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【第四章】 一



 三日間の潔斎期間は、粛々と過ぎた。早朝の沐浴や、出される一切の肉類を断った精進料理。正直なところ、十六歳のディーナにはそれなりに苦痛な三日間だった。

 そうして、ついにやってきた儀式の日。

 儀式が行われるのは、三日間を過ごした宮殿の奥にある神殿。その薄暗い廊下の先に、固く封印されている区域があった。

 その封鎖された場所へと、ディーナは導かれる。

 彼女の前を行く神官たちは、厳粛に廊下を進む。正面に現れた扉を開くと、あたりは一気に暗くなる。窓もない小さな部屋を幾つか経るごとに、明るさは削がれていく。突き当りのひときわ大きな扉が開かれる頃には、手燭がなければ伸ばした指先すら見えない程だった。

 濃い闇がわだかまる部屋の向こうから、冷たい空気が、まるでディーナを手招きしているように足元へと流れてきた。

(こ、心を、落ち着けるのよ)

 潔斎期間中、儀式の際、恐怖に意識を持っていかれないよう、自分の状況を風の流れに任せるイメージで捉えよと、神官たちから何度も訓練を受けた。

 一歩を踏み出すごと、砂漠の緩やかな風に怖い気持ちを乗せて吹き流していく光景を、頭に映し出していく。

 一歩ごとに。

(一歩ごと、ふぅっと。一歩ごと、ふぅっと……)

 長く入り組んだ廊下の先に、背の高い石の扉が現れた。

 重たそうな石の扉だったが、予想に反しそれは音もなく静かに両側へ開かれていく。

 目の前に現れたのは、広い地下の空間。そこには、既に神官長と国王カマール、ジャファールがいた。もうひとり、ディーナには面識がなかったが、母の元婚約者、現在は宰相であるアムジャドがいた。アミナと似ていたので、もしかしたら、と、気持ちの端でディーナは思う。

 地下の一室だけれど、部屋は闇に閉ざされているわけではなく、ほんのりと明るい。部屋のあちこちに明かりが灯されているせいかと思ったが、それだけではなかった。

 部屋の中央に、一本の木があった。何枚も花弁を重ねた花が一輪咲いている。青い色をした花だった。その花が、自らやわらかな輝きを放っていた。

 あれが、天界の金属、オリハルコンを宿すという花、カルリコスなのだろう。

 その背後。カルリコスを守るように大きな獣が控えていて、こちらを静かに見つめていた。

 獣は白く、獅子の身体に鷲の頭、そして大きな翼を持っていた。ディーナが両手を広げたよりも遥かに大きな身体。半眼となってこちらを見据える金の眼には、知的な静けさが湛えられている。

 まっすぐなその視線に、ディーナは乾いた唾を呑み込んだ。魂の奥底まで、見透かされている気がした。

 天界の守護神獣、グリュフォーン。

 この大きな神獣が、いままで頭に語りかけていたのか。

 知らず、ジャファールがくれたキディスに手がいった。

〈来たか〉

 頭に声が響いたと同時、グリュフォーンはぐるると唸る。

〈ここに。もっとそばに来なさい〉

 ぐるるるぐるる。

「は……、はい」

 唸ってばかりのグリュフォーンに答えたディーナ。壁際のジャファールは目を瞠る。

 先程、ディーナよりも先にこの部屋に足を踏み入れてからずっと、グリュフォーンは眠りから覚めたばかりのように眼を半眼にしたまま、微動だにしなかった。それが、ディーナが姿を見せた途端、グリュフォーンの視線は彼女をずっと追い続け、そうして、ぐるぐると唸りだしたのだ。ディーナにまっすぐに向けられるグリュフォーンの関心。その態度から、改めて彼女が器の姫君なのだと思い知らされる。

 唸り声がちゃんと言葉として理解できているディーナ。以前から声を聞いているのだから当たり前なのだけれど、ふたりの繋がりに、胸の奥が締めつけられた。

 深い呼吸を数度し、ディーナはゆっくりとグリュフォーンのそばへと近付いた。

 その光景に気が気ではないジャファール。グリュフォーンが儀式の前に器の姫君を食べることなどないはずだが、もしかしたらという思いが拭いきれない。

 グリュフォーンは、目の前で足を止めたディーナに目を眇めると、ぐるぐると唸りはじめた。

〈遠くからご苦労だったな。ま、おれの加護があったから苦労もなにも、すんなりこっちに来れたろ?〉

 思わず、がくりとディーナの片方の肩が落ちた。

(―――え?)

 張り詰めた緊張感をぶち壊すこの軽い口調はなんだ。本当にグリュフォーンのものなのか?

(そういえば……)

 これまで頭に響いてきたグリュフォーンの口調は、砕けすぎた感のあるものだった気がする。威厳ある姿の神獣と緊張感のない物言い。他人事ながら、なんだか残念だ。

〈お前さ、あの皇太子のこと、好きなんだろ?〉

 ディーナの戸惑いなどどこ吹く風、ジャファールのほうをちらりと見遣り、グリュフォーンはずばり訊いてきた。

「!? えと、あの……」

〈隠すなって。おれんトコにばしばし伝わってきてっからよ。なんだねぇ、そういう純粋な気持ちってのは、こそばゆいねぇ〉

 まるで噂好きのおばちゃんである。天界の守護神獣というのは、もっとこう、厳めしく重厚な存在だと思っていたのだけれど。

〈なーんかおかしな決まりができちまってるからなァ。苦労するよな、お前もさ〉

「……」

 どう答えればいいのだろう。

〈くるっとまわって〉

「え?」

〈背中。背中、こっちに向けてもらえねェかな〉

 首を軽くまわすようにして、グリュフォーンは向こうを向けと指示をしてきた。

「あ……、はい」

 言われるまま、グリュフォーンにおずおずと背を向けるディーナ。後ろを振り返ったことで、心配そうに顔をこわばらせているジャファールと目が合った。

〈ふふーむ。苦労してるのは、お前さんだけじゃないか。そうだよなぁ。―――ちぃとばかし痛むかもしれんぞ〉

 なんのことだろうと思う間もなかった。

 前触れもなく、ざくざくと背中に鋭い痛みが走った。その衝撃にがくりと膝をつく。

 なにかが、身体を駆け抜けていく。意識が強引に引き伸ばされて、一歩こちらに踏み出したジャファールの姿がにじみ、遠く薄くなって―――。



 静寂が、その場に降りた。

 グリュフォーンが、自身の翼から羽根を二枚引き抜き、翼の形にディーナの背中に刺したのだ。

 ディーナの眼は虚ろになり、石像のように固まってしまった。

 彼女の変容に息を呑むジャファールを、グリュフォーンはじっと見据える。

「〈そんなわけで、ちょっとあっちまで行ってくる〉」

 ディーナの口から、低い、明らかに男性の声が紡がれる。

 グリュフォーンのぐるるという唸りと同時に紡がれたそれは、ディーナの口を借りたグリュフォーンの言葉だった。

 バハーバドルの言葉に拙いディーナ。そんな彼女が、流暢なバハーバドル語を話している。

 彼女の語る、グリュフォーンの意思。

 器、という意味に、ジャファールたちは初めて得心がいった。

 細い線のディーナからの太い声は、騙されているのかと思えるほどにひどく違和感がある。

「〈なんて顔してやがる。安心しろって。傷ひとつつけずに返してやっからよ〉」

 立ち尽くしているジャファールに、グリュフォーンはディーナ経由で言葉を投げかける。そのあまりの軽い物言いに、一同は目をぱちくりさせる。

「〈いつになってもあんたらのそういう顔は変わらんのだな。お前らおれに、期待しすぎだっての〉」

 ちらりと視線を交わす国王と宰相。ジャファールは瞬きすら忘れた。

 ディーナの背中に差し込まれた二枚の羽根が、小さく震えた。カルリコスを守るように、羽根はそれをふんわりと包み込んでいく。

「〈じゃあな。ちょっと留守にするんでよろしく〉」

 言って、グリュフォーンは立ち上がり、飛び立った。

 天井がある、とはっとしたが、グリュフォーンはするりと石の天井をすり抜けていった。

 再び、しんと音がやむ。

 するすると神官長が国王のもとにやって来、小さく頭を下げた。

「三日ほどで、グリュフォーンさまは戻っておいでのはずです」

 三日もかかるのかという問い詰めたい思いを、ジャファールは押し止める。

「戻る直前にディーナさまの羽根が震えだしますので、確認後、また皆さまにおいでいただくこととなります」

「三日を目安に見ておけばいいのだな」

「さようにございます。早ければ明日、遅くても五日ほどでその兆候は現れましょう」

 神官長の言葉に、カマールは頷いた。

 遅くても五日。

「それまでずっとあのままなのか?」

 心配になってジャファールは尋ねた。

「さようにございます」

「食事はどうするんだ? じっとしているとはいえ、腹も空くだろう?」

「器となっている間は、なにも口にはいたしませぬ。守護神獣グリュフォーンの代理ですから」

「なにも……」

 ジャファールはディーナに目を移した。

 虚ろな顔のディーナは、床に膝をついた格好で微動だにしない。

「膝は痛くならないのか? なにか敷いてやってはどうなんだ?」

「必要ございません。あの状態のディーナさまは、痛みを感じないはずです」

「『はず』とは心許ないじゃないか」

「痛みを感じていたとしても、わたくしどもではどうすることもできませぬ」

 確かに、そうである。よかれと思ってなにかをしても、裏目に出ることもある。ディーナもさることながら、カルリコスに異変があってはならない。

「大丈夫なんだな? あのままどうにかなるということはないんだな?」

「歴代の器の姫君は、大丈夫でございました」

「ディーナの身の安全は、ちゃんと確保されているんだな?」

「落ち着きなさいジャファール」

 ジャファールの執拗な念の押しように、さすがにカマールがたしなめる。

「―――では神官長。ディーナを頼むぞ。なにがあろうと、器の姫君を守り抜くのだ」

「は」

 カマールの厳しい声に、神官長は一段と頭を低くした。

 儀式は済んだと、カマールと宰相アムジャドは退出していく。

 部屋の中央で、ディーナはただ静かに膝をついてカルリコスを守っている。薄く開かれたその眼に、ジャファールの姿は映っていない。

 気がかりではあったが、強く後ろ髪を引かれる思いで、ジャファールもその場をあとにするしかなかった。



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