四
与えられたその部屋は、中庭に面した二階にあった。大きく取られた窓は開け放たれていて、中庭の緑を吸いこんだ瑞々しい風が噴水の音とともに流れてくる。実家の自室より何倍も広いだけでなく、寝台などの調度品も贅が尽くされていて、触れるのもためらわれてしまう。
母がこの宮殿で暮らしていた頃、使っていた部屋だという。
(お母さん、ホントにこんな世界で暮らしてたんだ……)
食器を落として割ったり、服を裏表で着ていることに気付かないようなエル・ザンディでの母からは、想像もつかない。グリュフォーンの声を聞いたことで、「実はお母さんはね」と初めて生まれを告白されたのだが、正直、ここに来るまでは半分も信じていなかった。
なんとなくもったいない気がして部屋の隅、絨毯の端にちょこんと腰を下ろして時が過ぎるのをじっと待つことしかできない。故郷から遠く隔たっている心細さや懐かしさ、そして目の前に有無を言わさず突きつけられた自分の運命に、不安が湧き起こってくる。
しばらく独りで膝を抱えてじっと物思いにふけっていると、ジャファールが再び部屋にやってきた。その後ろから、数人の男性が衣擦れの音をたてて続いて入ってくる。
彼らは神官で、これからディーナが本物の器の姫君かどうかの判定をするのだとジャファールは説明をした。神官たちが捧げ持つ銀色の盆に、一本のナイフがあった。気になってそれとなく目で追っていると、
「少しだけ血を確認するらしい」
なんでもない顔をして、ジャファールが言う。ディーナは驚きに目を瞠った。
「血ですか!?」
「―――全部抜きとるわけじゃないから」
よほど怯えていると見えたのか、ジャファールはどこか呆れたようにディーナをなだめた。日常生活において血を抜く機会などないから、仕方がないと言えば仕方がない。
左手を出すように神官から言われ、半ば泣きたい気持ちでおずおずと手を差し出すと、薬指の先に先程のナイフが当てられ、軽く引かれた。
「ッ」
引いたところから赤い血が盛り上がってきた。その血を、不思議な色に輝く金属の皿に移し、薄く延ばして陽に透かす。その色を、持ってきたぶ厚い書物のページと見比べる。
難しい顔で、ふむと神官たちが互いに視線を交わす。
ディーナの指を止血すると、今度は「失礼しますよ」という言葉とともに、突然目を覗き込まれた。
「!」
間近に迫ってきた神官の顔にびっくりして、思わず飛び退いてしまうディーナ。後ろによろめいただけでなく、そのまま尻もちまでつきそうになる。咄嗟にジャファールが腕を取り、背中を支えてくれたので、かろうじて醜態を見せずには済んだ。
そのあまりの驚きっぷりに、ジャファールがくつくつと笑う声が聞こえてきた。
(そ……そこまで笑わなくても……)
恥ずかしい。自分を支えるジャファールの手に申し訳なく縋りながら、ディーナは立ち上がる。
「ありがとうございます。済みません、なんだか」
「引っ繰り返らなくてなによりだ」
何度も下げた頭にかけられたジャファールの声は、明らかに笑いを堪えている。
「……その、済みませんでした……」
神官たちにも、頭を下げて謝罪をする。穴があったら入りたかった。
「いいえ。こちらも驚かせてしまい、申し訳ございませんでした」
ディーナよりもはるかに年上なのに、丁寧な謝罪が返ってきた。とはいえ彼らもきっと内心では、苦笑しているかもしれない。
「よろしいですか? お目を拝見させていただきます」
「は。はい」
改めて、ディーナは神官に向き直る。
「……」
じっと検分する神官の真剣な眼差しが、他人事に思えてくる。自分が試されている現実が、ディーナはなかなか受け入れられない。
神官はふたりがかりで代わるがわる目を覗き込んでくる。瞬きをするのもためらわれるほど食い入るように見つめられ頭がいっぱいいっぱいになった頃、ようやく解放された。そのまま神官たちは眉間にしわを寄せて、これも書物の別のページを繰り、見比べる。
顔を見合わせる神官たち。かんばしくない表情だ。それがなにを意味しているのか、精神的に疲れてしまったディーナには想像もつかない。もしかすると、こいつは偽者だとでも言われるのだろうか。
神官たちはなにを言うでもなく、慇懃にも思えるほどかしこまってディーナに頭を下げ、ジャファールにも頭を下げて部屋から出ていった。
「お疲れさま」
「あの……、判定は、どうだったんでしょうか?」
「さあ。最初に報告を受けるのは父だけど、夕食のときにはどうだったか判るはずだ」
ジャファールは気にならないのだろうか。部屋を出ようとするジャファールは、そうだ、と、なにかを思いだし、振り返った。
「夕食はおじいさまもご一緒できるそうだ」
「あの、母を追い出した?」
「そうだね。ライラさまをこの国から追い出した張本人と、一緒に食事をすることになった。―――そんなに緊張するな」
母を放逐した祖父。祖父が生きていると知って、考えれば考えるほどどう接すればいいのか判らなくなる。自分にも厳しい言葉と態度が向けられるのだろうかと気持ちが怯んだディーナに、他人事だと思っているのか、ジャファールはからかうように言う。
「言ったろう? おじいさまはライラさまを憎んでいるわけじゃない。もっと自信を持てばいい」
「そう言われても」
「……かもしれんな」
ジャファールは部屋を見渡す。
「部屋のこんな隅で所在なげにしているようじゃ、おじいさまにも委縮するだけだぞ」
「わたしには、ものすごく分不相応な部屋で」
「分不相応なものか。ディーナ。君はわたしの従妹だろ?」
エル・ザンディの家は、裕福な部類に入る。けれども、王宮の豪華さはそれとは比較にもならない。従兄なのは本当でも、生きる世界は違いすぎる。
どう言えばいいのか判らず胸の内で言葉を探していると、
「いずれ慣れる。大丈夫。おじいさまにもね」
不安な気持ちを隠せないほど、ディーナは心細かった。そんな彼女の肩をぽんぽんと優しく叩いて、ジャファールは部屋から出ていってしまった。