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      二



 隣国エル・ザンディから祖父である前国王を訪ねて来たというディーナ。

 昔、父を捨てた婚約者の娘だと聞いて、どんな子なのだろうと興味を抱いた。

 初めて顔を合わせたとき、緊張に固くなっていた彼女。半分エル・ザンディの血が入っているせいか肌の色は薄く、顔立ちも見慣れない。

 話してみると、まっすぐな印象で厭味なところがまったくなく、好きになれそうと思った。年が近いこともあって、すぐに意気投合した。

 みんなが言うには、彼女は母親のライラにそっくりらしい。

 ジャファールが叔母であるライラを慕っていることは、知っていた。

 だから、ジャファールがディーナに穏やかに接するのを見て、―――ひらめいた。

 ディーナがいれば、自分がいなくなっても彼がどうこうなることはない、と。

 それまで漠然と思っていた、〝あのひとと一緒になりたい〟という思いが、一気に現実味を帯びてきた。

 ―――なのに。

 今日、この日、ディーナに久しぶりに会いに宮殿に上がったら、彼女が器の姫君だったと知らされた。

 まさかディーナが。

 頭の中が真っ白になった。

 詳しいことは知らないのだけれど、器の姫君は、その責務が終わったあと、結婚をせず一生独身を貫くのだと聞いている。

 ジャファールがディーナに優しく接していたのは、その宿命のためだったのか。

 どこか一生懸命なディーナは微笑ましくて憎めなくて、好きにならずにはいられなかった。

 ジャファールを好きになってと頼んだとき、ものすごく困った顔をしていた。そのわけが、いまになってようやく判った。

 なんて残酷なお願いを自分はしてしまったのか。

 きっとディーナは、あの時点で自分が器の姫君だと判っていたのだ。

 身勝手な願いだと腹を立てて憤慨してもいいだろうに、そんな素振りすら見せなかった。器の姫君に選ばれたことが極秘事項であったとしても、行き場のない怒りをぶつけられて当然だったのに、なのに、彼女はただ困惑しているだけだった。

 そんなディーナだから、好きになれたのだろうけど。

 中庭を散策しながら、アミナは溜息を禁じえない。

 いよいよ、ジャファールと結婚をしなければならないのか。逃げ道を見つけたと思ったけれど、そんなに都合よく事は運ばないらしい。

 自分の一族、アルナザール家は、王家との繋がりをずっと欲していた。皇太子と縁組できたのは、自分が初めてだと聞いている。

 父には婚約者に逃げられた過去がある。娘である自分が同じ行動をとっては、どれほどの悲しみと憤りを一族に突きつけることになろうか。

 落胆させたくはない。

 頭では判っている。

 けれど。

 考え事をしながらふらふらと足を運んでいると、ふと、背後に気配を感じた。

「ここにいたのか」

 耳に心地よいその声に、アミナは振り返った。



 机の上に散らばる、灌漑計画に関する書類。その一枚を手にとってはいるものの、ジャファールの目は文字を追ってはいなかった。机を挟んだ正面には、

「ゴルナフタル地方の地盤につきましては……」

 土木担当の大臣が計画についての報告を先程からしているのだが、まったく耳に入ってこない。

 ディーナが儀式に臨んだあの日から、十八日が経った。

 十八日も経っている。

 神官たちからはなんの音沙汰もない。長くとも五日ほどだと言っていたのに、その何倍もの時間が過ぎている。

 本来ならば数日前の満月に父王の枕元にオリハルコンが現れているべきなのだが、グリュフォーンがいないせいか、いまだ現れていないという。

 ディーナは本当に無事なのだろうか。なにか問題が起こって、どうにかなってしまったのではないのか。

 集中力が続かない。ひどく苛々する。大臣のだみ声が、鬱陶しくさえある。

 気持ちが落ち着かなくて、何気なく中庭に目を遣った。

 緑の中に、庭を散策するアミナの姿があった。俯いて考え事をしているらしい彼女のもとに、廻廊から歩み寄るひと影が、ひとつ。

 声をかけられたのか、アミナは後ろを振り返る。ぱっと輝くその表情。

(あのふたり、まだ続いているのか)

 倦むような息が漏れた。

 ふたりの関係は、ずいぶん前から知ってはいた。

 結婚式まであと一ヵ月。それまでには終わってくれないと、おかしな噂がたってはかなわない。

 ディーナがこのまま戻ってこない状態が続けば、バハーバドルがグリュフォーンに見捨てられたのではと、それこそ諸外国に悪い噂が流れてしまう。そこに皇太子の婚約者が別の男と逢引きをし続けていると知られれば、国民からの信頼も失ってしまう。

 バハーバドルは未来永劫安泰なのだと国民や諸外国を安心させるためには、アミナとの結婚は避けて通れない。グリュフォーンが戻らないのであるならなおさらだった。

(アミナと―――)

 逢引きの相手と言葉を交わしているアミナ。なんて幸せそうな顔をしているのか。

 自分は、あのアミナと結婚をするのだ。

 胸の底が、引きつれるように痛んだ。罪悪感が、そこからじわじわと侵蝕してくる。

 ディーナを、裏切る気がした。彼女に対して、酷い罪を犯したような気がして、気分が悪い。

「また、シャハーブが開発した方法ですが、残念ながらこの工事への採用は見送ることになり……。……殿下?」

 大臣がようやく上の空なジャファールに気付く。

(あれで偶然を装ってるつもりなのか?)

 中庭の男女に、ジャファールはかえって呆れてしまう。

 偶然中庭で行きあったと装ってはいるが、逢引きしているのは誰の目にも明らかだ。

「聞いておいでですかな?」

(いいかげん、自分たちの立場をわきまえた行動をしてもらわねば)

 彼らには、ひとこと言っておくべきだろうか。嫌な役目だ。

「ジャファールさま」

「―――?」

 はっと目を戻すと、目の前に苦い顔を隠そうともしない大臣が。

「あ。ああ、済まない。どこまで話してもらってたかな」

「……。もう一度最初から報告し直しましょうかね?」

 この大臣は祖父と年齢が近いこともあって、ジャファールを孫のようにかわいがってくれるのだが、幼少時から親しんでいるせいか、容赦のない言葉もぽんぽんと投げかけてくる。

 ぼんやりしていた自分に苦笑したところに、部屋の入口にひとの気配があった。

「失礼いたします」

 そこに現れた人物に、思わずジャファールの腰が浮いた。

 神官長からの伝言を持ってくる男だった。

 期待に目を輝かせるジャファールに、男はひとつ頷いた。

「器の姫君が、お戻りになられます」



 慌てて儀式の間に向かうと、既に、父王と神官長、そして宰相の姿があった。

 ひんやりと薄暗い空間は、以前訪れたときとなんら変わっていない。

 部屋の中央付近にひざまずくディーナのまわりが、カルリコスに照らされて、ほんのりと明るい。

 彼女の背中に差し込まれた二枚の羽根は震えていた。淡い光に照らされる姿。そこだけが、バハーバドルの空気から切り取られたように静謐に満ちていた。天界の領域を垣間見せるその不可侵さに、その場の者は皆、申し合わせたかのように息をつめてしまう。

 十八日ぶりに見る彼女は、無邪気な笑顔を見せるディーナと同一人物とは思えないほど、神聖な空気を醸し出していた。

 見守っているうち、羽根は震えながらもゆっくりと柔らかに弧を描いて動きだした。石像のように固まっていたディーナの身体が、次第に息づいていくのが見てとれた。

 もうすぐか。

 誰もがそう思ったときだった。

 突然、音もなくディーナの背後に、天井からグリュフォーンが降り立った。ディーナの髪が、ふわりと揺れる。ジャファールたちの足元にも、その緩やかな風が流れてきた。

 神獣の巨体は圧倒的な存在感をもって、その場の者たちの息を奪った。儀式の間の空気が、ぴんと張り詰めたものに一瞬で変化した。

 緊張する皆を知ってか知らずか、グリュフォーンは我関せずとくちばしで毛並みを整えたり、座り直してみたりと気儘である。そんなグリュフォーンが、すっと、ジャファールに視線を移した。

 まっすぐに射る眼差しは冷たく、心の底を鷲摑みにされた。

 その眼差しを、目をそらすことなく受け止めるジャファール。

 試されている気がした。

 そらしては、ならない。

 本能が、そう警告する。

 互いに視線を絡ませる両者に、空気が、いっそう緊迫する。

 ややして、グリュフォーンがぐるぐると唸りだした。ディーナが口を開く。

「〈―――人間ってのも面倒くさいな……〉」

 溜息まじりなその声は、前回同様、男の低いものだった。

「〈しょうがねぇ。ガキが産まれたってんで遅くなったのはおれの勝手だったからな。ちょっと待ってろ〉」

 言って、グリュフォーンはカルリコスに宿っていたオリハルコンをくちばしで受けとめると、もごもごと咀嚼しだした。

 『ガキが産まれた』という発言が気にはなったが、初めてオリハルコンの精製を目の当たりにするジャファールたちは、瞬きも息することも忘れ、目の前の光景に呑まれていた。

 ややして、グリュフォーンは口に含んだものをそっとディーナの頭に載せた。

「〈カマール。受け取れ〉」

 グリュフォーンは顎で国王を指名する。

「―――は。かしこまりました」

 息をすることを思いだしたカマールは一礼をし、一歩ずつゆっくりとディーナに歩み寄る。静かに両手を伸ばし、彼女の頭に載せられたものを恭しく受け取った。

 その表情が、はっとこわばった。グリュフォーンに思わず目を遣る。目の前の守護神獣はなにも言わず、ただ深い眼差しで頷きを返す。

 ジャファールたちのいる場所まで後退って戻ってきたカマールが持っていたものは、丸く弧を描いた形状をしていた。それを横から覗き込んで、ジャファールも宰相アムジャドも顔色を変えた。呆然と、互いの顔を見た。

(どういうことだ?)

 ジャファールは目の前で柔らかな明かりに照らされるものにめまいを覚えた。

 こんなこと、意味が判らない。

 問うようにグリュフォーンに目を遣った。

 しかし当のグリュフォーンは、ただじっと包み込むような眼差しで、ジャファールを見つめるばかりだった。



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