孤虎の橋
初投稿です。
時は天文二十三年、秋。
甲斐の虎・武田晴信の勢力が信濃を蹂躙する中、その軍門に下ることを良しとせず、誇りとともに滅びを選んだ一族があった。
長谷部家である。
「長谷部の意地も、今日で終わりか。……武虎、追いついてきたのは小牧か」
主君、長谷部国景は、断崖に架かる一の瀬橋の袂で、背後の闇を睨みつけた。追撃の先鋒は、かつて同盟を結んでいた小領主・小牧義直。武田に降伏し、その牙となった旧友が、今は長谷部の首を狙って三百の兵を率い、霧の奥から迫りつつある。
湿った風が、死臭を運んでくる。
眼下を流れる激流の音だけが、絶望的な静寂を埋めていた。
返り血を浴びて立ち尽くす一人の巨漢――真壁武虎は、静かに頷いた。
その手には、常人では持ち上げることも叶わぬ五尺を超える大太刀が握られている。
「小牧殿も無慈悲な。武田に媚を売るため、我らの首を土産にするおつもりでしょう。……殿、お急ぎを。ここは、拙者が壁となりますゆえ」
「武虎、よせ。三百を相手に一人で何ができる」
国景の声は、疲労と悔恨に震えていた。
武虎は振り返らない。振り返れば、己の決意が露のように消えてしまうことを知っていた。
ただ、夕陽の残光を反射する大太刀をゆっくりと正眼に構える。
「真壁の家名は、この日のためにありました。殿……この橋を、一片の揺らぎなき城壁としてご覧にいれます」
国景は、しばらく沈黙した。
共に野山を駆け、主従として、あるいは友として過ごした三十年の月日が、濁流のように胸を去来する。やがて、国景は絞り出すような声で言った。
「……また、あの酒を…酌み交わしたかった」
武虎の肩が、わずかに揺れた。
かつて月を眺めながら、名もなき安酒を酌み交わし、天下の夢ではなく、この信濃の小さな村々の平和を語り合ったあの夜。
「……極楽の酒は、少々値が張ると聞き及びます。拙者が先に行って、良い席を確保しておきましょう」
武虎は、初めてその髭にまみれた口角を上げた。不器用な笑みだった。
馬蹄の音が遠ざかっていく。主君が、そして生き残りの家臣たちが、橋を渡りきった。
武虎は独り、橋の中央へと歩みを進める。古びた板が悲鳴を上げた。向こう岸から、松明の火が波となって押し寄せてくる。先頭に立つのは、武田の紋が入った旗印を掲げた小牧の兵たちだ。
「……さて」
武虎は大太刀を構え、低く重い声を喉の奥で鳴らした。
「ここから先は、一歩も通さぬ」
その瞬間、武虎の一歩が橋を揺らした。
押し寄せる松明の数は、およそ三百。大軍勢ではない。だが、この狭い山道において、疲弊しきった長谷部の残党を仕留めるには十分すぎる数であった。
「いたぞ! 長谷部の殿だ!」
先頭を駆ける小牧の足軽たちが、橋の袂で足を止めた。揺れる炎に照らされたのは、橋の中央に泰然と佇む一人の巨漢。その手にある大太刀は、抜き放たれた瞬間から周囲の空気を凍てつかせているようだった。
「真壁……真壁武虎ではないか」
兵たちの中に動揺が走る。かつては領地を接し、共に酒を酌み交わしたこともある近隣の猛者だ。その武勇は小牧の家中にも轟いていた。
「どけ、真壁! 長谷部はもう終わりだ。武田に与せぬ者は、この信濃には生きられぬのだ!」
一人の若侍が声を荒らげ、手にした槍を突き出した。それに応えるように、四、五人の足軽が左右から橋へと踏み込む。狭い木橋の上、横に並べるのは三人が限界だ。
武虎は何も答えない。ただ、低く沈めた腰から、爆発的な踏み込みを見せた。
「ふッ!」
鋭い呼気とともに、大太刀が下から斜め上へと跳ね上がる。「斬る」というより「断つ」一閃。先頭の若侍の槍は、穂先から三尺ほど先で無造作に両断され、その勢いのまま鋼の刃が胴を駆け抜けた。
「がはっ……」
言葉にならない悲鳴を上げ、若侍が崩れ落ちる。武虎は止まらない。返した刃で、今度は真上から力任せに振り下ろした。橋の欄干を叩き割りながら振り下ろされた五尺の剛剣は、逃げ遅れた足軽の肩口から逆の脇腹までを深々と断ち割り、床板を激しく踏み抜いた。
「ばっ、化け物め!」
後続の兵がたじろぐ。武虎は、大太刀にこびりついた脂を無造作に振り払うと、再び正眼に構えた。橋の上には、早くも二つの亡骸が転がり、流れた血が古びた板に吸い込まれていく。
「小牧の者たちよ、よく聞け」
武虎の声が、谷底の轟音に負けじと響く。
「我らは小国ゆえ、武田のような巨大な波には抗えぬかもしれぬ。だが、魂まで売った覚えはない。この橋を渡りたくば、お主ら自身の命を置いていけ!」
その言葉に、小牧の兵たちの顔に屈辱と恐怖が混じる。
「射ろ! 矢だ! 遠巻きに仕留めよ!」
後方から小牧の指揮官――義直の重臣であろう男が叫ぶ。数振りの弓が引き絞られ、闇夜を切り裂いて矢が放たれた。
武虎は大太刀を盾のように顔の前に掲げ、最小限の動きで矢を叩き落とす。しかし、一本の矢が彼の左肩を深く貫いた。
武虎の巨躯をわずかに揺らす。
肉を裂き、骨を削る鈍い音が、自身の内側から響く。
だが、武虎はその痛みを、己を鼓舞する火種へと変えた。
「真壁が怯んだぞ! 畳みかけろ!」
手柄を確信した小牧の兵たちが、堰を切ったように橋へと雪崩れ込む。狭い橋上、逃げ場のない密度の槍衾が武虎を襲った。
武虎は大太刀を両手で掲げ、殺到する槍を強引に叩き落とす。
しかし、数の暴力は残酷だった。一人の足軽が放った捨て身の突きが、武虎の右腿を深く抉った。
「ぐっ……!」
膝が折れかけるが、武虎はそれを許さない。寧ろ踏み込み、槍を突き立てたままの足軽の首を、返した大太刀の石突きで粉砕した。
さらに、横から振り下ろされた別の兵の太刀が、武虎の額を斜めに切り裂く。視界が、瞬時に鮮血の帳で遮られた。
「死に急ぐかッ!」
吠えると同時に、武虎は視界を奪われながらも、音と殺気だけで五尺の剛剣を振り下ろした。
それはもはや「斬る」という次元を超えていた。凄まじい風圧とともに落とされた刃は、先頭の足軽を兜ごと真っ二つに割り、その勢いのまま橋の床板を粉砕した。
返した刃で、水平に薙ぐ。
狭い橋の上、回避場所を失った二人の胴が、紙細工のようにまとめて断ち切られた。上半身が宙を舞い、下半身は血を吹き出しながらその場に立ち尽くす。
「化け物……化け物だッ!」
恐怖に駆られた兵たちが次々に槍を突き出すが、武虎はその槍の群れをあえて己の肉体で受け止めた。
脇腹と左腕に新たな刺創が走るが、彼は動じない。むしろ、突き刺さった槍の柄を脇に挟んで固定し、敵が引き抜く隙を与えず一気に間合いを詰めた。
大太刀の平打ちが敵の胴を打ち据え、具足ごと内臓を破砕する。
一振りごとに、一人が死ぬ。
二振りすれば、三人が消える。
武虎の周囲には、瞬く間に凄惨な死体の山が築き上げられた。
大太刀が空を切るたびに、赤い飛沫が霧となって舞い、武虎の全身を漆黒の鮮血で塗りつぶしていく。
自らの血か、敵の血か。もはや判別すらつかぬほどに、彼は赤黒い鬼神と化していた。
「どけい!」
武虎がさらに一歩、前へ。
踏み抜かれた床板が悲鳴を上げ、橋全体が激しく揺れる。
すでに十人以上の小牧兵が、橋の上で物言わぬ肉塊へと変えられていた。流れた血が床板の隙間から滝のように滴り、濁流を赤く染めていく。
「ひ、退け! 一旦退け!」
たまらず後退る敵兵たち。
武虎は追わない。
いや、追うだけの力はもう残っていなかった。
彼は血に濡れた大太刀を杖代わりに、肩を上下させて激しく喘ぐ。
腿の傷が熱い。脇腹の刺し傷から、命が脈動とともにこぼれ落ちていく。
遠のく意識の中で、額の血が目に入り、世界を真っ赤に染め上げる。
肩の傷口から、熱が奪われていく。
意識の輪郭が揺らぎ、激流の轟音が遠のいた。その空白を埋めるように、三十年という、あまりに長く、あまりに短い月日の記憶が蘇る。
あれは大永五年、二人がまだ十代の若武者であった頃だ。
先代の急逝により、若くして家督を継いだばかりの国景と、その遊び相手として育った武虎。二人は小さな山城の裏手で、初陣の泥を落としながら、ひどく酸っぱい密造酒を煽っていた。
「武虎。私は、この領地を広げようとは思わぬ」
月を眺めながら、国景がぽつりと呟いた。周囲の小領主たちが、食うか食われるかの野心に突き動かされていた時代だ。若君の言葉としては、あまりに弱気に聞こえた。
「天下を望まぬと? それでは、いつか強者に飲み込まれるだけにございますぞ」
武虎の問いに、国景は穏やかに首を振った。
「強い国を作るのではない。民が、明日も今日と同じように粥を啜り、笑い合える……そんな当たり前の景色が続く国にしたいのだ。たとえそれが、この信濃の片隅にある、小さな小さな箱庭であったとしてもな」
国景は猪口に残った最後の一滴を飲み干し、武虎の目を見据えた。
「だが、その『当たり前』を守るためには、誰よりも強固な門が要る。武虎……お主のその強さを、私のためにではなく、この小さな安らぎを守る『真の壁』として貸してはくれぬか」
若き日の武虎は、その青臭い理想を笑い飛ばすことができなかった。
主君の掲げる「小さな幸せ」を守るために、己が最強の盾となる。
その日から三十年、二人は文字通り二人三脚で歩んできた。村の凶作に共に頭を抱え、小競り合いになれば武虎が大太刀を振るって敵を追い払い、夜にはあの酸っぱい酒を酌み交わした。
大きな手柄も、歴史に名を残す名誉もない。
ただ、領民たちが静かに暮らせる日々を繋ぎ止めるためだけに捧げた、三十年の忠義であった。
視界が戻る。
目の前には、武田の威を借る小牧の兵たちが、槍を揃えて今まさに踏み出さんとしていた。
「……三十年、一日の如くだったな、殿」
武虎の唇から、ふっと溜息が漏れた。
肩、腹、腿。全身の傷口が、主君と共に歩んだ年月の重みのように熱く疼く。彼は自ら肩の矢を引き抜き、床に捨てた。
「真壁……貴様、なぜ笑う!」
小牧の兵が、死を目前にした男の笑みに戦慄し、叫ぶ。
「笑わずにいられるか。……我ら長谷部主従が三十年守り抜いたものは、お主らのような、魂を売り飛ばした者たちには到底理解できぬ宝よ」
武虎は、己の血でぬめる柄を、握り潰さんばかりの力で握り直した。
五尺の大太刀が、まるで彼の体の一部であるかのように、自然に、そして重々しく正眼に据えられる。
「長谷部家臣、真壁武虎、参る。小牧の犬ども、地獄への土産を揃えておけ!」
踏み込んだ一歩が、橋を、空気を、そして敵の心胆を激しく揺らした。
怒号とともに、小牧の槍兵たちが一斉に突き出した。
それは武虎の全身を刺し貫かんとする、死の針鼠である。だが、武虎はそれを躱そうとはしなかった。
「ぬぅおおおおおっ!」
彼は大太刀を盾として顔の前に立て、そのまま真っ向から槍の林へと身を投じた。肉を穿つ鈍い音が重なり、数筋の槍先が武虎の肩、脇腹、そして既に傷ついた右腿を再び貫く。
だが、武虎の進撃は止まらない。突き刺さった槍を筋肉の収縮だけで強引に固定し、逃げようとする兵たちの自由を奪った。
「槍を……槍を引けぬ! なんだ、この力は!」
兵たちが顔を青ざめ、必死に槍の柄を引く。だが、武虎の体はもはやただの肉体ではない。主君を守るためだけに鍛え抜かれた、文字通りの真の壁であった。
「この程度で、長谷部の重みを支え切れると思うたか!」
武虎は大太刀を大きく横に薙いだ。槍に繋ぎ止められた敵兵たちもろとも、五尺の鋼が空を裂く。
欄干ごと吹き飛ばされた兵たちが、絶叫と共に谷底へ消えていく。その衝撃で武虎の傷口はさらに深く開き、血が噴水のように溢れ出した。
「射ろッ! 一人も残さず、矢を浴びせよ!」
指揮官の鋭い号令とともに、対岸に並んだ弓兵たちが一斉に弦を放った。空を切り裂く不吉な音が、天霧渓谷の轟音を塗りつぶす。
「……っ!」
武虎は大太刀を振るい、数本の矢を叩き落とした。だが、限界を超えた体は、疾風のごとき矢の雨をすべて防ぎきることは叶わない。一本、また一本と、黒い羽根の矢が武虎の肉を穿つ。
容赦なく降り注ぐ矢は、武虎の全身を隙間なく埋め尽くし、その羽織を針鼠のように変えていく。一本刺さるごとに衝撃が走り、武虎の足元がわずかに揺れたが、彼は決して膝を突こうとはしなかった。
もはや、死んでいるも同然の深手である。肺は破れ、息をするたびに赤い飛沫が口から溢れる。右目の視界は額からの血で完全に塞がり、左目だけが、執念の灯火を宿して敵を睨みつけていた。
しかし、彼が再び正眼に構えると、小牧の残兵たちは一歩も前に出られなくなった。
彼らの目に映っているのは、もはや人間ではなかった。
全身に矢を突き立て、数カ所を槍で貫かれながら、微動だにせず道を塞ぐ鬼神。
一振りごとに橋が軋み、その気迫だけで空気が震える。
「……来い。まだ、足りぬ」
武虎が、一歩、踏み出す。
床板が粉砕され、その震動が敵兵たちの足裏にまで伝わる。
「ひっ……!」
誰かが恐怖に耐えかねて悲鳴を上げ、槍を捨てて逃げ出した。それが引き金となり、精強を誇った小牧の兵たちが、一人の瀕死の男に圧倒され、次々と後ずさっていく。
武虎の足元には、山のように亡骸が積み重なっていた。それは、彼が三十年かけて守ろうとした「小さな幸せ」を奪おうとする者たちの末路である。
大太刀の刃はもはや数多の骨を断ってボロボロに欠け、血と脂で厚く覆われていた。だが、その重みこそが、彼がこの地で生きてきた証であった。
小牧の兵たちが、恐怖に震えながら後退る。
その中心で、真壁武虎はもう、何も見ていなかった。
深い闇の中、ただ一点、温かな光だけが揺れている。
それは三十年前、主君、国景と初めて酌み交わした、あの社の縁側の灯火であった。
(殿。あの酸い酒、次は拙者が用意しておきましょう。……語るべき土産話を、それまでたくさん、溜めておいてくだされ)
武虎は、薄れゆく意識の中で、自らの掌に残る感覚を確かめた。血に塗れ、感覚を失った指先。だがそこには、確かにあの夜、国景から手渡された冷たい猪口の感触が残っていた。
三十年前、何も持たぬ若造だった自分に、国景は「壁になってくれ」と言った。その一言だけで、武虎の人生は、ただの暴れ虎から「守り人」へと変わったのだ。
武虎の口角が、微かに、本当に微かに上がった。
それが、彼がこの世に残した最後の、そして最も穏やかな表情であった。
それから、どれほどの時間が流れただろうか。
対岸の敵陣からは、誰一人として橋へ踏み込もうとする者はいなかった。
風が吹き抜け、武虎のボロボロになった陣羽織を揺らす。だが、彼の巨躯は、一分の揺らぎもなくそこに在り続けた。
やがて、痺れを切らした小牧の一将が、震える声で命じた。
「射ろ……。矢を放て!」
放たれた一筋の矢が、武虎の胸に突き刺さる。だが、男は微動だにしない。
「もう一射!」
二の矢、三の矢がその身を穿つ。それでも、武虎は巌の如く立ち続け、虚空を睨みつけている。
「ま、まさか……」
一人の兵が、恐る恐る橋へ足を踏み入れた。息を殺し、死体の山を越え、武虎の目前までたどり着く。兵が槍の先で、男の肩を軽く突いた。
武虎の体は、倒れなかった。
ただ、その場に根を張ったかのように、垂直に立ったまま、びくりとも動かない。その顔は、返り血と泥にまみれながらも、どこか満足げに、微かな微笑を浮かべているようにも見えた。
「……死んでいる」
兵の声が、静まり返った渓谷に響き渡った。
「真壁は、死んでいるぞ…! た、立ったまま……死んでいる!」
その叫びは、歓喜ではなく、畏怖として小牧の軍勢に広がった。
男は、死してなお、その魂をもって道を塞ぎ続けていた。
小牧の兵たちは、結局その夜、誰一人としてその橋を渡ることはできなかった。目の前の死者が放つ、凄まじい「忠義」という名の圧に、彼らの心は完全にへし折られていた。
翌朝。
天霧渓谷を深い霧が包み込む中、橋の上には依然として、一本の槍のように直立する男の姿があった。
真壁武虎。
長谷部家、最後の壁。
彼が守り抜いた時間は、主君を遠く安全な地へと逃がすに十分すぎるものであった。
――同じ頃、渓谷を抜けた先にある国境の峠。
逃げ延びた長谷部国景は、朝日を浴びる山脈を、馬の上で独り見つめていた。
「……武虎」
国景は、懐から小さな竹筒を取り出した。
中に入っているのは、昨日、村の民から譲り受けた、あの安っぽい酸っぱい酒だ。
「先に行って、良い席を確保しておく……か。お主らしい、無愛想な約束だ」
国景は竹筒の栓を抜き、一口、喉に流し込んだ。
鼻を抜ける米の香りと、舌を刺すような鋭い酸味。三十年前と、何一つ変わらぬ味だった。
だが、隣にその味を共に口にし、「ひどい酒ですな」と笑う男は、もういない。
国景の目から、一筋の涙が溢れ、酒に混じって土に落ちた。
「……ああ、酸い。あまりに、酸いではないか……武虎」
主君は、声にならぬ嗚咽を漏らしながら、誰もいない隣の空間に向かって竹筒を差し出した。
朝日が、主君の影を長く地面に引く。
その影の隣には、かつては当たり前のように寄り添っていた、もう一つの大きな影が欠けていた。
「……」
ふと、谷底から吹き上げた風が、国景の耳元で小さく笹鳴きを立てた。
まるで、あの無骨な男が「極楽の酒は、もっと旨うございますよ」と、不器用に笑いかけてきたかのように。
その温かな幻に手を伸ばせぬまま、国景はただ、冷えゆく竹筒を、強く、強く握りしめた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




