二
自室の豪華さに気後れしていたが、さすがに身体がつらさを訴えていて、寝台で休ませてもらっていた。
「ディーナ。少し、いいかしら?」
窺うような女性の声に、意識が浮上する。
「寝てる……?」
「あ、いえ。あの、ど、どうぞ」
半分寝ぼけながら、ディーナは衣服を整え、声の主を招き入れた。
申し訳なさそうに現れたのは、アミナだった。
あれから、どれくらい時間が経ったのだろう。外はまだ暗いから、ずっと寝ていたわけではなさそうだけれど。
「ごめんなさい、休んでるのに。話があったから、すぐにでも会いたくて」
夕食会はまだ続いてはいるが、女性は退席する時間になったため、この隙に部屋に来たとのこと。
華やかなアミナ。ジャファールの隣にいても全然引けを取らない美しさだ。この部屋にも、違和感なく馴染んでいる。雲泥の差の自分に、ディーナの気持ちは沈んでしまいそうになる
「体調は、どう?」
「少しうとうとできたので、先程よりは」
「そう。―――よかった、……うん」
(……ん?)
どうしたのだろう。なにか、違う。アミナの雰囲気が、つい先程までとは異なっているような気がした。
夕食会では楽しそうにお喋りをしていたのに、話があると言ったいまのアミナは気がかりでもあるのか、言葉を探しているようにも見える。
「あの……、やっぱりわたし、まずかったですよね……?」
お酒に酔って倒れ込むという失態は、エル・ザンディでもいい顔はされない。それを母の故郷で犯してしまったのだ。きっとみんな、呆れ果てていることだろう。器の姫君かもしれないと言われているからこそよけいに、ディーナは肩身が狭くなる。
生まれた不安に半ば怯えながら尋ねると、彼女ははっとディーナに視線を留めた。
「え。まずい? なにが?」
「あの。酔ってしまって、わたし」
ディーナの言葉に、ようやく得心がいったようにアミナは小さく頷いた。
「全然そんなことないわよ。むしろ被害者。ハーフェズさまがこっそり飲み物を取り換えたって白状してたわ。ジャファールさまからこってり絞られてた」
そのさまを思い出しているのか、おかしそうにアミナは笑う―――も。
すっと表情を引き締めてディーナに近付いてくる。
「エル・ザンディのひととは、絶対に結婚しなくちゃならないの?」
思いがけないことを突然訊いてきた。
自分のことでもないのに、ひどく真剣な顔だ。
「それは……はい。まだ具体的な話は進んでないとは思いますけど、いずれは」
「―――えっと、あのね」
「はい」
アミナはなにかにためらい、まっすぐに見つめ返すディーナの眼差しからそっと目を伏せた。少しして小さく頷くと、再びディーナの顔を見た。
「ジャファールさまのこと、どう思う?」
「え?」
いきなり訊かれた言葉の意味を、ディーナはすぐには理解できなかった。
どう思うと言われても、婚約者本人の前でどう言えばいいのか。それ以前に、どう思うにも、ジャファールのことをよくは知らない。
「えと……。お優しい方だと思います」
「好きになれそう?」
「え?」
聞き間違い、だろうか?
アミナは辺りを気にしながら、真剣な眼で更にずいと身を乗り出した。
「ジャファールさまはきっと、ディーナのことを悪くは思っていらっしゃらないわ。いいえ、いい印象をお持ちだわ。夕食会の席でも、あなたのことよく気にしておいでだったもの」
「そ、そうだったでしょうか……」
いっぱいいっぱいの頭だったから、覚えてなんかいない。
「ええそうよ。きっと、あなたのことがお好きなはず」
「―――えぇッ!?」
だからこそ、ディーナの不調にもすぐに気付いたのだとアミナ。
ジャファールはディーナのほぼ正面だったし、気付いたのはただの偶然かもしれない。観察眼が優れているからかもしれない。好きだからとかそういう問題ではないと思うのだけれど。
いったい、なにを言いだすのか。酔っ払っている……ようには見えないけれど。
「えと、あの、アミナさま、ジャファールさまと婚約してらっしゃるんですよね?」
アミナの表情が、問い返した言葉に曇る。
(?)
続ける言葉を言おうか言うまいか、迷っているようだった。唇を噛んだり指をいたずらに絡ませ合ったり逡巡を見せたあと、
「―――本当は……、破棄したいの。ジャファールさまとの婚約を」
「!?」
きっと国を左右するような重大事項を、アミナはディーナの前で小さくこぼした。
あまりのことに声も出ないディーナ。思わず、思考が飛んだ。
そんな問題発言、会ったばかりの自分に言ってしまっていいのか?
半ばパニックに固まるディーナに対し、口にして腹を据えたのか、アミナは一転、落ち着いたものだ。
「知っているかしら。バハーバドルの王は、身罷ったあと、身体は守護神獣グリュフォーンに食べられてしまうのよ」
グリュフォーンという単語に、ディーナはぎくりとした。器の姫君が現れたことは極秘事項だが、グリュフォーンの存在自体は、どうやら秘密ではないらしい。
身体を一瞬こわばらせたディーナに気付いているのかどうか。アミナは左腕に手を遣り、話を続ける。
「来世へと残す身体が奪われてしまうの。自分の夫にそんな運命が待ち構えているだなんて、わたしはイヤ。そういうひとを、好きにはなりたくないの。どうしても、堪えられない」
グリュフォーンは王の遺体を食べる。初耳だった。時折語りかけてくる神獣は、そんな恐ろしい存在だったのか。そんな存在の器にされてしまう自分は、生きて帰ることができるのだろうか。『器になる』ということ自体、あまりにも抽象的で捉えどころがないのだけれど。
もしかすると、自分は生きたまま食べられてしまうのでは? それを『器になる』と表現しているだけだとか?
「―――ディーナ? 大丈夫? 怖がらせてしまったかしら」
胸の底に生まれた恐怖で険しい顔になったディーナに、心配そうにアミナは顔を覗き込んできた。
「あ……、いえ……」
自分の夫となったひとがグリュフォーンに食べられるのは嫌だと言ったアミナ。
ただ―――なんとなくだけれど、アミナの言い方には、気持ちが感じられなかった。棒読みというか、言い訳じみているというか。話している間の表情に悩ましいものがなくて、どこか他人事めいていたせいかもしれない。
もしかして、と思う。
「あの、違っていたら謝ります。アミナさまは、他に……好きな方がいらっしゃるのですか?」
婚約している相手と結婚をしたくない、という理由で思いつくのは、母同様、他に好きなひとがいるから、だ。エル・ザンディの友人たちの中にも、他に好きなひとがいるのに親が決めた相手と結婚するのは嫌だと泣いた者がいる。
アミナの肩が、目に見えてぴくりと震えた。
「―――……誰にも、言わないで。誰かも訊かないで。お願い」
硬い表情なりにも顔を赤らめているアミナは、判りやすいといえば判りやすい。
「えと……、相手の方は、アミナさまのお気持ちをご存じなんですか?」
「ええ。これをくださったの」
先程から何度も触れている左の袖に右手を差し入れて、かちりとなにかを外した。彼女の左上腕からするすると手首へと滑ってきたのは、キディスだった。唐草模様を彫り込んだ金のキディス。控え目にちりばめられた赤い宝石が、アミナの朗らかさを表しているかのようだ。
たったこれだけで、相手の男性が、アミナを想っているのが伝わってくる。
ジャファールと婚約しているのに、ふたりは両想いなのだ。
顔にそれが出てしまったのだろう、アミナは悲しげに微笑んだ。
「ライラさまのような勇気があればね」
自分の父親を捨てたライラ。
この発言がなにを意味しているのか、判らないディーナではない。
「アミナさま、もしかして」
ほんのりと、彼女は笑みを浮かべる。
「ジャファールさまを裏切るつもりはないの。嫌いというわけでもないわ、むしろ好ましい方よ。でもね。あの方に出逢ってしまった。それだけなのよ」
「アミナさま……」
「ジャファールさまのあなたを見つめる眼差しには、愛しむものがあったわ。彼のあんな眼差し、見たことない。お願い、ディーナ。エル・ザンディの会ったこともない婚約者ではなく、ジャファールさまを好きになって欲しいの、愛して差し上げて」
「えぇ? えと。……いや、それはちょっと……」
目を潤ませてにじり寄られても、聞ける話と聞けない話がある。
荒唐無稽な話に身体が逃げてしまうディーナに、アミナも突っ走ってしまったことに気付く。
「そ、そうよね。いきなりこんなお願い、失礼よね。あなたにも、ジャファールさまにも」
もちろんだと頷いていいものか、ディーナはそれすらも判らない。
「でも、本当よ。ジャファールさまはディーナへのような穏やかな態度を、他の女性にはなさらないの。あなたを気にしているのは、間違いないわ」
「きっと、わたしが母の娘だからです。顔も似ているそうですし」
ライラに思慕の念を抱いているとしか思えないジャファール。その娘を大切に扱うのは、ごく当然だ。
アミナは、しかし首を振る。
「たとえいまはそうでも、いずれあなた自身を好きになっていくはず。愛するようになるはずよ。ディーナ。あなたとジャファールさまが想い合うようになれば」
そこからの続きは、彼女の思い詰める表情にあった。
裏切るつもりはないと言いながらも、アミナは、母のように好きな相手と一緒になるつもりなのだろうか。
ただでさえ落ち着かない頭の中が、よりいっそう混乱してきた。なにがなんだか判らなくなってくる。
「あ……。身体が辛いときなのに、ごめんなさい。こんな不躾なお願いをしてしまって」
完全に固まってしまったディーナに、ようやくアミナは思い至る。
「休んでいたのよね? いきなりだったけれど、許して。次は、いつここに来れるか判らないから」
女性が自分の意思で気軽に外出できないのは、エル・ザンディもバハーバドルも同じらしい。
「でも、お願い、考えておいてね」
ディーナを気遣いながらもちゃっかりそう言い残すことは忘れずに、アミナは部屋を辞していった。
ジャファールさまを好きになって欲しいの。
(いったい、いったいなんてことおっしゃるのよ、アミナさまは……!)
いまさらながら、顔が真っ赤になった。
胸の奥が、疼きだしている。アミナの言葉に調子に乗ってはいけないと自分を叱咤しながらも、脳裏にはジャファールの姿が浮かんできてしまう。
その姿とともに、―――頭の片隅にアミナの別の声がよみがえる。
グリュフォーンは、王を食べる。
「……」
すっと、背筋が冷えた。
話の流れでさらりと語られただけだったけれど。
(ホント、なの?)
皇太子はいずれ王となる。ということは。
部屋に再び独りとなったディーナには、その真偽は判らない。頭の中に響いてくるグリュフォーンの声も、こんなときに限って沈黙したままだった。