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      三



「ライラさまは、元気でおいでか?」

 ディーナを宮殿の与えられた部屋へと案内しながら、ジャファールは尋ねた。

 国王カマールは謁見を終わる際、器の姫君に選ばれたことを決して口にするなとディーナに命じた。器の姫君は国の未来を左右する。それに選ばれたと知られれば、下手をすれば命が脅かされる。バハーバドルにとってもディーナ自身にとっても、なにひとついいことはない。

 恐ろしいことに巻き込まれてしまったと、いまさらながら鳥肌が立った。

 神官長と前王には、ディーナの存在を伝えるらしい。前王はディーナの祖父、そして、母ライラを勘当した張本人でもある。政治から退いた前王は、ここから離れた場所にある別の宮殿で暮らしているという。

「はい。父の仕事を手伝ったり、毎日忙しくしてますが、いつも……元気です」

 自分の母親のことを改めて誰かに話すことなどなかったから、少し照れくさい。

「エル・ザンディで苦労しているとかはないか? ダンテ殿はライラさまにお優しいだろうか?」

「いつもこっちが恥ずかしくなるくらい仲良くやってます。苦労は、判りません。していても、わたしや兄には隠しているでしょうし」

「幸せだろうか」

 真剣な声音に、たまらずディーナは吹きだした。

「なんだ」

「済みません。だって、なんだか娘を嫁に出した父親みたいだなって」

「六歳の頃、ライラさまは突然、おれの前から消えたんだ。なにがあったのか成人するまで誰もなにも教えてくれなかったからな」

 ジャファールはぶすっと答えた。

「母のように、年の離れた姉のように慕っていた」

「……済みません。笑ったりして」

 仮にも相手は皇太子だ。幼少時の大切な思い出を笑うのは、いくら従兄にあたるとはいえ、失礼だったか。小さな頃に慕っていた叔母を気にかけるのは、おかしなことではない。

「何年か前、母が故郷のことを話してくれたことがあって、『かわいい甥っ子がいた』と言ってました。もしかすると、ジャファールさまのことかもしれません」

 ディーナの話に、ジャファールの顔がぱっと明るくなる。

「そうか。覚えていてくださったのか」

 満面の笑顔が、なんだか胸に沁みた。

 ここにはいないライラを思っているのか、ジャファールの眼差しは廊下の向こう、そのどこかに向けられていた。

 それはまるで叔母を思慕しているのではなく、旅立ってしまった恋人を想うようだと、ディーナは感じた。

「ライラさまは、バハーバドルでのことをよく君に話したりしていたのか?」

「母が結婚前のことを話したことは、ほとんどありませんでした」

 駆け落ちしての結婚だったと噂話で聞いていた。隠そうとしても、そういうことは隠しきれない。母に、父と出逢ったいきさつや故郷だというバハーバドルでの日々を聞いたことがあったが、

『忘れちゃったわ』

 と、はぐらかされてばかりだった。寂しそうな、懐かしそうな眼をしていたのが、ひどく印象に残っている。

 けれどまさか、王女さまだったとは思わなかった。

 もちろん、母が語った数少ない故郷の話の中の『かわいい甥っ子』が皇太子だったなんてことも。

 ちらりと、ジャファールを窺う。

 頭ひとつぶんは背の差がある。背筋の伸びた身体は、足首まである青い下衣、薄く織った黒の上衣に包まれている。エル・ザンディのひとよりも、肌の色は浅黒い。絵物語で見た鷲のように強い眼差しとすらりとした鼻筋。本当に自分の従兄なのだろうかと疑ってしまうくらいにその顔立ちは整っていて、出自どおりに高貴だった。

 自分と血の繋がった従兄が庶民とは違う高い身分を持っているだなんて、いまだに信じられない。従兄だけではない。母親もそうだったのだ。

 母は、ジャファールのようにこの王宮にふさわしい空気をまとって王族として生きていた。

 その母が、駆け落ちをした、だなんて。

 王宮ではきっと不自由なんてなかっただろうに、その生活を捨てるほど、父ダンテがかっこいいとはどうしても思えない。

「あの……わたしが父の商売のためにここに送り込まれたのだと、ジャファールさまもそう考えているのですか?」

 国王カマールの言葉が思い知らせた父親への偏見に、ディーナは不安げに訊く。

 バハーバドルに来たのはグリュフォーンの声のためだったけれど、王女の娘が―――家族の一員が外国から初めて来訪したことを歓迎する言葉も空気もなかった。

 国王からも、隣を歩くジャファールからも。グリュフォーンの伝言すら、どこか迷惑そうな、そんな雰囲気だった。

 父ダンテが画策したと言い放った国王の冷たい言葉が胸に深く刺さっていて、そこからじくじくと裂けるような痛みが広がっている。

 自分が器の姫君であったとしても、彼らからは認められて―――受け入れられていないのか。

「まさか」

 思いもかけないディーナの暗い声に、ジャファールは不覚にも彼女が傷付いていることにようやく気がついた。

 エル・ザンディは、バハーバドルより一族の繋がりは強く、戒律は厳しいと聞く。そんな環境で育ったディーナは、家から出たことなど一度もなかっただろう。外の世界を知らない彼女が、少年に身をやつし、隊商とともに砂漠を渡ってやって来た。

 どれほどの孤独と不安があっただろう。

 辛い思いをしても、バハーバドルにいる伯父の存在に、どれだけ勇気付けられただろうか。

 それなのに父王は、ディーナに対して検分するような態度をしか示していない。

 仕方がないとはいえ、父王の試すようなあの言葉は、初めて会った伯父へ抱くだろうほのかな期待と望みを打ち砕くものだったに違いない。

 ジャファールは言葉をひとつひとつ選ぶように口を開いた。

「父がディーナを歓迎していることと、国を治める者として厳しい態度を取らねばならないこととは別物だ。おれはダンテ殿に会ったことはないから、彼がどんな人物でなにを考えているのかなんて想像もつかない。でも、ライラさまがすべてを捨てるほど愛した方だし、ディーナの父君でもある。自分だけの利益を画策するような方ではないと、おれは思う」

 ジャファールは足を止め、ディーナに向き直った。

「男と偽って砂漠を越えるのは大変だったろう? バハーバドルのために、ありがとう」

 頭を下げることはなかったけれど、ジャファールの柔らかな眼差しには、ディーナを歓迎する想いが浮かんでいた。

 わけが判らないなりにも、女であることを懸命に隠してここまでやって来た。灼熱の砂漠は容赦なく体力を奪い、一日に何度ももう駄目だと諦めそうになった。ジャファールの心の込められた言葉に、そんな砂漠越えの苦労が一気に霧散し、胸が熱くなる。

「ジャファールさま」

 だからかもしれない。じっと注がれる彼の眼差しに、どぎまぎした。男性に、こうしてまっすぐに見つめられたことなんて、いままでなかったから。

「……あ。あの、えと。わたしが聞いた声は、本当はなにを言っていたんでしょうか?」

 波立つ気持ちに気付かれまいと、ディーナは慌てて無難そうな話題を探す。

「そうか。あれは古語だから、判らないのも無理はないか」

 現代バハーバドル語での日常会話すら、ディーナは心許ない。

「まずは部屋に。ここでは話せない」

 ジャファールはディーナの部屋まではなにも語らなかった。器の姫君に関することは極秘事項だからだろう。

 ディーナの部屋に着いても、室内に人影がないかを慎重に確認をし、ようやくジャファールはディーナに向き直った。

「君が聞いたという声。あれは『八月の朔、我は天界に赴く。ディーナ・アルカヴァーレ。疾く来よ。疾く来よ、ディーナ』と言っていたんだ。八月の新月に天界に行くから、ディーナよ早く来い、と。この文言は昔からだいたい決まっているから、王族の姫たちはいつ自分にその声が届いてもいいよう、暗記させられているんだ。まさか君に語りかけるとは思わなかったけど、なんにしても、間に合ってくれてよかったよ」

 八月の新月まで、あと二週間ほどだった。

「器の姫君かどうかの正式な認定は神官たちの判定を待たなければならないが、それとは関係なく、家族の一員として、ここで過ごしてもらいたい」

「家族の一員として」

 それは、両親と兄が受けたという勘当も関係なく受け入れてくれると、そう受け取っていいのだろうか。

「祖父も、連絡を受けて今夜にも君に会いに来るだろう」

 祖父。前王でもある祖父。父方の祖父は既に亡くなっているため、ディーナにとって〝祖父〟という存在は、手を伸ばしても届かない、遠い存在だった。

「わたしには、おじいさんはいないんだと思ってました」

「ライラさまはどう説明していたんだ?」

「死んでしまったと」

 ふ、とジャファールはおかしげに笑った。

「お互いさまな親子だな。祖父が聞いたら憤慨するぞ」

〝祖父〟というのは、どういうものなのだろう。

 会ってくれるだろうか。会った瞬間に、お前も勘当だと怒鳴られたりはしないだろうか。

「気にすることはない」

 ディーナの曇ってしまった表情に、ジャファールは力付ける。

「祖父はライラさまをとても大切に思っていたと聞く。ライラさまたちへの仕打ちは、決して憎しみからきているのではないよ」

 だから安心しろと、ジャファールは言ってくれた。


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