【第二章】 一
日が落ち、けれど西の空にいまだ夕暮れの名残が窺える頃、宮殿ではディーナを迎える夕食会が開かれた。
席の準備が整うまで、別の部屋に集うことになっている。女官に案内されて行くと、既に幾人かがそこにはいた。
白い壁を背にして、ジャファールもいた。
その光景に、息が詰まった。
綺麗な女性を、隣にしている。
(―――え)
呆然と目を瞠ったまま、動けなくなるディーナ。
誰。
「おや。彼女が我らが従妹の君か?」
ジャファールよりも幾らか年上らしい男性が、部屋の入り口で足を止めたディーナに気付いた。
「ああ、そうだ。エル・ザンディからおじいさまに会いに来たディーナ・アルカヴァーレ。ライラさまの姫君だ」
ジャファールが彼女を紹介しながらこちらにやってくる。ディーナは表向き、祖父に会いに来たということになっているらしい。
「ディーナ。兄のオミードだ。お隣が奥方のマハスティ。座っているのは叔父のナヴィード。そこにいるのが弟のハーフェズ。あちらが、おれの婚約者、アミナだ」
一度に紹介されても名前を覚えきれるわけがないのだけれど、最後の『おれの婚約者、アミナ』という部分だけは耳に残った。
アミナは、いまのいままでジャファールの隣で談笑していた女性だ。
もしかしたらという思いはあったけれど。
(婚約者……)
ジャファールには婚約者がいたのか。胸の底に、大きな穴がぽかりと開いた気がした。
「えと……、はじ、はじめまして。ディーナと申します」
「話は聞いてるわ。そんなに緊張しないで。エル・ザンディの言葉で大丈夫よ」
朗らかにアミナは言ってくれた。他の皆も、頷く。
バハーバドルに来た異国人はこちらなのに、自分だけが言葉に不自由だなんて肩身が狭かった。
アミナは、花が咲くような優しい笑みを浮かべている。
「年は同じくらいかしら? わたしは17歳だけれど」
「あ。ひとつ下になります。16です」
「結婚は? してるの?」
興味を隠そうともせず訊いてきたのは、ディーナは覚えきれていないがジャファールの弟、ハーフェズである。
「いえ、それは」
「結婚していたら、夫君も一緒だろう?」
ジャファールが言う。
「あぁ、そっか。エル・ザンディは厳しいもんね」
「とはいえ、ひとりで父に会いに来たとは驚きだな」
叔父と紹介されたナヴィードが、不思議そうに感心する。叔父とはいっても、ジャファールとあまり年は変わらないように見える。まろやかな目元が、母に似ている気がした。
これ以上突っ込まれた質問をされたら、ディーナには誤魔化すことなんてできない。内心冷や汗だらけになっていると、ちょうどうまい具合に席の用意ができたという知らせがきた。
「おじいさまは?」
国王の姿もこの部屋にはない。
「すぐに来るだろう。さ、行くぞ」
ジャファールも、余計なことを訊かれる前にと気を利かせてくれたのか、広間へとディーナを促してくれたのだった。
―――やや遅れてその席に現れた前王、イマードは、気難しそうないかつい感じの老人だった。頑固そうな彼の雰囲気に、ディーナは緊張で身体がこわばりっぱなしだ。母を勘当した本人だと聞かされているせいかもしれないが、友人たちから聞いたことのある、『おじいちゃん』と駆け寄って甘えられるような優しさは、微塵も感じられなかった。
器の姫君認定の結果が報告されているはずなのだが、極秘事項のためだろう、国王は何事もなかったようにディーナとイマードとの対面を歓迎してくれた。
エル・ザンディと違って、夕食会は椅子に座ってテーブルに並べられた料理を食べるものだった。ナイフとフォークを使っての食事方法は、噂には聞いていたが本当に存在していたのか。正面のアミナやジャファールをじっと観察して真似しながら、ナイフとフォークに使われてディーナは懸命に食事に打ち込んだ。
本人が必死なその様子が皆には微笑ましいのか、不作法してしまっているはずなのだが、なにも言わずにいてくれたのはありがたかった。ただ、イマードは難しい顔をしているばかりで、声をかけることすらしてくれない。
「せっかくエル・ザンディから出てきたんですもの、このままここにいたらどう?」
ジャファールの隣でアミナは、気さくに話しかけてくれる。彼女は宰相アムジャドの娘で、そのアムジャドこそ、母ライラの婚約者だったと、つい先程上がった話題で知らされた。
なんでもないことのように、アミナは自分の父親とディーナの母親の関係をさらりと話してくれた。彼女自身、ふたりの親の関係を面白がっている節すらあった。
「ありがとうございます。ですけど、国に帰ったら結婚することになっているらしくて」
数瞬を置いて、がしゃんと、ジャファールの皿が鳴る。
「失礼」
表情はそのままに、滑らせたフォークを口へと運ぶジャファール。
「結婚相手はどんな方なの?」
「父の仕事関係の御子息としか」
「幾つくらいなの?」
ディーナは首をかしげた。
「十も二十も離れているわけではないらしいんですけど、よく判らないんです。会ったこともないですし」
結婚相手のことを知るのは、結婚してからというのが一般的だ。
「ダンテ殿の商売はうまくいっているのか?」
自分の兄ほどの年齢だろう青年―――ハーフェズが父のことを名前に殿をつけて呼んだのは、不思議な気分だった。
「だとは思います。母は忙しそうに父の手伝いをしていますし」
「ほう。ライラが誰かの手伝いをか」
国王カマールが面白そうに声をあげる。そんなにも珍しいことなのだろうか。訊くと、
「ライラはとにかく奔放だったからな。誰かの手伝いができるほど落ち着きが出たということか」
「ライラさまはいつだって相手のことを気にしておいででしたよ」
かばう発言をしたのは、ジャファールだった。みんながくすくすと笑う。
「ジャファールは姉上至上主義者だからな。どんな事実もジャファールにかかれば美談になる」
まったくフォローにならない発言をしたのは、ライラの弟でもあるナヴィードだった。
「『美談になる』じゃない。美談なんだ」
「ほらね」
ディーナに肩をすくめるナヴィード。大真面目なジャファールの表情から、本気で彼は母ライラに心酔しているようだ。
恥ずかしいようなくすぐったいような―――気持ちがちりちりと逆撫でされているような。
それにしても、バハーバドルだからか、それとも王家だからなのか、男女がひとつの卓で一緒に食事をし、互いに談笑している光景は、ディーナには刺激が強すぎた。エル・ザンディでは、家族とはいえ食事は男女別が普通だった。
薄味だけれど美味しい料理。初めて口にする、エル・ザンディにはない味付け。頭がふわりとするのは、もしかしてアルコールが入っている?
今日は、たくさんのことが一気に動いた。初めて王宮に入ることができ、皇太子ジャファールに出逢い、国王と言葉も交わし、例の声の謎も解けた。
たった一日の―――いや、半日ほどの間に、怒濤の勢いであまりにもいろいろなことがありすぎた。
頭が追いつかない。くらくらしてくる。
「ディーナ?」
視線をふらつかせたディーナに、ジャファールが気付いた。
「大丈夫か?」
「はい。―――あの、えと、そのはずなんですけど」
頭の重心が居場所を見失ってしまい、ぐらりとテーブルに手をついてしまった。
「ディーナ!?」
「見苦しい。退出させなさい」
和んだ場の中、上座で黙々と食事を進めていたイマードは、冷たいそのひと言で、孫娘を切り捨てたのだった。