運命の抜け穴
ジークムント卿の死から三日が過ぎても、帝都を覆う鉛色の雲は晴れませんでした。 ヴァーミリオン宮殿の空気は、腐った水のように澱みきっていました。
使用人たちは怯え、貴族たちは我先にと財産を隠し始め、バルバロッサ大公の怒鳴り声だけが雷鳴のように響く日々。
(……息が、できない)
深夜。 私は、眠れぬままベッドを抜け出しました。
侍女の制服ではなく、目立たない濃紺の外套を羽織り、私は城の裏門にある「使用人用の通用口」をくぐりました。
行き先などありません。ただ、この巨大な墓標のような城から、一時でも離れたかったのです。
帝都アウレリアの夜の街は、かつての輝きを失い、ゴーストタウンのように静まり返っていました。 水路沿いの石畳を、私は逃げるように歩きました。 湿った夜風が頬を打ちますが、それさえも生暖かく、不快な藻の匂いがします。
水路には、かつての繁栄の残滓である魔導重油が虹色の膜を張って浮き、それが月光を浴びて、死んだ魚の鱗のように不気味にぎらついていました。
橋の袂にあるガス灯は、魔力の供給が不安定なのか、不規則に瞬いては、断末魔のような低い唸り声を上げています。
街全体が、主を失った広大な空き部屋のように、冷え冷えとした虚無感に浸食されていました。
これまで当たり前に吸っていた空気が、今夜はひどく重く、肺の奥に黒い澱を沈めていくような錯覚に陥ります。
「……どこへ行けばいいの」
橋の欄干に手をかけ、私は暗い水面を見下ろしました。 私の「目」には、水面に映る自分の顔さえ、黒い霧に侵食されているように見えます。 もう、逃げ場はないのかもしれない。 そう絶望しかけた、その時でした。
ヒュッ――
鋭い音が鼓膜を掠め、不意に、私のフードがふわりと捲られました。 藻の匂いでも、薔薇の香りでもない。
冷たく、澄み切った、冬の針葉樹林のような匂い。
「――こんな夜更けに、不用心な娘だ」
心臓が跳ね上がりました。 振り返ると、ガス灯の頼りない光の中に、彼が立っていました。 あの夜と同じ、銀の仮面。 けれど、その立ち姿から発せられる「銀色の風」は、あの夜よりもさらに鋭く、私の肌を刺しました。
「ユリウス……!」
「また会ったな。悲しき目のセシリア」
彼は音もなく私との距離を詰めると、驚くほど自然な動作で、私の目の縁を指先でなぞりました。 革手袋の感触。
敵国の騎士であるはずなのに、なぜ彼のそばにいると、こんなにも呼吸が楽になるのでしょう。 彼が纏う風が、私にまとわりつく帝国の穢れを、すべて吹き飛ばしてくれるような気がするのです。
「ひどい顔だ。……あの城の毒気にあてられたか」
「ええ……。城も、街も、腐りかけています。あの方――ジークムント卿が亡くなられてから」
私が震える声で答えると、ユリウスは仮面の下で小さく舌打ちをしました。
「やはり、あの男が最後の支柱だったか。……ならば、崩落は近いぞ」
「崩落……?」
「俺たちの軍が動く」
彼は淡々と、恐ろしい事実を告げました。
「アージェント王国の『白銀騎士団』が、国境を越えた。 数日中に、この帝都を取り囲む魔法障壁を砕く。……戦争が始まるんだ」
私は息を呑みました。 分かっていたはずです。彼が敵国の人間であり、この国を滅ぼしに来た死神だということは。
けれど、こうして目の前にいる彼は、破壊者とは思えないほど静かで、悲しい色をしていました。
「……なぜ、私にそんなことを教えるのですか。私は敵側の人間ですよ」
「敵、か」
ユリウスは自嘲気味に笑うと、ゆっくりと仮面に手をかけました。 カチャリ、と留め金が外れる音がして、銀の狼の顔が取り払われます。
露わになったその素顔を見て、私は言葉を失いました。 整った顔立ちですが、その瞳はガラス細工のように冷たく、そして今にも壊れそうなほど「孤独」だったからです。
その瞳は、北国の凍てついた湖底のように透き通り、それでいて、あまりにも速い時間を生きる者特有の、刹那的な熱を宿していました。
彼を取り巻く空気は、この重苦しい帝都の理を切り裂き、そこだけが別世界の透明な真空と化しているかのよう。
風の精霊に魂を削り取られながらも、高潔に、そして残酷に自由であろうとする彼の生き様が、その整った輪郭に深く、静かな影を落としていました。
その美しさは、私にとっての救いであると同時に、決して手に入らないものへの絶望そのものでした。
風の精霊と契約し、人ならざる速さを得た代償。 誰よりも速く動けるがゆえに、誰とも同じ時間を生きられない男の孤独。
「俺には見えるんだ。あんたの魂が、あの腐った赤色に染まりきっていないことが」
彼は仮面を持たない手で、私の手を強く握り締めました。 痛いほどに。
「セシリア。今度こそ俺の手を取れ。 戦が始まれば、俺はもう『ただの男』ではいられない。破壊の風となって、あんたの大切な城も、主君も、すべてを薙ぎ払わなけりゃならない」
「ユリウス……」
「俺は、あんたを殺したくない。……あんただけは」
彼の瞳の奥に、揺らめく炎が見えました。 それは敵への憎しみではなく、一人の女性への、不器用で激しい渇望でした。 彼の冷たい風の中に、微かな熱がある。 その熱に触れたくて、私は吸い寄せられるように彼に身を寄せました。
世界が灰色に見える私の魔眼の中で、彼だけが、鮮烈な「銀」と「青」の光を放っていました。 もし今、彼の手を取って逃げ出せば、私はこの窒息しそうな運命から解放されるでしょう。 けれど。
私の脳裏に、テオドラ王妃様の冷たい背中が浮かびました。 あの背中に刻まれた赤いコルセットの跡。 私がいなくなれば、誰があの方の孤独な夜を温めるのでしょう。
私は泣きそうな顔で笑い、彼の手をそっと押し返しました。
「……いいえ。行けません」
「なぜだ! 一緒に沈むつもりか!」
「私は、あの『冷たい方』のたった一人の共犯者ですから」
私の答えに、ユリウスは悔しげに顔を歪めました。 けれど、彼は無理に私を連れ去ろうとはしませんでした。 彼もまた、祖国と部下を背負う「騎士」だからこそ、私の愚かな忠誠心を理解してしまったのでしょう。
「……そうか。そこまでの覚悟か」
彼は寂しげに目を伏せ、再び仮面を装着しました。 その瞬間、彼の纏う空気が、私の知る「ただの男」から、冷徹な「黒騎士」へと変わりました。
「次に会う時は、戦場だ。 ……その時はもう、手加減はできない」
「はい。覚悟しております」
私たちが交わしたのは、愛の言葉よりも重い、決別の誓いでした。
一陣のつむじ風が巻き起こり、私は思わず目を閉じました。 次に目を開けた時、そこにはもう誰の姿もありませんでした。 ただ、私の掌に、彼の革手袋の体温と、一輪の「白い百合」が残されていました。 それは、彼が去り際に魔法で作り出した、敵国の花。
掌の中の百合は、真冬の空気から直接結晶化したかのように冷たく、けれど確かに生きた花の瑞々しい芳香を放っていました。
赤を崇めるこの帝国で、最も忌むべきとされる白、そして敵国の国花。
それは彼からの、言葉にできない救済の拒絶と、それでも変わらぬ情愛の証に他なりません。私がその茎を強く握りしめると、指先から伝わる微かな震えが、私の心臓の鼓動と重なり、消えない痛みとなって刻まれました。
「……さようなら、私の嵐」
私はその花を外套の懐に隠し、夜明け前の闇の中、死の匂いが充満する城へと戻りました。 これが、私たちが「人間として」交わした、最後の会話になると予感しながら。




