小説家志望の少女と異世界の魔法屋
私の書いた小説を読んだ母は、はあとため息をついて私を見つめた。
真剣な瞳の奥に、強情な子供を諭すような光がある。
「専門学校なんて通っても、小説家なんて無理よ。真面目に大学に向けて勉強しなさい」
母は再びため息をつくと、原稿を私に押し付けて夕食の準備に取り掛かった。たんたんと包丁を使う音に混じって、「まったく誰に似たのかしら?」とか「受験勉強したくないから、小説家なんて言い出したのね」とか呟く声が聞こえてきた。
違うよ。私の夢だよ。
そう思いつつも正面向かって言えないのは、私も心のどこかで無理だと思っているからだ。ギュッと抱え込んだノート。そこに書かれた物語は、人に勧められる出来じゃなかったんだ。初めて見せた母にバッサリ否定されて、大学に行けと言われて……私は返す言葉が思い浮かばなかった。きっと夢はかなうという根拠のない自信が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
「ちょっと……外を散歩してくる」
私はそう断ってマンションを後にした。行きたい場所なんてない。母のいるあの家から、息のつまるようなあの空気から逃げたかっただけだ。
絡みついてくる前髪を払いながら、ただ走る。黄昏色に染まる細い道。買い物帰りだろうか仲良く手をつないで歩く小さな子供と母親。楽しそうな二人に、なぜか胸が痛んだ。あの子供には何の悩みもないんだろうなと、そんな卑屈な思いが湧き上がってくる。
不意に突風が吹きつけた。
私の長い黒髪が煽られ、制服のスカートが激しくはためく。押さえようと、反射的に手を下げる。
あっ、と思った時にはもう遅く、
私の抱えていた原稿がバラバラになって宙を舞った。
とっさに伸ばした手は届かない。
次の瞬間、
原稿が淡く輝き始めた。
「はあ?」
己の目を疑うが、見間違いではない。原稿が光っている。綺麗な緑色の光を発しているので、夕日を受けて輝いているわけでもないだろう。
私が茫然と見守っている間に、原稿は意志を持ったように私の周りを幾重にも取り囲んだ。そして、周りの景色が一変する。
ぼんやりとした光に包まれた道。気づけば私はそんな場所に立っていた。
前を照らす光は薄く、道の先がどうなっているのかわからない。振り向けば、はっきりした一本の道が伸びているが、透明な壁があるらしくて進めなかった。私は仕方なく、おぼろげに照らされる道を歩いて行く。
やがて視界が開けた場所には、緑が広がっていた。
雨上がりなのか短い草は雨粒に濡れており、周囲からつんとした若葉の匂いと、赤土の香りが漂ってくる。
ぐるっと四方がそんな景色だ。どこまでも草原が続いている。
「何、ここ?」
ためしに頬をつねってみる。痛い。夢ではなさそうだ。
何が起きているのか理解できない。おかしいと思いながらも、立ち止まっているのが嫌で歩き出した。いつの間にか私の手に戻っている原稿をしっかり握りしめる。
それにしてもここはどこなんだろう?
少なくともマンションの近くの裏路地ではないことは明らかだ。どこまでも緑の大地が広がっている。ずっと遠くは、緑と空の水色が混じりあってぼんやりと見えた。
歩き続けた私は、やがて小高い丘にたどり着いた。見下ろして、眼下に広がる景色に息をのむ。。
赤と茶の、建造物。
煉瓦の敷き詰められた色鮮やかな道路が遠くからでもはっきりと確認できる。博物館とかにある昔の町並みのミニチュアを連想させた。等間隔に建つ煉瓦の家屋。碁盤の目のように走る道。街の中央には灰色の石が積み上げられた噴水が設置されている。
私はしばらく呆然とそれを見つめていた。
「やっと見つけたぜ、魔法屋」
不意に肩を叩かれて振り返る。
「よっ、元気? いや~、女の子だったのか。なかなか俺好みの少女だな」
そう言って片手を上げたのは、私より年上の……多分、二十代前半くらいの男性だ。赤い髪を腰辺りまで伸ばしている。整った顔立ちはイケメンの部類に入るだろう。空のように爽やかな青い瞳が印象的だった。
一方、服装は最低の部類に入るだろう。右肩で金の釦で留められた黒いマント、裏地の部分は朱色だった。その下から覗くのは、RPGに出てくる敵魔術師が好みそうな悪趣味な血のように濃い紅色のローブ。よっぽど赤が好きなのか、布製の靴もそうだった。
コスプレイヤーというものだろうか。
疑いようもなく、変な人だった。
私は彼を十秒ほどゆっくり眺めてから、そっとその横を通り抜けようとする。
「おっ、ちょい! 魔法屋、何無視していこうとしてんだよ! 殺すぞ」
腕を掴まれた。
初対面の人に殺すぞ、とはずいぶん乱暴な人のようだ。そんなことを考えながら私は冷静に指摘する。
「人違いじゃありませんか?」
「はあ? なわけないだろ。この天才魔術師たる俺様が、召喚する人間を間違うかよ」
「召喚?」
「おうよ。っと、早速お前の実力を見せてもらうぜ。ちょうどお客さんだ」
青年は私が歩いてきた方角をさす。
背の低い草が生い茂る緑の平野。そこに明らかにありえないものの姿を見とめて、私は言うべき言葉を失った。
例えると、餓死寸前の成人男性に灰色の絵の具をぶっかけた後、口を引き裂いて鋭い牙を付けたような外見。
平たく言うと、ゾンビ。
そんな化け物が、私と青年から三メートルほど離れた場所に立っている。
「んじゃ、お手並み拝見とするか」
「え、ええええっ――!」
あまりの自体に意味のある言葉が出てこない。
口をパクパク動かしながら化け物を指さしている私とは裏腹に、青年は冷静だった。
「ほら、とっとと魔法を寄越せよ」
「魔法って、何です?」
「今持ってるだろ」
そんなことより、前やばいって。ゾンビがゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かってくる。大きく開かれた口に唾液が糸を引いていて、恐怖で身がすくむ。かたかたと足が震えている。みっともないがどうしようもない。
なんなの? いったい何が起こっているの?
「ちっ!」
頭上から大きな舌打ち。と同時に私の手から原稿がひったくられる。
「ええっと……『革命広場は昨夜の雨で湿っていた。
地面の所々にできた水溜りが光を反射し、キラキラと輝いている。時折強く吹く風は生暖かく、夏の到来を予感させた。
しかし、辺りに漂うのは破壊の香り。さびた鉄のようなきつい血の匂いが、空気を重くしている』」
青年は私の原稿を朗読していた。
「なんで読むの!?」
私は青年から原稿を取り上げようとするが、彼は万歳して高く掲げてしまう。青年の肩につかまりながら兎みたいにぴょんぴょん跳ねるけど、全然足りなくて届かない。
「『パリは血に染まっていた。
群衆はざわめきながら処刑台を見つめている。彼らはギロチンを指さし、次々と行われる処刑を面白がるように歓声を上げる。
そこに人の死をいたむ気持ちはない。
彼らにとって、貴族の死はただの娯楽程度の感覚なのだった。これから始まる、少女の処刑もまた、彼らにとってはさして意味のないものなのだろう。
これが市民が待ち望んだ革命なのか……』」
「だからっ! 人の小説を朗読しないで!」
必死で原稿を奪い返そうとする私の耳に、悲痛なうめき声が聞こえてきた。
低い、地獄の底から響く悪鬼のような声。
見ると、私たちに近づいてきたゾンビが苦しげに頭を抱えている。
「『わたしは失望にも似た真情を抱いて正面を向いた。断頭台に立つ死刑執行人が、高らかに罪状を読み上げていた。まもなく、高貴な服を纏った少女が、乱暴に断頭台へと引っ立てられる。
群衆の間でひときわ大きな歓声が上がった』」
さらに青年が音読を続けると、ゾンビの姿がどんどん薄くなっていく。
「グッ、グギャアアアアッ――――!!」
断末魔の叫びを残してゾンビの姿が掻き消える。
あとにはただ、牧歌的な風景が広がっていた。
幻想的なほどに澄みきった青い空が、草木の広がるうららかな平野の背景になっている。爽やかな青が何故か目に痛い。
私は俯いて冷静に考えを巡らす。
何が何だかわからない。
けど……答えを知ってそうな人は目の前にいる。
その人――青年は、相変わらず私の原稿に目を通していた。さすがにもう音読したりはしないけど。
「で、一体何がどうなってるんですか?」
「あん?」
青年は私の存在を忘れていたように、誰だっけとまじまじと私を見つめた。
それから面倒そうに視線をそらすと、やがて深々とため息をついた。
「とりあえず場所が悪いから、移動しようぜ」
曇った硝子窓に映るのは、憂鬱そうに頬杖をつく少女。
真ん中で分けた前髪が、耳の後ろから肩に落ちていた。いつもは鋭い目つきでこちらを睨む鏡の中の私だが、さすがに今はそんな余裕はないらしい。
「……金なら奢ってやるから気にしなくていいぞ」
何を勘違いしたのか、向かいに座る青年が言ってきた。彼はスプーンで目の前のプティングを制覇にかかっている。その周辺には、空になったデザートの器が並んでいた。
一方、私の前には申し訳程度の飲み物。これで割り勘だったら、二度と彼と一緒に店に行かない。
「そうじゃなくて、何がどうなって……魔法とかさっきの化け物とか、この場所の事も説明してください」
「ここは喫茶店だ」
「……一番どうでもいいことを答えないでください」
聞くまでもなく、今現在私がいる場所は喫茶店だった。
嬉しそうに頬張る青年を横目に店内を見回す。落ち着いた茶色の家具で統一されていて、気兼ねなくくつろげる雰囲気の店だ。奥にカウンターがあって、主人らしき男性が客と談笑していた。他にも、私たちと同じように丸机に座っている人もいた。混んでいるわけじゃないが、店の経営が心配ない程度に人が入っている。
「お前も魔法屋の端くれだろ。なんで邪鬼を知らねえんだよ?」
やがて満足したのかスプーンを置いた青年が、唇の端を上げた皮肉気な笑みで、そう聞いてくる。
「私は魔法屋じゃありません」
「じゃ、なんだよ」
「……女子高生、です」
「なんだよそれ、どこの国の職業だ?」
きょとんと首を傾げる青年。
私は、背中からぞわぞわと嫌なものが這い上がってくるのを感じていた。
やっぱり、認めなきゃだめだよね。
「あのですね、もしかしたらなんですけど……ここはもしかして、異世界というやつですか?」
「気づくの遅くね?」
青年は真顔だった。
「ったく、何がもしかして異世界というやつですか? だよ。魔法とか邪鬼が出現したあたりで、おかしい! ここは異世界なの!? はっ、もしや私はこのカッコイイ男の人に召喚されたのか! って気づけよ」
相当無茶なことを言ってないか、この人。
青年はニッと笑みを向けてくる。
「とにかく、だ。ニホンのジョシコーセーさん。俺専属の魔法屋として、しばらく働いてくれよ。三食家付き、時給はゼロで」
「待ってください! あなた日本って知ってるんですか!?」
「当たり前だろ。俺が召喚したんだから。さっきのはあんたに分かりやすく現状を認識させるための、演技ってやつさ」
なんでそんな回りくどいことをするんだろう。
私は叫びだしたい衝動に駆られながら、机をたたいて抗議する。
「な、なんですかそれ!? さっさと元の場所に返してくださいっ!」
「やだね」
「……最低です!」
「おう。俺の特技は女からこの人でなしの最低男! と言われることだ」
なんなんだろう……この人。
「んな顔すんなよ。俺も俺専用の魔法屋の少女が……あー、ミレイっていうんだがな、彼女が『物語』を紡いでくれなくなって困ってるんだ。だからあんたはその代りだ」
「……それって、愛想を尽かされたんじゃないですか?」
軽く嫌みを言うと、青年は赤毛を掻きながらあっけらかんと笑った。
「痛いとこつくなあ。あ、そうだ。もとの世界に返す件だがな、ミレイの奴を説得できたら、考えてやってもいいぞ?」
どこまでも自分本位な青年だった。
何がどうなってこうなったのか理解できないが、とにもかくにも、私は青年の魔法屋? とやらにならされるらしい。
「まあ、よろしくな」
満面の笑顔で手を伸ばしてくる青年に反応する気力はなく、私は何処か彼方へ飛びそうになる意識を留めておくのがやっとであった。
あの後青年は私に簡単な地図を握らして、「そこに行けば世話焼いてくれるやつがいるから。あ、そこ下宿屋なんだ。あ、それとな、しっかり『物語』を綴っておけよ。わかんねえことはそこに住んでる女に聞け」と一方的に告げて、彼にすり寄ってきた派手な女といかがわしい建物へ消えていった。最低だ。
私はこのままどこか遠くに逃げたくなったが、世界単位でまるっきり知らない場所でそんなことをする勇気はないと留まった。
とりあえず、彼に渡された地図の通りに進むしかない。
道行く人はファンタジー世界の人が着るような布の服装で、制服姿の私は浮いていたが、ちょっと訝しげに私を見るだけで、わざわざ話しかけてくる人はいなかった。
胸に抱えた原稿がどことなく重く感じる。
はあ、どうしてこうなってしまったんだろう。母は心配してるだろうか、とそんなことを思う。
青年に地図にはいたるところに店の名前が記されていて、街並みをちっと腰らない私でも『ハウスーダ』と書かれた表札を見つけることが出来た。
辺りに立ち並ぶ建物と同じような、レンガ造りの一軒家。下宿屋と聞いてアパートみたいなのを想像したけど、二階建ての普通の家だ。
私が躊躇いがちに扉につけられた呼び鈴を鳴らすと、はあいという明るい声と共に、ドアの隙間から少女が顔を見せる。
金髪のショートヘアーが耳にかかっている。目のくっきりした活発そうな美人だ。多分、私より一、二歳くらい上の年齢。彼女は私を不思議そうに眺めている。
「えっと、どちらさま?」
「あの……えっと、変な男の人に、ここに来るように言われたんですけど……」
そう言えば、男の名前を聞いていなかった。
これで分かるだろうかと内心で不安を感じていたが、少女は私の不安を消し飛ばすようなにっこりとした笑みを向けてきた。
「あなたが、リウのつれて来た魔法屋さんなんだね。ごめんね、わたしのせいでこんなことになっちゃって。彼、基本的に我儘だから」
彼女に招き入れらえて、私は奥の部屋に通される。暖かな橙色の壁紙に包まれた部屋の中央に鎮座する机。私は椅子の一つに腰掛けた。
「お前の代わりに凄い魔法屋を召喚してやるー、それも異世界からだー、って、本気でそうするとは思わなかったわ。さすがは腐っても天才魔術師ってわけね」
少女はことりと私の前に小さなコップを置いた。中は黄金色の液体で満たされている。
「っと、自己紹介がまだだったわね。わたしはミレイ・ハウスーダ。魔法屋よ」
「私は篠崎織羽です。あなたがあの男の言ってた人ですね。遠まわしに言うのが苦手なので率直ですが、魔法とやらを紡いでください」
出なけりゃ私が元の世界に帰れない、らしい。
名乗ってから一気に言うと、ミレイさんは困ったように軽く首を傾げた。
「きちんと紡いでるわよ。リウに見せるのが嫌なだけ。オリハちゃんには悪いけど、しばらく――リウが飽きるまで、彼に付き合ってあげて」
一方的にそう告げると、ミレイさんは席を立った。
……どうして、この世界には自分勝手な人しかいないんだろう。
しばらくして戻ってきた彼女は、どうしてか原稿用紙と羽のついた黒いペンを持っていた。
「これ、魔法を紡ぐ道具よ。オリハちゃんの分ね」
差し出されて思わず受けとってしまうけど、これは何?
魔法を紡ぐって、どういうこと?
「あの、いまさらですが、魔法を紡ぐって、一体何なんですか?」
ミレイさんはあーやっぱりと呆れた様子で、軽く額に手をやった。
「リウってば何も説明してないのね。……邪鬼は知ってる?」
「ゾンビの事ですか?」
私がリウという男と会った時のことを離すと、ミレイさんは「ええ」と頷いた。
「それが邪鬼。人の成れの果てなの。罪を犯して亡くなった人が輪廻から外れて、あんな化け物になると言われているわ」
うーん、ファンタジー。
小説家志望としては、輪廻って厨二臭いにおいがする、と思ってしまう。
「彼らに魔術師の術は通じない。致命傷を与えられるのは魔法――『物語』だけよ。『物語』によって彼らはこの世から消滅して、正常な輪廻へ帰れるの。だから、『物語』は魔物を倒す魔法と呼ばれているわ」
「ちょっとまってください。魔法と魔術って、別のものなんですか?」
「そうよ。オリハちゃんがここに連れてこられたのはリウの魔術によってよ。魔術は才能のある人間にしか使えないし、かけた術を解けるのは本人だけ」
つまり、私が元の世界に帰るには、リウという人に頼むしかないということだ。
「魔法は『物語』のことよ。邪鬼を倒せる唯一の刃」
「あの、『物語』って、おとぎ話とか……そんな感じの普通の小説の事でいいんですか?」
「ええ、そうよ。この世界では、小説家の人を魔法屋と呼んでいるの」
人間の作る小説。
それで邪鬼と呼ばれる化け物を倒しているらしい。
「わたしは『物語』を紡ぐ魔法屋。彼は優秀な魔術師だけど、魔術じゃ邪鬼を倒せないから、わたしをパートナーにしてるってわけ。わかってもらえたかしら?」
「はい。なんとなく、ですが」
とりあえず私は、ミレイさんの代わりにリウって男の魔法屋として『物語』を紡ぐ――つまりは、小説を書かなければいけないようだ。
母に否定され、私も自信を無くしたのに。……小説を書けなんて。そんなこと、出来るわけがない。
今後の生活を想像して、私は暗澹とした気分になった。
「はあ? ふざけんなよ。全然魔法が完成してねえじゃねえか!」
部屋いっぱいに響く怒声に、私は頭を抱えたくなった。てか、抱えている。ここ一瞬間、ミレイさんが留守の時に押しかけてきては、こんなふうに怒るのだ。
私がこの世界に来てから一週間がたっている。私はミレイさんの家で過ごすことになって、(ちなみに下宿屋というのは私が止まる場所という意味で使ったらしく、ミレイさんは、「住んでるのはわたしひとりだし、他の人を止める気はないわ」と言っていた)彼女から与えられた部屋で小説を書いている。
いや、書こうとしている。
「でも、書けないので仕方ないです」
ぶつぶつと文句をいうリウにそう告げる。
「あぁ? んなこと言っても――」
「もともと物語は無理に書くようなものではないと思いますよ? 嫌々書いて小説が完成できるわけがありません」
リウが煩いことを言いそうになったので先手を打つと、彼は開きかけた口を閉じて押し黙る。そのまま派手に音をたててドアを閉めると、足音を立てながら去って行った。あからさまな不機嫌オーラにむっとする。ここ毎日そんな調子だ。
私は椅子に腰かけて大きく伸びをした。目の前の原稿に注目する。ミレイさんが用意してくれた部屋には執筆に必要なものがあらかたそろっていた。壁際の机はデスクワークが容易な大きさで、引出しを開けばインクや原稿用紙が詰まっている。部屋には書棚もあって、何冊もの物語を読むことが出来る。
しばらく机に向かっていたが、どうにも集中できない。書き始めてみてもぴんと来ずにすぐ行き詰ってしまう。
私は原稿用紙にぐちゃぐちゃとペンを走らすと、丸めてゴミ箱に入れた。机の横に備え付けられた丸い箱は、三分の二近くが紙屑で埋まっている。
「あー、もう。やめたやめた! てかどうして私がこんな事しなくちゃいけないの」
気分転換に窓から外を見下ろす。きちんと整備された異国の街に、何処か原始的な、寂寥感溢れる印象を懐く。なんでだろう。赤茶色の石造りの建物を眺めていたら、遠い過去に来たような、懐かしい気持ちになった。
明るい日差しの下で、たくさんの人たちが生き生きと己の責務を果たしている。自信満々に野菜を売り込んでいるおじさん。街を駆け巡って手紙を届けている少年。子供の手を取りながら、ゆっくり歩く女性。その誰もが、眩しかった。私はどうだろう。私は……彼らのように、大事に一日を過ごしているのだろうか。
今まで、だらだらと日々を過ごしていただけに思える。
なんとなく興がそがれてしまって窓から離れる。気分転換のつもりなのに、余計憂鬱な気分になった。
部屋に戻った私の目がふと書棚に並ぶ本の背表紙を捕えた。文字はどうしてか日本語で書かれている。突っ込まない方がいいのだろう。そう言えば、私普通に日本語なのに通じているし。
大雑把に題名を眺めた私は、ちょっと気になる本を見つけて手に取った。
『蒼穹の戦姫』
見るからにハイファンタジーな題に興味がわく。普段の私なら住むことになってすぐ本棚を確認して、目ぼしい小説を読んだのだろうが、母にバッサリ切られてから、なんとなく小説を読むのにためらいを感じていた。
だって、他の人の書く小説は面白いから。
私は自分と比べてしまって、あまりの差に愕然とするだろう。そうしたら二度と小説を書けない気がして、怖気づいてしまうのだ。
ちらりと表紙を見る。ぼんやりとした水彩で、緑の竜とそこにのって剣を手に取る少女が描いてある。竜が出るのか……凄く読んでみたい。
とりあえず、数ページだけ……。
私はベッドに腰掛けて、小説をめくってみる。心臓がどきどきと音を立てていた。どんな物語が綴られているんだろう。面白いかな? と、期待がふくらんでいく。
内容は期待通りだった。剣と魔法の冒険ファンタジー。意外な展開に、爽快なラスト! キャラクターは生き生きしていて、ピンチの時にはハラハラされられ、ページをめくる手が震えたほどだ。
面白かった!
……いや待て、数ページじゃなかったのか。
脳内でそんな思いが横ぎるけど、面白かったし、読んでよかったと思えたから結果オーライだ。
そして驚くことに、あんな素晴らしい小説を読んでも、私は筆を折る気にならなかった。
差を感じてがっかりしたけど、それでも、いつかはこんな話を書きたいと、その気持ちの方が大きい。
書きたいという気持ちがむくむく湧き上がってくるのだ。
私は机に向かうなり、書きたいと思う話を、キャラを、大まかな展開を綴っていく。それから夢中で本編に差し掛かった。
書けないと悩んでいたのが嘘みたいに、筆が進んだ。自分の物語を伝えようと書き綴るのが、とても楽しい。
ようやく納得のいくところまで完成すると、私は筆をおいた。いつの間にか、窓の外が夕焼けの色に染まっていた。ミレイさんは、もう帰ってきたのだろうか? 昼ご飯を取るのを忘れていたけど、別にお腹は空いていなかった。
完成した原稿を見ていると、高揚感が凄い湧き上がってきて、一人でにんまりとしてしまう。まあ、いいか。誰もいないんだし。
「差し入れだ。これ食って書く気になれ! って、なんだそれ。新種の儀式か?」
原稿を掲げて踊っていた私は、片足でステップを踏んだまま固まった。
慌てて直立するがもう遅い。恥ずかしくて頬が熱くなる。せめてノックをしようよ。
リウはずかずかと部屋に入ってきた。右手の白い箱を机に置くと、私の手から原稿を奪い取った。あまりの素早さに反応できなかった。
「見ないでください!」
抗議しながら手を伸ばすが、青年に掲げられた原稿には、ちっとも届かない。
「とれるもんならとってみな」
にやにや笑いながら上を向いて原稿を読む。
「てか、『物語』ってのは、人に読ませるために書くもんだろ?」
そうかもしれない。けど、下手だってわかっている物語を他人に見せる気にはなれない。書くからには、やっぱり認めてもらいたいんだ。
母のような……あんな反応は嫌だ。私の実力不足のせいだってわかっていても、落ち込んでしまう。
私はリウが言うであろう辛辣な感想を想像する。
はあ? これが物語? まだそこらの犬しかましな物語を紡げるんじゃね? ……この世界に犬がいるかは知らないけど。
とにかく原稿を取り返さなきゃ。
思い切り手を伸ばしてつま先立ちでジャンプするけど、やっぱり届かない。なんだか情けなくて、涙があふれてくる。
「俺、『物語』のことは魔法を紡ぐ道具としか思ってなかったけど、お前の『物語』は好きだぜ」
「え?」
唐突につぶやかれた言葉に、こぼれかけた涙も引っ込む。
私の表情を客観的に述べると、ぽかんと口を開いた間抜け面、だろう。
「なんだよ? どうかしたのか?」
リウが怪訝そうに私を覗き込んでくる。空色の瞳を前に、今なら原稿を取り返せそうだと思うが、ただぼんやり頭の表面で思うだけで、体は動く気になれなかった。
「私、そんなこと言われたの初めてです。面白いって」
空色の瞳が不思議そうに瞬く。
「え? マジで? あんまり人に『物語』を見せないのか?」
「……はい」
母に見せたのが初めてだ。あの時はこれで母も認めてくれると思ったけど、見事に玉砕したっけ。
なので、リウが面白いって言ってくれても、正直実感が持てない。あ、でも嬉しいけど。てか凄い嬉しい。
「えっと、あの、ありがとうございます。嬉しいです。あっ、でもなんで私の物語を知ってるんですか?」
「お前が初めに持っていた原稿があるだろ」
邪鬼退治に使うから寄越せ、と強引に奪われた原稿だ。あの話も読んでくれたらしい。母には呆れられたんだけど、リウの好みと合ったのかな?
「それに、俺の召喚に間違いはない。絶対優秀な魔法屋が来ると思ってた」
そう言ってにんまりと笑うリウが眩しくて、私は俯いてしまう。私が無反応になったからか、リウはベッドに腰掛けてリラックスモードで原稿を読み始めた。
私は机に向かいながら、次の話の構想に入る。そう言えば机にリウが持ってきた白い箱が置いてあったが、勝手に開けるのもなんなので横によけた。
「そうだ。ミレイさんのはどうなんですか? ミレイさんの『物語』も読んだ事ありますよね」
ふと思い立って問いかけると、リウは何とも言えない表情になって斜め上の空間に目をやる。
「喧嘩の原因」
「はい?」
「多分それだ」
理解するのに数秒を要した。
「いったい何を言ったんですか!」
思わず立ち上がって怒鳴りつけると、リウはうるさそうに片耳をふさぎながら視線をそらす。
「あ、いや……優等生すぎて面白みのない『物語』だな、って」
リウでも少し悪いと思うのか、ちょっと後悔するみたいに言葉を濁していた。顎に手をやったり視線を忙しく動かしたり、挙動不審でもあった。
「ミレイさんに、謝りました?」
とたんにリウの動きが止まる。
「なんで俺が謝らなくちゃいけないんだよ! あいつが感想を求めてきて、俺は正直に答えただけだぞ! 俺は悪くない! だから謝らない!」
リウは鼻息荒くそう告げると、私の原稿を持ったままドアを閉めた。
いやいや、謝ろうよ。
「――だから謝らない。っていうんですよ! 最低ですね」
ミレイさんが帰ってきてから今日会ったこと――主にリウの最後の言葉を話すと、ミレイさんはちょっと苦笑してデーブルに置かれた蜂蜜レモンに口をつける。
「ほんとを言うと、気にしてないのよ」
私はスコーンに伸ばしかけた手を止める。
「むしろ感謝してるわ。昔は『物語』を書くことがつまらない作業でしかなかったけど、彼がきついこと言ってくれたおかげで、欲望のままに自分の好きな『物語』を書けるようになったんだもの」
どうやらミレイさんは、リウに言われた感想に怒って彼のパートナーをやめたわけじゃないらしい。さっぱりした顔立ちなので、強がっているわけでもなさそうだ。
「じゃあ、どうして『物語』をリウに見せないんですか?」
ミレイさんがリウのパートナーに戻ってくれなきゃ、私はいつまでたっても帰れない。ここでの暮らしが嫌なわけじゃないけど、いつまでもいるわけにもいくまい。
私はわりと切実な気持ちでミレイさんをじっと見つめる。
「だって……恥ずかしいもの。わ、わたしの好きな小説って、一般人が好むものじゃないの」
やがて躊躇いがちに話してくれたのはそんな内容だった。ミレイさんは本当に不安なのか、落ち着きなくそわそわしている。
「大丈夫ですよ! リウさんは確かに偉そうでデリカシーのない最低男ですが、ミレイさんの好きなものを否定するほど落ちぶれていません! 多分!」
「……多分、なのね」
ミレイさんは笑ってくれたけど、やっぱり少し元気なさそうだった。私は言うべき言葉が見つからない。
黙ったまま夕食を再開する。スコーンにジャムを塗って口に放り込み、時折、温かい蜂蜜レモンを飲んだ。食卓には、リウが買ってきてくれた白竜クリームのケーキもある。
ミレイさんの気持ちは……わかる。
自分の書いた物語が、それもこれが好きだって胸を張って思える話が他人に否定されたら傷つく。鬱とかグロとか、万人ウケしないようなジャンルだったらなおさらだ。
「わ、私、お母さんに私が書いた小説――『物語』を見せたことがあるんです」
気づいたら、私はそんなことを言っていた。
ミレイさんが食事の手を止めて私を見る。
私はゆっくりと言葉を整理しながら、自分に、そしてミレイさんに言い聞かせるように言葉を続ける。
「お母さんには、面白いとは、言ってもらえませんでした。それで、こんなの諦めて大学に行けと言われて……私もこれでお母さんを説得できなかったらおとなしく言うこと聞くと言った以上、専門学校は諦めなきゃいけないんですけど……、それでも」
認められなくても、否定されても、私の根本から湧き上がる思いは一つだった。
「それも私は、『物語』を書くことを諦めたくはないんです!」
書きたい。
つまらないと言われても、無駄だからやめろと諭されても、自分なんかじゃかなわないような面白い物語を読ん落ち込んでも、最後にはそう思っている。書きたいという、その事実だけは変わらない。
「私は絶対、いつかお母さんに面白いって言ってもらえるような『物語』を書いてみます。それで絶対、小説家になってやります!」
立ち上がって力説する私を、ミレイさんはちょっと虚を突かれたように見つめている。私は急に恥ずかしくなって俯いた。何言ってるんだろう……。そりゃあ、本心からの気持ちだけど、専門学校とか大学とか……ミレイさんには支離滅裂だよ。
「オリハちゃん」
ぐるぐると頭の中で色んなことを考えていると、ミレイさんが柔らかな声音で私の名前を呼んだ。
「そうよね。わたしも、勇気を出してみようかな」
はっとして顔を上げると、ミレイさんは透明な微笑みを浮かべていた。どうな結果になってもいい。そう覚悟を決めた物書きの顔だった。
夕飯の後片付けをしてから、私はミレイさんの仕事部屋に案内された。ミレイさんの部屋も私に与えられたそれと同じ大きさで、家具もそう変わらなかった。
ミレイさんは書机の引き出しを開けると、原稿を取り出した。
「これが、わたしの『物語』。リウに見せる前の予習に、読んでもらえるかしら?」
「はい!」
「は、恥ずかしいから……オリハちゃんの部屋で読んで。ねっ」
リウよろしくベッドに腰掛けて原稿をめくったら、ミレイさんが真っ赤になって私を追いだした。私は早足で自分の部屋に戻ると、わくわくする気持ちを抑えきれずに、ページをめくる。
ミレイさんの紡ぐ『物語』は、私の苦手な分野だったけど、それでも読ませてしまう。引き込まれて、あっと言う間に読み終わってしまう。そんな『物語』。
そう。
……くっさい台詞だけど、とても『愛』のこもった作品だった。
翌日、ミレイさんに呼び出されたリウがやってきた。
初めて会った時と同じ赤装束をまとった彼は、ミレイさんを前にそっけない態度だった。
「なんだよ。折り入って話って?」
聞きつつも、極力ミレイさんから顔をそむけている。多分、気まずいんだろう。そっけない態度をしつつも、時々ちらちらとミレイさんを盗み見ていた。
ミレイさんはそんなリウに向かって、深々と頭を下げる。
「いろいろ迷惑かけたみたいでごめんなさい。わたし、リウのパートナーに戻ることにしたわ」
「お、おう。そうか……」
やっとミレイさんをまともに見た顔には、隠しきれない安堵が広がっていた。彼もなんだかんだ言って、ミレイさんのことが気になっているのだろう。
「それで、えっと……」
ミレイさんは彼にずいと抱えた原稿を差し出した。
「わたしの『物語』を、読んでくれない? リウに読んでもらいたいの」
「お、おう」
ミレイさんは子供みたいに顔を輝かせてリウを見上げていた。リウはその視線を気にしながらも、受け取った原稿に目を落とす。
空色の瞳が真剣に文字を追っていた。
やがて最後のページまで読み終わると、ミレイさんはためらいがちに口を開いた。
「どうかしら?」
「なんか、ミレイのイメージとギャップが……てか黒すぎ。この後味の悪さは何だよ! てか死ぬ奴多すぎだろ!」
一息に言った後、ぼりぼりと頭をかく。
「あー、でも面白いな。ぐいぐいと先を読まされちまう。俺は前のより、こっちの方が好きだな。文章全体から、書いてて楽しいって気持ちがあふれてるし」
ミレイさんはとっても嬉しそうに微笑んでいた。よかったね、ミレイさん。
これでリウとミレイさんも仲直りしたし、私はやっと元の世界に帰れるわけだ。そう思うと、ちょっと寂しくなってきた。
「んじゃ、俺、早速邪鬼退治に行ってくるな!」
しんみりする私を差し置いて何処かに行こうとするので、私はリウのマントを掴んで慌ててそれを止めた。
「待って待って! 私はどうなるんですか!」
「あー悪い。忘れてた」
「きちんと元の場所に戻してくれますよね?」
リウは大きく頷いて拳で自分の胸を叩いた。
「おう。この天才魔術師たるリウ様に不可能はねえ。ちゃんと、元の世界、元の時間、元の場所に送ってやるよ。っと、これは餞別だ」
先ほどまで読んでいた原稿を、私へ押しつけてくる。ええ? そんな勝手なこと……。
助けを求めるようにミレイさんに目をやる。ミレイさんは和やかに私たちを見つめていた。私の視線に気づくとにっこりと頷いた。
「持って行って。オリハちゃん」
「あ、ありがとうございます。大切にします!」
私は私が書いた二つの原稿と共に、ミレイさんの『物語』も抱えた。
「んじゃ、いくぞ」
リウがぶつぶつと小さく言葉を呟く。聞こえてくる断片は、日本語の発音ではなかった。
不意に、風が吹く。
原稿が私の手を離れて、淡く輝きながら私を取り囲んだ。薄い光に包まれたようにリウとミレイさんの姿が霞んでいく。
私は消えかける彼らに向かって、何度も手を振った。
赤く輝く太陽の残滓が、西の空を焦がしていた。
夕焼けに染まる道。長く伸びる影。かあかあと、頭上を烏が横ぎっていく。買い物帰りの母子が、烏を指さしながら、和やかに声を上げていた。
戻ってきたんだ。
目に入る景色はとても普通で、今までの事は夢だったんじゃないかと思える。
ふと視線を落とした私は、腕に抱えている原稿を見つけた。
確かに一つだった原稿。
でも、今は三つものそれを持っていた。
お母さんに見せた原稿。夢中で書いた原稿。そして最後は、まぎれもなくミレイさんが綴った『物語』だった。
私は、胸の内に熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。まるで三つの原稿が熱を持ったように暖かい。
「よし! とりあえず頑張るか!」
お母さんの言うとおり大学に向けて勉強するけど、合間を見つけて小説を書くつもりだ。
それで、私にも他者にも認めてもらえるような物語が紡げたら、もう一度、お母さんにも読んでもらうんだ。
私はそんなことを考えながら、家に向かって走り出した。
おわり