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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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憂いの騎士と、消えゆく灯火

テオドラ王妃様が「夢違」の香によって深い眠りにつかれたのを見届け、私は朝の光が差し込む回廊に出ました。



徹夜明けの身体は鉛のように重いのですが、神経だけが妙に研ぎ澄まされ、眠気はありませんでした。


網膜に焼き付いた昨夜の残像が、朝日の中で痛々しく明滅しています。


バルバロッサ大公が誇示した黄金の栄華、それに酔いしれる貴族たちの醜悪な嬌声。


それらすべてが、夜が明ければただの燃えカスに過ぎないのだと思い知らされるような、無慈悲な白日の光でした。


掃き清められる花びらの一枚一枚が、誰かの使い捨てられたプライドのように見えて、私はたまらず視線を逸らしました。


贅を尽くした宴のあとの空気には、使い果たされた魔力の残滓が、焦げ付いた嫌な匂いとなって鼻腔にこびりついていました。



王宮の中庭は、昨夜の狂乱が嘘のように静まり返っています。


ただ、掃除をする使用人たちが、散らばった無数のワインボトルや、踏み潰された薔薇の花を黙々と片付けている音だけが響いていました。


その光景は、祭りの終わりというよりは、戦場の跡地のように荒涼として見えました。




心を落ち着かせるために、私は王宮の西の翼にある礼拝堂へと向かいました。


そこは、ヴァーミリオン一族が信仰する「聖光教会」の祈りの場ですが、傲慢なバルバロッサ大公や、享楽にふける他の貴族たちが訪れることはまずありません。



けれど、今日、その重厚な扉はわずかに開かれていました。 ステンドグラスを通した七色の光の中に、一人の男性がいていました。



「……ジークムント卿」


私が思わず名を呼ぶと、祈りを捧げていた背中がゆっくりと振り返りました。


ジークムント・ヴァーミリオン。 バルバロッサ大公の長男であり、近衛騎士団長を務める方。 好戦的で派手好きな一族の中にあって、彼だけは常に質素な修道服のような軍服を纏い、信仰心篤く、そして誰よりも「憂い」を帯びていました。



「セシリアか。……テオドラは、眠れただろうか」


ジークムント卿の声は、枯れた木々を揺らす風のように穏やかでしたが、どこか力がありませんでした。


「はい。……少し、お薬の力を借りましたが」


「そうか。あの娘には、この城の空気は毒でしかないだろうからな」



卿は自嘲気味に微笑み、立ち上がろうとしました。 その瞬間、ぐらりと身体が傾きました。


「ジークムント卿!」



私は慌てて駆け寄り、そのお身体を支えました。 軍服越しに触れた腕は、驚くほど細く、そして燃えるように熱かったのです。


その熱は、単なる病魔のものではありませんでした。ヴァーミリオン一族が略奪と殺戮によって積み上げてきた「業」そのものが、純粋すぎる彼の魂を燃料として、内側から焼き尽くしている――。


そんな確信を抱かせる、暴力的なほどの熱量。


テオドラ様が海に魂を凍らされているのなら、この方は一族の犯した罪という炎に、その身を捧げる供物として焼かれている。


触れているだけで私の指先まで焦げてしまいそうな、あまりにも切実で、一方的な犠牲の形がそこにありました。



テオドラ様が「氷」なら、この方は「炎」。 父君バルバロッサ大公と同じ「業火の呪い」が、この高潔な騎士の身体を内側から蝕んでいるのが分かりました。



「……すまない。少し、眩暈がしただけだ」



卿は私の手を借りてベンチに座ると、荒い息を整えました。 私は見てしまいました。彼が口元を拭った白いハンカチに、鮮やかな、あまりにも鮮やかな血の花が咲いているのを。



そして何より、私の「魔眼」が捉えた光景に、私は息を呑みました。


ジークムント卿の背後には、もはや「黒い」どころではない、濃密な漆黒の闇が、巨大な翼のように覆いかぶさっていたのです。 死神が、もうすぐそこまで鎌を振り上げている。 その「死の色」は、昨夜見たどの貴族たちよりも濃く、確定的でした。


ステンドグラスが床に落とす極彩色の光さえも、彼を覆う濃密な死の闇を隠すことはできませんでした。


漆黒の翼は、いまや礼拝堂の天井を覆い尽くさんばかりに広がり、その冷ややかな静寂が、卿の激しい呼吸音だけを際立たせています。


まるで底なしの沼が口を開け、この高潔な騎士を静かに、けれど確実に引きずり込もうとしている。


私はその圧倒的な「終焉」の気配を前にして、祈る言葉さえ忘れて立ち尽くすしかありませんでした。



「……セシリア。君には見えているのだろう? 私の寿命が」



卿は、私の視線の先にあるものを悟ったように、静かに問いかけました。 嘘をつくことはできませんでした。私は唇を噛み締め、小さく頷きました。


「……はい。……あまりにも、色が濃すぎます」


「そうか。やはり、もう時間がないか」


ジークムント卿は、恐怖するどころか、どこか安堵したように天を仰ぎました。



「父上は、神から力を奪い、この国を黄金に変えようとした。だが、光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。その影を一心に背負うのが、長男である私の役目だったのだろう」



彼は一族の罪深さを誰よりも理解し、父の暴走を諌め、民の怨を受け止めてきた、唯一の「良心」でした。


アウレリア王国がまだ崩壊せずに形を保っていられるのは、この方が身を粉にして「防波堤」となっていたからです。 そのが今、決壊しようとしている。



「セシリア。君に頼みがある」


ジークムント卿が、熱っぽい手で私の手を握り締めました。 その瞳には、切実な願いが宿っていました。


「私が逝けば、この国はタガが外れ、真っ逆さまに闇へ落ちるだろう。父上も、弟のトリスタンたちも、もう誰にも止められない。  ……その時が来たら、テオドラを連れて逃げてくれ」


「逃げる……? いえ、私は」


「海の底へではない」



卿は強い口調で遮りました。


「テオドラが生贄になる運命など、私は認めない。あの子は、ただの心優しい妹だ。  セシリア、君ならあの子の『人間としての心』を守れるはずだ。どうか、一族の狂気から、あの子を救い出してやってほしい」



それは、滅びゆく家の長兄としての、最期の遺言でした。 私は涙が溢れそうになるのをこらえ、その手を握り返しました。



「……お約束いたします。私の命に代えても、テオドラ様をお守りします」


「ありがとう。……これで、安心して逝ける」



ジークムント卿は、ふっと憑き物が落ちたように微笑みました。 その笑顔は、病み衰えた顔立ちの中でも、聖人のように美しく輝いて見えました。


そのとき、私はジークムント卿と言葉を交わしたときのことを思い出しました。


彼がまだ騎士団長として職務に当たっていた頃、私が執務室へ届け物をした際のことです。


部屋に入ると、ジークムント様は一人で、属国から献上された黄金の林檎をナイフで剥いていらっしゃいました。


「食べないか、セシリア。……私には、何を食べても灰の味しかしないんだ」


差し出された一切れを口にすると、それは驚くほど甘く、蜜の味がしました。


けれど、彼が口にするその林檎には、一族の罪を焼き尽くす「業火」の熱で、すべてが炭に変わって見えているのでしょう。


「この甘さは、誰かの涙から搾り取ったものだ。……私には、それが痛くてたまらない」


彼はそう言って悲しげに微笑み、剥いたばかりの黄金の果実を、ゴミ箱へ静かに捨てました。


彼の聖性は、腐りきったこの宮廷では、それ自体が狂気の一部に見えたことを覚えています。



礼拝堂の鐘が、朝の到来を告げました。 それは、新しい一日の始まりであると同時に、アウレリア王国の「終わりの始まり」を告げる弔鐘のように、私の耳には響きました。




この日から数日と経たずして、ジークムント卿は危篤に陥ります。


そして、一族の誰もが予期せぬ速さで、その高潔な魂は天へと召されていきました。 私の「目」が見た通り、帝都を覆っていた最後の「光」が消え、本当の闇が、音を立てて押し寄せようとしていたのです。






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