだ。おじいさまがお小さい頃、よく構ってもらっていたと聞いたことがある」

「ほ……、本当ですか」

「ああ。おじいさまに訊いてみるといい。昨日はあんな仏頂面だったが、ディーナが退席してからは、とにかくつまらなそうにしていた。祖父は変なところで頑固だから、ディーナから話しかけてあげて欲しい」

「わたし……嫌われてるんじゃないんですか?」

 昨夜の祖父は、ほとんどディーナを見ようともしなかった。最後にかけられた冷たい声を思い出し、ディーナの声は震えてしまう。するとジャファールは少し大げさなくらいに驚いてみせる。

「まさか。確かに判りにくいところもあるだろうけど、おじいさまも戸惑ってるんだと思う。初めて会った孫娘にどう接すればいいのか、ご自分でも困っているんじゃないのかな。ディーナから甘えてみるといい」

「が。頑張って訊いてみます」

 自分の生死がかかっているようなものだ。祖父への恐怖心などどうってことない、はず。だといい。よし、と覚悟を決めていると、

「そこまで力まなくても」

 また苦笑が返ってきた。

「―――あの」

 ふと、もしかしたらと、思った。

「器の姫君が食べられないのだったら、王さまを食べるというのも、本当は違っているとか」

 優しい顔をそのままに、しかしジャファールは首を振った。

「それは本当だよ。死んだあと、祖父や父、わたしはグリュフォーンにこの身を捧げることになっている」

 ぞっとした。背筋から鳥肌がざっと肌を伝う。身体が、残らないだなんて。

「怖くないんですか?」

「怖がっても、こればかりは変えられないからな」

 さらりと言うジャファール。達観したかのようなその態度が、ディーナには理解ができない。

「来世への身体がなくなってしまうのに?」

 ひとは死したのち、その身体は手厚く葬られる。棺に入れられ、地中深くへと沈められる。地下世界でその身体は冥王の審議を受け、来世の肉体となり、生き続けるのだ。

 少なくともエル・ザンディではどんな身分であろうと、埋葬は平等に行われる。高価な木材も、棺に限っては貧しい階層の者にも行き渡るようになっている。

 来世への肉体を確保しておく。これは、死に際してなによりも重要視されることだった。

「グリュフォーンをバハーバドルに留まらせておくための血の契約だ。国に身を捧げるのは、王の本分だから」

 それでも。

 ジャファールの身の上に起こる出来事を思うと、他人事なのに放っておけない気持ちになる。

 きっと、―――従兄だから。そう。従兄だから。

「気にしてくれて、ありがとうな」

 そっと、ジャファールの手が肩に伸びる。が、ディーナに触れる直前、引っ込められる。

 ―――危なかった。

 行き場を失ったその手の動きの意味に、ディーナは気付いていないようだ。

 誰もいまだ起きていない早朝。ライラそっくりなディーナと部屋にふたりきりの状況。

 気持ちが、ざわめいている。

 このままここにいては、いけない。

「不安なことがあればなんでも訊いてくれればいいから。おれも知らないことのほうが多いから、おじいさまに訊いたほうがいいのだろうけど」

「はい。ありがとうございます」

「具合がまだ本調子でないのなら、今日もゆっくり休んでいればいいから」

 そう言って、ジャファールはバルコニーへと出ていった。

 しんと、静かな空気が部屋に降りた。

 窓の向こうの景色は、もうかなり明るくなっている。

 知らず、大きな吐息が漏れた。

 ジャファールとふたりきりという時間に、想像以上に気を張っていたらしい。



 夜明ける前に目が覚めるのは、いつものことだった。召使いを呼んだとしても、普段の宮殿ではないこの場所では、なにをするにも面倒だった。

 だからイマードは、長椅子にゆったり身体を預けて、初めて会った孫娘の部屋をただなんとなく眺めていた。

 ディーナと名乗っていた。ディーナとは、実はライラを名付けるときに最後まで悩んだ名前だ。いつだったかそれを娘に話したことがあったのだが、それを覚えていたのだろうか。

 エル・ザンディの血が半分流れているせいだろう、ディーナは色素が薄い。色素は薄いが、ライラそのものだった。まだあの男と出会う前の純真なライラが、ディーナとなって戻ってきた。

 昨夜の夕食会で、ハーフェズのバカがしでかした悪戯のせいで具合を悪くしていたが、もう体調は良くなったのだろうか。細い身体をしていた。エル・ザンディではまともな食事もできないほど、貧しい生活をしていたのだろうか。

 ライラへの勘当を解いてやれば、ディーナはもっと裕福な生活ができていたかもしれない。

 イマードは、初めて会った孫娘に心奪われてしまっていた。

 両親や兄を――あのときライラのお腹にいた子供は息子だったのか――勘当した自分に、身を固くして挨拶をしてきた。その初々しさ。初めて会う親戚たちとの会話や慣れない食事作法に四苦八苦しているさま。

 なんと微笑ましいことか。

 あんなにも純真な娘を、ライラは産んでいたのか。

 幸せになって欲しい。ライラのように親から勘当されることのない未来であって欲しかった。

 なのに。

 彼女を待ち受ける運命を、呪いたくなる。

 どうしてグリュフォーンの器に選ばれてしまったのか。女の幸せは結婚にあるというのに、どうしてそれを与えてやれないのか。

 前回、器に選ばれたのは大叔母だった。大叔母が器の姫君になったのは、記録によればディーナと同じく十六だったらしい。彼女はそれからずっと、結婚をすることもなく王宮で暮らしていた。何十年も。イマードが小さな頃に亡くなったのではっきりとした記憶はないのだけれど、笑顔があたたかくて、いつも優しく見守ってくれていたことを覚えている。そうして、ときおり寂しげな眼をしていたことも。

 ディーナも、この王宮でそうなっていくのだろうか。

 孫娘の将来の孤独を思うと、できるものなら代わってやりたかった。本来ならば、グリュフォーンが天界へ赴くのは、まだ百年は先のはず。どうしてディーナが生きているときに天界へ行こうとするのか。守護神獣とはいえ、恨まずにはいられなかった。

 自分にできることは、彼女が孤独に苦しむことのないよう、祈ることだけだ。

 ディーナのあの屈託のない笑顔を、ずっと永遠に守ってやれたら。

 そうぼんやり考えるでもなく思いにふけっていると、まさにそのディーナの部屋の窓が開いた。

 ディーナが出てくるのかと、ちょっと期待して待っていると、現れたのは思いもかけない人物―――孫息子だった。

 ジャファールは部屋にいるのだろうディーナに微笑みを浮かべながら、何事もなかったかのようにバルコニーをこちらへとやってくる。

 さっとカーテンの影に隠れるよう身をよじってジャファールの目を避けるイマード。その様子に気付くこともなく、ジャファールはイマードの部屋の前を通り過ぎ、自室へと戻っていった。

(どういうことだ……!?)

 爽快な朝の空気にもかかわらず、じんわりと冷や汗がにじんだ。

 器の姫君は、純潔でなければならない。

 ジャファールがそれを知らないはずはないのに。

 ディーナの部屋から早朝に退出するジャファール。その意味。

 自分の見た光景に、イマードは息することすら忘れた。



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