NO TRACE ―影を追う者― II 消された依頼人
第一章 消えた弟
雨の日には、面倒な依頼が来る。
経験則というほど長く探偵をやっているわけではない。
それでも榊冬馬は、そんな気がしていた。
午後八時過ぎ。
《NO TRACE調査事務所》
古い雑居ビルの三階。
客など滅多に来ない事務所の扉を、三度ノックする音がした。
「どうぞ」
入ってきたのは、三十歳前後の女性だった。
濡れた髪をハンカチで拭きながら、小さく頭を下げる。
「突然すみません」
「依頼なら座ってください」
女性は少し戸惑った。
愛想のない探偵だと思ったのだろう。
冬馬はコーヒーを二つ淹れた。
一つを彼女の前へ置く。
「砂糖は」
「大丈夫です」
女性は両手でカップを包んだ。
震えている。
寒さではない。
「水城紗季です」
名刺を出した。
《水城紗季 東都出版 編集部》
冬馬は受け取る。
「探してほしい人がいる?」
「弟です」
鞄から写真を出した。
二十代半ばの青年。
少し眠そうな目。
姉と並んで笑っている。
「水城遼。二十六歳です」
「最後に連絡があったのは?」
「三週間前」
紗季はスマートフォンを取り出した。
最後のメッセージ。
《ちょっと仕事でトラブルがあった。何日か連絡できないかもしれない》
「警察には?」
「行きました。でも成人ですし、事件性がないって」
冬馬は写真を見る。
「弟さんは何の仕事を?」
「医療機器メーカーの研究員です」
「会社名は?」
「アステル・メディカル」
冬馬の指が止まった。
知らない名前。
しかし。
どこか引っ掛かる。
「最近、弟さんに変わったことは?」
紗季は考える。
「一か月くらい前から、何かに怯えていました」
「何か?」
「聞いても答えてくれませんでした。でも……」
紗季は声を落とす。
「人が消えてるって」
冬馬の目が動く。
「どういう意味です」
「分かりません。ただ、会社で『昨日までいた人が最初からいなかったことになってる』って」
冬馬は黙った。
「弟の同僚にも電話したんです。でも誰も弟のことを知らないって言うんです」
「三週間で?」
「はい」
冬馬は写真を机へ置く。
「依頼を受けます」
紗季が顔を上げた。
「本当ですか?」
「ただし、警察が事件性なしと判断した理由が正しい可能性もある」
「それでもいいです」
紗季は深く頭を下げた。
「お願いします」
依頼書を書いてもらう。
住所。
電話番号。
勤務先。
冬馬はそれを封筒へ入れた。
紗季が帰る時。
「水城さん」
「はい」
「弟さんを探していること、誰かに話しましたか」
紗季は首を横に振る。
「警察以外には」
「今後も話さないでください」
「どうして?」
「まだ分からない」
冬馬は窓の外を見る。
雨。
「分からない時ほど、余計なことはしない方がいい」
翌朝。
冬馬はアステル・メディカルへ電話した。
「水城遼という研究員について確認したい」
しばらく保留。
『そのような社員は在籍しておりません』
「過去には?」
『記録がございません』
冬馬は電話を切る。
次。
東都出版。
「水城紗季さんをお願いします」
『水城……ですか?』
「編集部」
『少々お待ちください』
数分。
『申し訳ございません。そのような社員は在籍しておりません』
冬馬の目が細くなる。
携帯。
昨夜聞いた番号。
《現在使われておりません》
冬馬は立ち上がった。
住所へ向かう。
古いマンション。
四〇三号室。
別人が住んでいる。
「水城紗季?」
住人は首を傾げた。
「知りませんね」
「いつからここに?」
「五年前から」
事務所へ戻る。
机の上。
昨夜の依頼書。
紗季の筆跡。
写真。
名刺。
確かに残っている。
冬馬は椅子へ座った。
「……半日か」
依頼人が消えた。
行方不明ではない。
社会から。
存在そのものが。
冬馬は紗季の写真を見る。
「いい依頼を持ってきたな」
声は静かだった。
だが。
橙色の光が一瞬、瞳の奥を走った。
第二章 存在しない女
デジタルの記録は信用しない。
冬馬がそう思うようになったのは、未来から来たせいではない。
探偵だからだ。
記録は書き換えられる。
人は嘘をつく。
だが。
物には癖が残る。
紙にも。
匂いにも。
指先にも。
紗季が座っていた椅子。
コーヒーカップ。
依頼書。
冬馬は昨夜の防犯映像を確認した。
午後八時十二分。
扉が開く。
次の瞬間。
映像が乱れる。
八時十二分から九時三分まで。
ノイズ。
そして。
扉だけが閉まる。
「都合が良すぎる」
録画装置を調べる。
外部侵入の痕跡。
遠隔操作。
誰かが消した。
冬馬は写真を拡大した。
水城姉弟。
背景。
古い時計店。
看板の一部。
《……時計舗》
町並み。
駅前商店街。
冬馬は歩いた。
三時間。
似た店を四軒。
五軒目。
《森田時計舗》
写真と一致した。
「この二人を知っていますか」
老店主は写真を見る。
「ああ」
冬馬が目を上げる。
「知ってる?」
「紗季ちゃんと遼君だろ」
初めて。
第三者から名前が出た。
「常連ですか」
「親父さんが生きてた頃からな」
店主は写真を懐かしそうに見る。
「最近、遼さんを見ましたか」
老人の顔が曇る。
「一か月前かな」
奥へ引っ込む。
戻ってきた手には封筒。
「これを預かった」
冬馬は受け取らない。
「誰に渡せと?」
「姉ちゃんが来たら」
老人は苦笑した。
「来なかったがな」
冬馬は封筒を見る。
「俺が預かっても?」
「紗季ちゃんから頼まれた?」
「弟さんの捜索を」
老人はしばらく冬馬を見る。
そして渡した。
中。
数字。
《35.6841 / 139.6218》
座標。
もう一枚。
《27》
その下に手書き。
《紙に残す》
冬馬は老人を見る。
「遼さんは何か言っていましたか」
「変なことをな」
「何を?」
老人は眉を寄せた。
「パソコンに書くと消されるって」
冬馬は外へ出た。
座標を地図で確認する。
郊外。
閉鎖済みの医療研究施設。
夕方。
冬馬は現地にいた。
《旧東都生体科学研究センター》
五年前に閉鎖。
だが。
裏口の鍵が新しい。
侵入。
埃。
廃棄された机。
床。
足跡。
最近のもの。
地下への扉。
暗い階段。
臭い。
消毒液。
血液。
金属。
冬馬の顔が変わる。
知っている臭いだった。
未来。
自分が拘束された研究所。
地下。
診察台。
拘束具。
採血装置。
薬品。
壁には番号。
M-11。
M-18。
M-23。
M-27。
冬馬は《27》へ近づく。
床。
爪痕。
人間のものではない。
その時。
背後。
風。
冬馬が振り向く。
拳。
受け止める。
男だった。
裸足。
病院着。
身体中に黒い血管。
「……誰だ」
男は答えない。
冬馬へ飛びかかる。
速い。
壁に叩きつけられる。
冬馬が蹴り返す。
男は四メートル飛んだ。
すぐ起き上がる。
人間ではない。
「名前は?」
男が震える。
「……M……」
「何?」
「M……27」
冬馬の表情が変わる。
男が再び襲いかかる。
冬馬は拳を構えた。
だが。
殴らなかった。
男の目。
恐怖。
怒りではない。
逃げたい。
「お前も……」
冬馬が呟く。
「捕まった側か」
男の身体が一瞬止まった。
上階。
足音。
複数。
男――M-27が振り返る。
怯える。
そして窓を突き破り逃げた。
冬馬も別方向へ走る。
地上。
黒い車両が三台。
胸元に見覚えのある紋章。
HELIX。
「やっぱりお前らか」
雨が降り始めた。
第三章 紙に残った痕跡
翌朝。
研究施設は焼けていた。
証拠隠滅。
消防車。
警察。
冬馬は野次馬の中から現場を見る。
「仕事が早いな」
背後から声。
「そっちもな」
冬馬が振り向く。
四十代。
短髪。
鋭い目。
スーツ。
警察手帳。
「捜査一課、久世慎吾」
「探偵、榊冬馬」
「知ってる」
久世は冬馬を見る。
「正確には、知ってるつもりだった」
「どういう意味だ」
「榊冬馬という探偵はいる」
一拍。
「だが、お前じゃない」
冬馬は無言。
「年齢も違う」
「よく似た顔なんだろ」
「他人で押し通すには似すぎてる」
冬馬は火災現場を見る。
「殺人ですか」
久世が眉を動かす。
「質問に質問で返すな」
「刑事なら慣れてるだろ」
久世は少し笑った。
「三人焼け死んだ」
冬馬の表情が消える。
「職員?」
「身元不明」
「身元不明?」
「指紋なし。歯科記録なし。DNA照合なし」
冬馬は火を見る。
存在を消された人間。
死んでも。
誰なのか分からない。
「何か知ってるな」
久世が言う。
「知っていたら?」
「話せ」
「嫌だと言ったら」
「もっと調べる」
冬馬が久世を見る。
「刑事らしい」
「探偵に言われたくない」
冬馬は去った。
事務所。
壁に事件資料が増える。
紗季。
遼。
M-27。
研究施設。
HELIX。
冬馬は過去一年の失踪事件を調べる。
十三件。
全員成人。
年齢十八から四十二。
職業はバラバラ。
教師。
配送員。
研究者。
スポーツトレーナー。
看護師。
共通点なし。
だが。
健康診断。
全員同じ会社。
《ライフステージ・ヘルス》
調べる。
設立二年前。
役員。
住所。
資本。
三段階先にHELIX関連ダミー企業。
「見つけた」
さらに。
失踪者の家族を訪ねる。
一軒目。
母親。
「息子の写真?」
棚を見る。
「変なんです」
「何が」
「アルバムから、あの子の写真だけなくなってる」
二軒目。
妻。
「主人の会社に問い合わせたら、働いてなかったって」
三軒目。
父。
「病院に行った記録もないと言われた」
同じ。
人だけではない。
痕跡まで消される。
夜。
冬馬は事務所へ戻った。
壁へ赤い線。
HELIX。
健康診断。
拉致。
記録消去。
人体実験。
「最初から事件にしないためか」
誰も存在を証明できなければ。
誰も探さなくなる。
電話。
非通知。
冬馬は取る。
『探すのをやめろ』
「誰だ」
『存在しない人間を探して何になる』
冬馬の目が冷たくなる。
「存在しないかどうかは俺が決める」
『お前自身も同じだろ』
電話が切れた。
冬馬は受話器を見る。
知っている。
相手は。
自分に記録がないことを。
「俺まで調べたか」
窓。
向かいの建物。
影。
冬馬が走る。
屋上。
誰もいない。
床に。
銀色の小さな鱗。
紙のように薄い。
指で摘まむ。
生体組織。
「怪人……」
風が吹いた。
鱗が震えた。
まるで。
紙を食う虫の翅のように。
第四章 番号で呼ばれる者
M-27は三日後に現れた。
場所は学校だった。
廃校ではない。
普通の小学校。
午後七時。
誰もいない校庭。
冬馬はフェンス越しに男を見る。
ブランコ。
男は座っていた。
病院着ではない。
盗んだらしいジャージ。
手に何か握っている。
写真。
「M-27」
男が振り向く。
逃げない。
冬馬は近づく。
「名前は?」
「……ない」
「ある」
「ない」
「誰にそう言われた」
男が頭を押さえる。
「M……27」
冬馬はしゃがむ。
写真を見る。
少女。
小学生。
「娘か?」
男の瞳が揺れる。
「……むす……」
言葉が出ない。
冬馬は写真を奪わない。
「名前を思い出せ」
男が呻く。
頭を抱える。
「やめろ……」
「自分の名前だ」
「やめろ!」
怪力。
冬馬が吹き飛ぶ。
男の身体が変化する。
皮膚を突き破るように黒い外殻。
腕が肥大化。
背中。
昆虫とも哺乳類とも分からない異形。
改造途中。
不完全。
冬馬は腰の装置へ手を伸ばす。
赤い光。
深緑の外殻が全身を覆う。
長い触角。
橙色の複眼。
飛蝗の異形。
M-27が止まった。
「……同じ」
冬馬は構える。
「似てるだけだ」
M-27が飛びかかる。
拳。
冬馬が受ける。
地面が沈む。
強い。
力任せ。
だが戦い方を知らない。
冬馬は関節を取る。
投げる。
押さえ込む。
殺さない。
「離せ!」
「思い出せ」
「俺はM-27!」
「違う!」
冬馬の声が響いた。
「番号は名前じゃない!」
M-27の動きが止まる。
写真が地面へ落ちる。
少女。
「この子は誰だ」
「……」
「誰だ!」
男が震える。
「……莉奈」
冬馬の手が緩む。
「もう一度」
「莉奈……」
外殻が少しずつ引いていく。
男が泣いた。
「莉奈……」
冬馬は変身を解いた。
「それだけ覚えてれば十分だ」
パトカー。
遠く。
誰かが通報した。
冬馬は男を立たせる。
「行くぞ」
「どこへ」
「お前が誰か調べる」
男が冬馬を見る。
「探偵……?」
「そうだ」
影から。
銀色の何かが二人を見ていた。
薄い身体。
無数の鱗。
男の声。
「欠陥品が」
その瞳は。
感情を映していなかった。
第五章 家出人名簿
M-27の正体は二日で判明した。
高瀬修。
三十九歳。
中学校教師。
妻。
娘。
半年前に失踪。
警察では自主失踪。
写真から消されていた。
勤務記録もない。
だが。
紙の卒業文集に名前が残っていた。
《三年二組 担任 高瀬修》
冬馬は古い卒業生を訪ねた。
「高瀬先生?」
二十歳の青年が笑う。
「厳しかったけど、いい先生でしたよ」
存在していた。
人の記憶には残っている。
HELIXでも。
そこまでは消せない。
高瀬を匿った地下倉庫。
冬馬は卒業文集を渡した。
高瀬の指が震える。
自分の名前。
自分の写真。
「高瀬修」
冬馬が言う。
「それがお前だ」
高瀬は何度も名前を見る。
「俺は……」
「教師だった」
「莉奈……」
「娘だ」
高瀬が泣く。
冬馬は目を逸らした。
「会いたい」
「駄目だ」
高瀬が顔を上げる。
「どうして!」
「今のお前を追ってる連中がいる」
「俺は父親だ!」
「だからだ」
冬馬は静かに言う。
「家族まで巻き込みたいのか」
高瀬は黙った。
冬馬には分かる。
帰りたい。
だが帰れない。
その痛み。
「声だけなら」
冬馬は録音機を出す。
「用意できる」
夜。
高瀬の妻と娘の会話を録音した。
家には近づかない。
盗聴に近い。
探偵として褒められた方法ではない。
だが。
翌日。
莉奈の声を聞いた高瀬は膝をついた。
『お父さん、どこにいるのかな』
高瀬が泣く。
『帰ってきたら怒るからね』
笑い声。
『でも、帰ってきてほしい』
高瀬は顔を覆った。
「俺は……帰れるのか」
冬馬は答えなかった。
嘘はつけない。
「分からない」
高瀬が見る。
「でも」
冬馬は続ける。
「帰れる方法があるなら探す」
「……なぜ」
冬馬は少し考えた。
「依頼じゃない」
「じゃあ何だ」
「仕事の延長だ」
高瀬が笑った。
少しだけ。
その夜。
倉庫が襲撃された。
黒服。
HELIX。
高瀬を処分するため。
冬馬は変身。
三人。
四人。
五人。
倒す。
最後の男が無線。
「M-27、回収不能!」
声。
『なら廃棄しろ』
冬馬が無線を取る。
「お前が御影か」
沈黙。
『榊冬馬』
冬馬の複眼が光る。
『未来に存在しない男』
「ずいぶん調べたな」
『いや』
御影の声は冷たい。
『お前は現在にも存在しない』
通信が切れた。
冬馬は壊れた無線を見る。
初めて。
HELIX側から。
自分の存在そのものを狙われていると感じた。
第六章 帰れない怪物
高瀬の身体は悪化していた。
変異の周期が短くなる。
自我が飛ぶ時間も増える。
冬馬はHELIXから奪った薬品を調べた。
抑制剤。
完全な治療薬ではない。
だが進行を遅らせられる。
問題は量。
あと三日分。
「研究所へ取りに行く」
冬馬が言う。
高瀬は首を振る。
「俺のために危険を冒すな」
「勘違いするな」
「何が」
「薬が必要なのはお前だけじゃない」
十三人の失踪者。
まだ生きている可能性。
冬馬は全員を探すつもりだった。
夜。
久世が事務所へ来た。
「令状は?」
冬馬が聞く。
「ない」
「帰れ」
「嫌だ」
勝手に座る。
「高瀬修」
冬馬の目が止まる。
「知ってるだろ」
「知らない」
「嘘が下手だな」
冬馬が眉を寄せる。
久世は資料を置く。
紙。
「警察のデータから消えた。でも昔の事件簿に名前だけ残ってた」
「何で俺に」
「この事件」
久世は冬馬を見る。
「普通じゃない」
「今さら?」
「お前も普通じゃない」
沈黙。
久世は続ける。
「俺は警察官だ。怪物と戦う方法なんて知らん」
冬馬が目を細くする。
「見たのか」
「小学校の防犯カメラ。消される前にな」
久世は写真を出す。
飛蝗の異形。
冬馬。
鮮明ではない。
「これがお前だとは言ってない」
「なら何が聞きたい」
「人間なのか?」
冬馬は少し考える。
「刑事なら、何をもって人間と判断する」
「質問で逃げるな」
「答えられないから聞いてる」
久世は黙る。
冬馬が言った。
「高瀬修は人間だ」
「……」
「覚えておけ」
久世は立ち上がった。
「高瀬が人を殺したら?」
「止める」
「殺すのか」
冬馬の声は低い。
「その時考える」
久世は扉へ向かう。
「それでいい」
「何?」
「即答する奴より信用できる」
久世は帰った。
その夜。
高瀬が暴走した。
冬馬へ襲いかかる。
壁。
机。
破壊。
冬馬は殴られる。
変身しない。
「高瀬!」
反応なし。
「莉奈!」
止まる。
ほんの一瞬。
冬馬は録音を再生。
娘の声。
高瀬の身体が震える。
怪物の口から。
「……りな」
冬馬は理解した。
HELIXの洗脳より。
人間だった頃の記憶の方が強い場合がある。
自分と同じ。
復讐心で洗脳を破った自分とは違う。
高瀬を繋いでいたのは。
愛情だった。
第七章 探偵は怪物を調べる
冬馬は考え方を変えた。
怪人の能力を調べるのではない。
怪人になる前の人間を調べる。
それが。
自分にできることだった。
失踪者十三人。
名前。
家族。
職業。
好きだったもの。
嫌いだったもの。
癖。
思い出。
一人ずつ。
事件資料ではない。
人間として調べる。
それを高瀬に見せた。
「こいつらも……俺と同じ?」
「可能性は高い」
「助けられるのか」
「分からない」
冬馬は嘘を言わない。
「でも探す」
高瀬が冬馬を見る。
「変な探偵だな」
「よく言われる」
「怪物まで探すのか」
冬馬は資料を閉じる。
「怪物かどうかを決めるために調べるんじゃない」
「じゃあ?」
「人間がまだ残ってるか確かめる」
その日の午後。
冬馬はライフステージ・ヘルスへ潜入した。
地下。
サーバールーム。
被験者リスト。
十五人。
十三ではない。
二人増えている。
《M-31 水城遼》
冬馬の目が止まる。
生きている。
そして。
《S-09 水城紗季》
「紗季も……」
背後。
拍手。
御影宗一。
白いスーツ。
四十代。
整った顔。
「優秀ですね」
冬馬が振り返る。
「依頼人はどこだ」
「依頼人?」
「水城紗季」
御影は笑う。
「存在しない女性のことですか」
冬馬の拳が握られる。
「知ってるじゃないか」
「我々は知っています」
御影は眼鏡を外す。
「だから消した」
皮膚が裂ける。
銀色の鱗。
薄い外殻。
身体が細長く変形。
紙魚。
SILVERFISH。
人の記録を食う怪物。
冬馬も変身する。
二人が激突。
速い。
SILVERFISHの鱗が飛ぶ。
冬馬の腕に刺さる。
視界が乱れる。
「毒?」
「記憶へ作用します」
御影の声。
「人間は面白い。記録を消し、周囲の記憶を薄めれば」
鱗。
冬馬の頭。
一瞬。
名前。
自分の名前が出てこない。
「存在そのものが曖昧になる」
冬馬が壁へ叩きつけられる。
「あなたなど特に簡単だ」
御影が近づく。
「この時代に出生記録がない」
冬馬の複眼が揺れる。
「戸籍がない」
拳。
「住民票がない」
蹴り。
「家族もいない」
冬馬が倒れる。
御影が見下ろす。
「あなたは既に、我々が理想とする被験者です」
冬馬はゆっくり立ち上がった。
「一つ間違ってる」
「何です?」
拳。
御影の顔に直撃。
「俺は自分で消えた」
連撃。
「こいつらは違う」
御影が吹き飛ぶ。
警報。
冬馬はデータを持って逃走。
背後。
御影が笑う。
「NULL ARCHIVEはもう始まっています」
第八章 SILVERFISH
《NULL ARCHIVE》
人間を誘拐するだけではない。
誘拐前から。
存在記録を削る。
勤務履歴。
診療履歴。
金融。
行政。
通信。
その後。
周囲の人間へ記憶干渉。
最後に本人を確保する。
誰も探さない。
誰も届け出ない。
人体実験に最適な人間。
存在しない被験者。
冬馬は資料を机へ並べた。
「狂ってる」
久世が言う。
いつの間にか事務所へ来ている。
「勝手に入るな」
「鍵開いてた」
「閉めてた」
「探偵の事務所だろ。防犯見直せ」
冬馬は睨む。
久世は資料を見る。
「これ、本物か」
「本物だ」
「どこで手に入れた」
「聞くな」
久世はため息。
「正式な証拠には使えん」
「使わなくていい」
「何?」
「場所だけ特定してくれ」
久世の顔が険しくなる。
「警察を便利屋だと思ってる?」
「刑事だろ」
「お前、時々本当に腹立つな」
それでも。
久世は協力した。
配送記録。
道路監視。
不自然な車両。
紙の伝票。
アナログ。
御影の電子改竄を避ける。
三日。
場所を特定。
旧地下鉄工事区画。
封鎖された空間。
HELIX研究棟。
「突入するなら警察で――」
「駄目だ」
冬馬。
「中に改造された人間がいる」
「だから?」
「普通の武装警官なら撃つ」
久世は黙った。
「怪物が出てきたら当然だ」
「怪物じゃない」
冬馬の声。
「少なくとも最初は全員、人間だった」
久世を見る。
「だから俺が行く」
「お前なら殺さないと?」
冬馬は答えない。
「保証はできない」
「それでも?」
「ああ」
久世は煙草を出す。
禁煙の表示。
冬馬が見る。
久世は戻した。
「一つだけ約束しろ」
「何だ」
「生きて戻れ」
冬馬が少し笑う。
「刑事らしくないな」
「死体処理が面倒なんだよ」
地下。
その頃。
水城紗季は目を覚ました。
透明な隔壁。
隣。
一人の青年。
遼。
「遼!」
返事がない。
身体には複数の管。
皮膚下。
何かが動く。
「遼!」
青年の瞳が開いた。
人間の目ではなかった。
第九章 消された女
冬馬は地上から入らなかった。
旧排水路。
図面。
二十年前の都市計画資料。
電子情報には残っていない入口。
探偵は古い紙に助けられる。
侵入。
警備二人。
気絶。
三人目。
拘束。
「水城紗季は?」
「知らない」
冬馬は男の端末を見る。
「嘘だな」
地下四階。
収容区画。
被験者。
十一人。
生存。
中には変異が進んでいる者もいる。
冬馬は扉を開ける。
「逃げられる人間は地上へ」
「あなたは?」
「下へ行く」
階段。
地下五階。
紗季を発見。
「榊さん?」
「久しぶり」
「どうして――」
「依頼を受けたから」
隔壁を破る。
紗季が出る。
「弟が!」
「分かってる」
隣。
M-31。
水城遼。
拘束具。
冬馬が装置を止める。
遼の目。
開く。
「遼」
紗季が近づく。
冬馬が止める。
「待て」
遼の身体が膨張。
金属音。
外殻。
両腕。
刃のような突起。
「離れろ!」
遼が拘束具を引き千切る。
紗季へ。
冬馬が庇う。
壁に叩きつけられる。
「遼!」
反応なし。
「榊さん!」
冬馬が立ち上がる。
「名前を呼び続けろ」
「え?」
「聞こえてる可能性がある」
冬馬が変身。
飛蝗の外殻。
遼と激突。
研究棟。
振動。
紗季が叫ぶ。
「遼!」
拳。
冬馬が防ぐ。
「遼!」
刃。
肩を切る。
「水城遼!」
一瞬。
遼が止まる。
「……ねえ……」
紗季の声が震える。
「帰ろう」
遼の目が揺れる。
その時。
スピーカー。
御影。
『感情反応確認』
冬馬が天井を見る。
『素晴らしい』
「御影!」
『M-31の最終試験を開始します』
首輪。
遼の神経装置が起動。
絶叫。
完全暴走。
「やめろ!」
冬馬が端末へ飛ぶ。
爆発。
御影は。
最初から。
姉弟の感情まで実験に利用していた。
第十章 NO TRACE
地上。
久世たちはHELIXのダミー企業へ突入していた。
正式には違法薬物製造事件。
それで十分だった。
逃走ルートを塞ぐ。
研究員を確保。
地下では。
冬馬が遼を止め続ける。
殴られる。
切られる。
それでも。
致命傷になる攻撃は返さない。
「何で反撃しないんです!」
紗季が叫ぶ。
「依頼が!」
冬馬が遼の腕を掴む。
「弟を探せだったからな!」
投げる。
「殺せとは言われてない!」
遼が起き上がる。
冬馬の胸を貫こうとする。
寸前。
止まる。
「りょ……」
紗季。
「遼!」
遼の手が震える。
「姉……」
冬馬の目が動く。
戻っている。
「そのまま名前を呼べ!」
紗季が何度も呼ぶ。
冬馬は遼の首輪へ手を伸ばす。
解除。
神経装置を引き抜く。
遼が倒れる。
紗季が抱きしめる。
「遼!」
「……姉ちゃん」
紗季が泣いた。
冬馬は少し離れて見る。
その時。
拍手。
御影。
「感動的ですね」
銀色の外殻。
SILVERFISH。
「人間は本当に記憶へ執着する」
冬馬が前へ立つ。
「お前は分かってない」
「何を?」
「記録と記憶は違う」
御影が笑う。
「どちらも消せます」
冬馬の複眼が光る。
「ならやってみろ」
二人が激突した。
第十一章 名前を呼べ
SILVERFISHは強かった。
速さでは冬馬に劣らない。
細い身体。
狭い地下空間。
壁。
天井。
自在に走る。
銀色の鱗。
記憶毒。
冬馬の頭に刺さる。
視界。
白くなる。
「名前は?」
御影の声。
冬馬が膝をつく。
「あなたの名前」
分からない。
自分。
誰だ。
暗い。
「存在しない人間に、名前など不要です」
冬馬の記憶。
雨。
事務所。
誰かが来た。
女性。
名前。
消える。
「何を探していた?」
御影。
冬馬は顔を上げる。
何だった。
なぜここにいる。
背後。
声。
「榊さん!」
紗季。
「弟を見つけてくれたでしょう!」
冬馬の瞳。
動く。
依頼。
水城紗季。
水城遼。
「探偵……」
御影が首を傾げる。
冬馬が立ち上がる。
「そうだ」
「何?」
「俺は探偵だ」
拳。
SILVERFISHへ直撃。
「くだらない」
御影が鱗を放つ。
「記録を消せば、人間など存在しなかったのと同じだ!」
冬馬は突っ込む。
腕。
肩。
鱗を受ける。
「違う」
「何が違う!」
「探す奴がいる」
拳。
「名前を呼ぶ奴がいる」
蹴り。
「待ってる奴がいる」
御影が壁へ。
冬馬はさらに追う。
「それだけで十分だ!」
御影が叫ぶ。
「ならお前はどうだ!」
冬馬が止まる。
「お前を待つ人間はどこにいる!」
沈黙。
「記録もない!」
御影が立ち上がる。
「家もない!」
冬馬は静かに構える。
「名前を知る者すら――」
「それがどうした」
御影が止まる。
冬馬の声は穏やかだった。
「俺が誰かを覚えてればいい」
「……」
「俺が見つけた人間を、俺が忘れなければいい」
飛蝗の脚部。
力が集まる。
「探偵ってのは、そういう仕事だ」
跳躍。
天井。
反転。
SILVERFISHが防御。
冬馬の蹴り。
銀色の外殻を貫く。
御影が吹き飛ぶ。
NULL ARCHIVEの中枢装置へ激突。
火花。
崩壊。
御影は人間の姿へ戻りながら笑った。
「無意味だ……」
冬馬が近づく。
「HELIXは……何度でも……人を消す」
「なら」
冬馬が見下ろす。
「何度でも探す」
警報。
施設崩壊。
冬馬は紗季と遼のもとへ走った。
第十二章 残された名前
二週間後。
新聞には小さな記事が載った。
《違法人体実験施設を摘発》
HELIXの名前はない。
関係企業の幹部数名を逮捕。
被害者十一名保護。
四名は身元確認中。
社会は。
事件の全貌を知らない。
それでいい。
NO TRACE調査事務所。
冬馬は一枚の紙をファイルへ綴じた。
《水城遼》
その下。
《水城紗季》
ノック。
「どうぞ」
紗季が入ってきた。
「こんにちは」
「弟は」
「病院です」
「状態は?」
「少しずつ」
完全には戻らない。
遼の身体には改造の痕跡が残る。
だが。
自我は戻った。
「これ」
紗季が封筒を置く。
「報酬です」
冬馬は見ない。
「最初にもらった分で十分」
「でも」
「依頼は弟を探すことだった」
「私まで助けてもらいました」
冬馬が少し考える。
「追加料金を取るほどの仕事じゃない」
紗季が笑った。
「変な探偵」
「よく言われる」
紗季は事務所を見る。
壁。
大量の事件資料。
「これからも続けるんですか」
「何を」
「こういう事件を」
冬馬は答えなかった。
紗季は扉へ向かう。
途中。
振り返る。
「高瀬さんは?」
冬馬の手が止まる。
「生きてる」
「家族には?」
「手紙だけ渡した」
高瀬は遠くへ移った。
身体が安定するまで。
家族へ会わない。
本人が決めた。
「戻れるといいですね」
「……ああ」
紗季が帰る。
冬馬はファイルを見る。
一枚目。
依頼書。
消されなかった紙。
手書きの名前。
《依頼人 水城紗季》
冬馬は引き出しへ入れた。
デジタル化しない。
紙のまま。
残す。
夕方。
久世が来た。
「また勝手に入るぞ」
「今度はノックしろ」
「刑事に注文が多いな」
缶コーヒーを机へ置く。
「御影は?」
「意識は戻った」
「喋った?」
「何も」
久世は窓を見る。
「HELIXって名前も証拠がない」
「そうか」
「悔しくないのか」
「別に」
「お前、組織を潰したいんじゃないのか」
冬馬はコーヒーを開ける。
「潰す」
「なら」
「急いで失敗するよりいい」
久世が笑う。
「少し探偵らしくなったな」
「昔から探偵だ」
「そうだったな」
久世は帰る。
夜。
事務所。
電話。
冬馬が取る。
「NO TRACE」
女性の声。
『相談したいことがあります』
「どうぞ」
沈黙。
『友人が死んだんです』
冬馬の表情は変わらない。
『半年前に』
「それで?」
『昨日』
女性の声が震える。
『その友人を見ました』
冬馬は椅子から立ち上がる。
「どこで?」
場所を聞く。
メモ。
コートを取る。
事務所の灯りを消す。
階段。
外。
雨。
冬馬は傘を差さない。
繁華街へ歩く。
人混み。
誰も彼を知らない。
誰も。
その男が何者なのか知らない。
それでいい。
失踪者。
死者。
社会から消された者。
怪物になった者。
誰かが。
「いなくなった」と言うなら。
探す。
それが依頼だから。
それが。
探偵だから。
冬馬は雑踏の向こうへ消えていった。
その背中を追う者はいない。
ただ。
次の事件だけが。
彼を待っていた。
――NO TRACE.
第二巻 完




