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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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崩れゆく均衡

ユリウスとの密会から三日が過ぎた頃には、私の「目」に映る帝都アウレリアは、もはや原形を留めていませんでした。



空を覆う雲は、鉛色からドブのような土気へと変わり、そこから降り注ぐ見えない「黒い霧」が、宮殿の柱といわず、廊下といわず、べっとりとタールのように張り付いていたのです。 それは、ヴァーミリオン一族が長年溜め込んできた「業」が、一気に溢れ出したかのようでした。




けれど、恐ろしいことに、城内の貴族たちはその異変に気づいていないふりをしていました。 いいえ、気づいているからこそ、狂ったように享楽に耽っていたのでしょう。



「さあ、飲み干しましょう! ヴァーミリオンの栄華は永遠ですもの!」


「敵軍が国境を越えたなど、デマに決まっておりますとも!」



大広間では、昼夜を問わず宴が開かれていました。 腐りかけの果実のような甘ったるい香水の匂いと、耳障りな高笑い。


彼らは、迫りくる「白銀の軍勢」の蹄の音をかき消すために、必死でグラスを鳴らし、床を踏み鳴らして踊り続けているのです。


その姿は、沈みゆく船の上で、必死に舞踏会を演じる道化師の群れのように見えました。


踏み鳴らされるステップは、もはや祝祭の鼓動ではなく、自分たちを呑み込もうとする奈落を必死に踏み固める足掻きのようでした。


グラスの中の紅いワインは、照明の下でどろりと黒ずんで見え、注がれるたびに誰かの死を宣告する血飛沫のように跳ねます。


彼らの瞳は一様に虚ろで、誰一人として隣で踊る者の顔など見ていません。


ただ、背後に迫る死神の影から目を逸らすためだけに、狂ったように笑い声を張り上げているのです。


その音響の渦は、宮殿の重厚な石壁さえも内部から蝕んでいく、末期的な不協和音でした。



私は吐き気をこらえ、奥御殿にある「真珠の間」へと向かいました。 そこは、この濁りきった城の中で唯一、清浄な空気が残された場所でした。



「失礼いたします。セシリアです」


返事はありません。私は静かに扉を開けました。 部屋の中は薄暗く、海の底のような湿った空気が漂っていました。 広い部屋の中央に置かれた豪奢な揺り籠。 そこに、この国の第一王子、ルシアン様が眠っていました。



「……うぅ……あぅ……」


ルシアン様は、まだ生後数ヶ月の赤子でした。 けれど、その体は不自然なほど小さく、肌は透き通るように青白いものでした。 時折、苦しげに顔をしかめて身じろぎをするたびに、産着の下から覗く手足に、微かな「銀色の鱗」のようなものが光って見えました。



医師たちは「奇病」と呼びましたが、城の人間は陰でこう囁いています。 これは病気ではない。海神の呪い――あるいは「海神の子」である証拠だと。


指先でそっと触れた小さな頬は、赤子特有の柔らかさを持たず、冷えた大理石のような硬い静謐を纏っていました。


産着の隙間から這い出す銀の鱗は、部屋の湿った空気を吸って、呼吸をするたびに不気味な燐光を放っています。


私の「目」には、その小さな体から無数の青白い触手が伸び、この部屋そのものを海底の檻へと変質させている光景が映し出されていました。


人であることをやめ、深淵の眷属へと作り替えられていく無垢な命。


その残酷な美しさに、私は吐息さえ凍りつくような戦慄を覚えました。



あどけない寝顔を見ていると、胸が締め付けられます。 この小さな命は、何も知らないまま、父王からは「化け物」と疎まれ、母である王妃様からは「贖罪の道具」として愛されている。 彼に罪はないのに、その血に流れる運命だけが、あまりにも重すぎるのです。



私はそっと揺り籠を揺らし、乱れた毛布を掛け直しました。 どうか、夢の中だけでは、ただの子供でいられますように。



「……セシリア、来たのね」


窓辺のロッキングチェアで、テオドラ様が編み物をしながら顔を上げました。 その手にあるのは、ルシアン様のための小さなチョッキです。 鮮やかな赤色の毛糸。 しかし、その赤色は「ヴァーミリオンの赤(権力)」ではなく、子の体温を守ろうとする「母の血の赤(愛)」に見えました。



「テオドラ様。……外は、もう限界です」



私が声を潜めて告げると、テオドラ様は静かに編み棒を止めました。 その深海色の瞳は、すべてを悟っていました。



「ええ、聞こえるわ。……『膜』が裂ける音が」


王妃様がそう呟いた、その時でした。


パリーンッ――!!



城内のガラスというガラスが、一斉に微細な悲鳴を上げました。 シャンデリアが揺れ、飾られていた花瓶が床に落ちて砕け散ります。 地震ではありません。 もっと根源的な、世界の「殻」が割れたような、耳ではなく魂に響く破砕音。


帝都アウレリアを百年にわたって守り続けてきた、海神の魔力による不可視の防御障壁。 それが今、外部からの強大な力――アージェント王国の魔法攻撃によって、粉々に打ち砕かれたのです。



「きゃあああっ!」 「な、なんだ!?」



遠くの大広間から、貴族たちの悲鳴が聞こえてきました。 窓の外を見ると、空の色が一変していました。 どんよりとした曇り空が裂け、そこからギラギラとした「白銀の光」が差し込んできたのです。 それは希望の光ではなく、冷酷な裁きの光でした。



それは、帝国の欺瞞という名の皮を剥ぎ取り、剥き出しの真実を突きつける剥奪の光でもありました。


これまで帝都を包んでいた熱っぽい腐臭は、一瞬にして冷酷な冬の風にかき消され、代わりにあらゆる命を凍てつかせる「白銀の殺気」が満ち溢れます。


障壁が砕け散った残骸は、粉々になった星の破片のように空を舞い、宮殿の赤い屋根を嘲笑うように白く染めていきました。


祈りも、呪いも、もう届かない。ただ物理的な破壊と蹂躙だけが、平等に降り注ごうとしているのです。



「……来たわ」


テオドラ様は立ち上がり、ルシアン様を強く抱きしめました。


「セシリア。支度なさい。崩壊が始まるわ」



その声は震えていませんでした。 むしろ、長い間待ちわびていた処刑の刻がようやく訪れたことに、安堵しているかのようでした。



ドォォォォン……!


遠くの城壁が崩れる重低音が、腹の底に響きます。 ユリウスの言葉通り、嵐が到達したのです。




私は震える手で、テオドラ様の旅装束となる、分厚い外套を櫃から取り出しました。 華やかなドレスはもう必要ありません。 これから始まるのは、泥と血にまみれた、地獄への逃避行なのですから。



部屋の隅で、テオドラ様の化粧台が、衝撃で横倒しになっていました。 それはまるで、これからヴァーミリオン一族が辿る運命を暗示しているようでした。


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