覇王の病床
魔法障壁が砕かれた衝撃で、王宮は蜂の巣をつついたような大混乱に陥っていました。
「アージェント軍が城門を突破したぞ!」
「馬車を回せ! 財宝を積めるだけ積むのだ!」
先ほどまで「ヴァーミリオンの栄華」を謳っていた貴族たちは、我先にと逃げ惑う鼠のように、醜く叫びながら廊下を駆けていきます。 彼らが落としたワイングラスや宝石が、誰かの靴底に踏み砕かれ、ジャリジャリと悲鳴を上げていました。
足元の石畳は、逃げ惑う人々の脂汗と、零れ落ちた高価な香油が混ざり合い、ぬらぬらと黒光りしていました。
壁に嵌め込まれた魔導ランプは、供給過多に耐えきれず次々と破裂し、そのたびに硝子の破片が宝石の雨のように、阿鼻叫喚の渦へと降り注ぎます。
これまで世界を魅了してきた白亜の柱も、今は煤に汚れ、崩れ落ちたタペストリーが血を吸ったように赤黒く燃えていました。
栄華を極めた装飾のすべてが、逃亡を阻むただの障害物へと成り下がっていく。その光景は、二十数年わたるヴァーミリオンの欺瞞が、剥き出しの真実へと回帰していく瞬間でした。
私はルシアン王子を抱いたテオドラ王妃様を守るようにして、バルバロッサ大公の居室がある「赤竜の間」へと急ぎました。 しかし、その部屋に近づくにつれ、異様な感覚に襲われました。
(……熱い)
真夏の昼下がりよりも遥かに激しい、肌を焦がすような熱気が、廊下の向こうから押し寄せてくるのです。 壁に掛けられたタペストリーが、熱風で揺らめいています。 すれ違った侍医たちが、顔面蒼白で、逃げるように走り去っていくのが見えました。
「……来てはなりません! 大公閣下は、もう……!」
侍医の叫びを無視して、テオドラ様は重厚な扉を押し開けました。 その瞬間、腐ったような蒸気が顔に吹き付け、私は思わず目を細めました。
部屋の中は、地獄の窯のようでした。 豪奢な天蓋付きのベッドの中央で、巨獣のような男がのた打ち回っています。
ヴァーミリオン帝国の覇王、バルバロッサ大公。 かつて海神をねじ伏せ、世界を手中に収めた英雄。
その屈強な肉体が、今はまるで熟れたザクロのように赤く腫れ上がり、皮膚の下で血管がドクドクと不気味に脈打っていました。
部屋の空気は、吸い込むたびに肺が内側から焼けつくような、異常な密度を増していました。
大公の咆哮が響くたび、装飾の金の縁取りが熱で溶け出し、床にどろりとした涙となって滴り落ちます。
それはもはや病の熱などではなく、この一族が奪い続けてきた数多の魂が、復讐の業火となって主を食らい尽くそうとしている凄絶な光景でした。
私の魔眼には、大公の全身から立ち上る魔力が、実体を持った真っ赤な触手のようにのたうち回り、周囲の空間そのものを歪めているのが見て取れました。
「水だ……! 水を持ってこい! この火を消せェェッ!!」
大公の咆哮は、雷鳴のように部屋を震わせました。 数人の従者たちが、氷を浮かべた冷水をたらいで運び込み、大公の体に浴びせかけます。 しかし、信じられないことが起こりました。 ジュッ、と激しい音がして、水が肌に触れた瞬間に沸騰し、白煙となって蒸発してしまったのです。
「ああ、なんという……」
それは病ではありませんでした。 これは「契約の代償」。 障壁が破られ、海神の力が制御を失った今、盗み出した魔力のすべてが「業火」となって、大公の肉体を内側から焼き尽くそうとしているのです。 人間の身で神の力を弄んだ者への、過酷すぎる罰。
「……お父様」
テオドラ様が、熱気の中を静かに歩み寄りました。 彼女の周囲だけ、空気が冷たく張り詰めています。 生まれつき体温を持たない氷の娘と、業火に焼かれる炎の父。 あまりにも皮肉な対比でした。
バルバロッサ大公は、充血した目で娘を見上げました。 その瞳には、痛みによる狂気と、それでも消えない強烈な「自我」が燃え盛っていました。
「テオ……ドラか……。見ろ、このザマを……!」
大公は、自身の焼け爛れた腕を空中に突き上げ、笑いました。 それは、神への降伏ではなく、挑戦的な哄笑でした。
「海神め……、私を焼くか! だが、私の魂までは奪えんぞ! 私は奪い取ったのだ……人間が、ただ祈るだけでなく、自らの手で運命を切り開くための力を!」
熱に浮かされながらも叫ぶその姿は、あまりにも傲慢で、そして恐ろしいほどに荘厳でした。 彼は知っていたのです。最初から、自分がこうなることを。 地獄の炎に焼かれる苦しみと引き換えに、彼は一族に「一瞬の栄華」という夢を見せたのです。
「……ええ。存じております、お父様」
テオドラ様は、父の熱い額に、そっと自分の冷たい手を重ねました。
父の熱を吸い取らんとするその指先からは、瞬時に不気味な青白い蒸気が立ち上りました。
氷の魔力と業火がぶつかり合う境界線から、パチパチと硝子が割れるような高い音が響き、テオドラ様の肌には、熱による火傷が瞬く間に広がっていきます。
けれど、彼女の瞳には慈愛などではなく、ただ己と同じ呪いを持って生まれた者への、冷徹なまでの共感だけが宿っていました。
熱に浮かされる覇王の意識に、彼女の絶対的な零度が、死という名の安らぎを無理やり刻み込んでいくようでした。
テオドラ様は、父の熱い額に、そっと自分の冷たい手を重ねました。 ジュウ、と皮膚が焼ける音がしましたが、彼女は眉一つ動かしませんでした。
「あなたの夢は、終わりました。……船を出しましょう」
「船……?」
「都を捨てます。海へ逃げましょう。……海神が待つ、西の果てへ」
「海へ……海へ還るというのか……!」
大公の喉から、獣のような唸り声が漏れました。 それは悔しさのようでもあり、安堵のようでもありました。 やがて、極限の苦痛が意識を奪ったのか、大公の巨体がガクリと崩れ落ちました。 気絶してもなお、その体は高熱を発し続け、周囲の空気を歪めています。
「……オクタヴィア様」
テオドラ様が呼ぶと、部屋の影から、一人の初老の女性が現れました。 バルバロッサ大公の正妻であり、一族の裏を取り仕切る鉄の女帝、オクタヴィア大公妃です。 彼女は動じることなく、倒れた夫を一瞥すると、低い声で命じました。
「近衛兵を呼びなさい。閣下を担架へ。 これより、全軍撤退を開始します。港へ急ぎなさい」
その声には、微塵の湿っぽさもありませんでした。 夫が倒れた今、彼女こそがこの崩れゆく帝国の舵取りなのです。
窓の外では、アージェント軍の放った火矢が、帝都のあちこちで赤い火柱を上げていました。 かつて黄金と称えられた都が、本当の炎に包まれていきます。
私はルシアン王子を背負い直しました。 背中の温かさだけが、今の私にとって唯一の現実でした。 さようなら、アウレリア。 二度と戻ることのない、私たちの美しい牢獄。
私たちは業火の王を担ぎ、燃え盛る都を背に、逃げるように港へと走り出しました。




