氷の王妃の秘密
熱に浮かされたような仮面舞踏会が終わり、帝都アウレリアにようやく静寂が戻ってきました。
広間を埋め尽くしていた貴族たちは、酩酊と狂乱の余韻を引きずりながら、それぞれの屋敷へ帰っていきました。
彼らが去った後の床には、踏みしだかれた無数の薔薇の花びらが、まるで血痕のように散らばっています。
廊下の曲がり角で風が吹くたび、彼女の銀髪が私の頬を掠めますが、それは絹糸というよりも冷たい水に触れたような感触でした。
栄華の絶頂にあるはずの宮殿は、祝祭の余韻を飲み込み、今や巨大な氷の棺桶のように私たちを包み込んでいました。
私は、テオドラ王妃様の手を取り、長い回廊を歩いていました。 祭りの後の空気は、いつも澱んでいて重苦しい。
けれど、私の腕に預けられた王妃様のお体は、羽毛のように軽く、そして恐ろしいほどに冷え切っていました。
「……セシリア。あの曲、少しテンポが早すぎたわね」
「はい。楽団も、大公閣下の熱気に当てられてしまったのでしょう」
テオドラ様は小さく微笑まれましたが、その唇は紫色に震えていました。
今夜の主役であったバルバロッサ大公――王妃様の実の父君は、まるで全身から業火を発しているかのような凄まじい活力で、朝まで踊り続けていました。
父は燃える太陽のように熱く、娘は深海のように冷たい。 このヴァーミリオン一族の歪さが、私には痛ましく感じられました。
王妃様の寝室に戻ると、私はすぐに暖炉に薪をくべ、火を熾しました。
真夏だというのに、部屋の中は地下室のようにひんやりとしています。
「失礼いたします、テオドラ様」
私は王妃様の背中に回り、数時間前にきつく締め上げたコルセットの紐を解き始めました。
シュルリ、と絹の擦れる音がして、テオドラ様が小さく「ほう」と安堵の息を漏らします。 重厚なベルベットのドレス、幾重にも重ねたペチコート、そして真珠の首飾り。
それら「王妃の鎧」を一枚ずつ剥ぎ取っていくたびに、テオドラ様は一人の華奢な女性へと戻っていきます。
最後に薄絹の肌着一枚になった王妃様のお肌は、透き通るような白さでした。 けれど、コルセットの紐の跡が、赤いミミズ腫れのように背中に食い込んでいます。 私はあらかじめ温めておいた蒸しタオルを、その痛々しい背中に当てました。
「……あたたかいわ」
テオドラ様が夢見心地で呟きます。 その背中には、黒い霧こそ見えませんが、代わりにどこか人間離れした、青白い燐光のようなものが揺らめいていました。
それは「海神の聖痕」。 彼女が人として生まれながら、魂の半分を海に持っていかれている証です。
その青白い光は、まるで深海の底に蠢く名もなき生き物が放つ誘い火のようでした。
指先でそっと触れると、そこだけ肌の質感が異なり、まるで真珠を砕いて埋め込んだような、硬く、それでいて滑らかな感触が指を弾きます。
人としての血が凍りつき、代わりに海神の魔力が脈動を始めている。そのあまりにも美しく、そして冒涜的な光景に、私は一瞬、息をするのを忘れて見入ってしまいました。
人であることをやめていく彼女を、私はただ、ぬるいタオルで拭うことしかできない。その無力さが、暗い悦びと共に私を蝕んでいきました。
私はタオルで背中をさすりながら、先ほど庭園で出会った銀の仮面の男――ユリウスの言葉を思い出していました。
『あんな人形に殉じて死ぬには、あんたは綺麗すぎる』 『逃げろ』
彼の言葉は、甘い毒のように私の心を揺さぶります。 この城にいれば、いずれ私も破滅に巻き込まれる。私の「目」が告げている通り、この帝国の命運は尽きかけているのです。 逃げるなら今しかない。 けれど。
「……セシリア」
不意に、テオドラ様が私の手首を掴みました。 氷水に浸したような冷たい指先。
「今夜は、香を強めに焚いてちょうだい。『夢違』を」
私は息を呑みました。
「夢違」は、幻覚作用のある強力な秘香です。これを使えば、肉体の感覚を遮断し、精神を深い夢の世界へ飛ばすことができると言われています。
それはつまり、彼女が今夜、地上の夫である国王陛下ではなく、夢の中にいる「真の恋人(海神)」に会いに行くことを意味していました。
「……お体への負担が大きすぎます。これ以上は、あちら側へ近づいては……」
「いいの。お願い、セシリア」
テオドラ様が振り返りました。 その瞳は、深の色をたたえ、切実な光を宿していました。
「この地上は、私には寒すぎるの。 あの方の腕の中だけが、私にとって唯一、息ができる場所なのよ」
その悲痛な響きに、私は言葉を失いました。 世界中の富と権力を手にしたはずの王妃が、現実のどこにも居場所がないと嘆いている。
彼女を生かしているのは、皮肉にも、彼女を蝕んでいる「呪い」そのものへの愛なのです。
私は無言で頷き、青銅の香炉に火を入れました。 立ち上る紫色の煙。甘く、重く、そしてどこか潮騒の匂いがする香りが、部屋に満ちていきます。
紫煙は渦を巻きながら、部屋の調度品を、そして眠りに落ちていく王妃様を包み込んでいきます。
私の鼻腔を抜ける潮騒の香りは、次第に現実の壁を溶かし、この閉ざされた寝室が静かに深い海の底へ沈んでいくような錯覚を呼び起こしました。
窓の隙間から差し込む月の光さえ、水面に反射する波紋のようにゆらゆらと青く揺れている。
ここは陸の上でありながら、既に『あちら側』に飲み込まれつつある聖域なのです。香りに誘われるように、王妃様の指先が、目に見えない誰かの手を求めるように虚空を彷徨いました。
「ありがとう……」
テオドラ様は寝台に横たわると、すぐに深い呼吸を始めました。 その表情から、先ほどまでの苦悶が消え、少女のように安らかなものへと変わっていきます。 きっと今頃、夢の底にある龍宮の都で、彼女は誰よりも愛しい人の胸に抱かれているのでしょう。
私は、眠れる王妃様の冷たい手を、両手で包み込みました。 私の体温が、少しでも彼女を繋ぎ止める鎖になることを祈って。
(逃げられません、ユリウス)
窓の外では、夜明け前の空が白み始めていました。 あの銀色の風のような自由な彼に、心惹かれないと言えば嘘になる。 けれど、この冷たくて寂しい手を、暗い海の底へ一人きりで放り出すことなど、私にはどうしてもできそうになかったのです。




