いつか、碧き海で
あれから、どれほどの月日が流れたでしょうか。
アージェント王国は、賢王ユリウスの統治のもとで黄金時代を迎え、そして彼が穏やかに世を去った後も、その繁栄は続いていました。
王都の片隅にある、静かな修道院。 私は、すっかり白髪の老婆となり、窓際のロッキングチェアに揺られていました。
膝の上には、分厚い革表紙の本があります。 半世紀をかけて書き上げた、私の生涯のすべて。
『赤き帝国の真実』と名付けた、世に出ることのない歴史書です。
「……セシリア様。お茶をお持ちしました」
若い侍女が入ってきました。彼女の屈託のない笑顔は、かつての私に少し似ていました。
彼女は、この本の中身を知りません。 世界中の人々にとって、ヴァーミリオン家は未だに「昔話に出てくる悪い魔女の一族」のままです。
けれど、それでいいのです。 憎しみの連鎖は、ユリウス様がその身にすべて引き受け、墓場まで持っていかれましたから。
「ありがとう。……これを、地下の書庫へ」
私は鍵のかかった箱を侍女に渡しました。
「この箱は、王家の『禁書目録』として封印しなさい。 開けるのは……そうね、海の色がもっと澄んで、人々が過去を許せるようになった時代にお願い」
「はい、承知いたしました。……大切なものなのですね」
「ええ。私の、魂の半分ですから」
侍女が去った後、私は窓の外を見ました。 今日は珍しく、海からの風がここまで届いていました。 潮の香り。懐かしい、鉄と硝煙と、そして深紅の薔薇の香り。
(……ああ、お迎えが来たのですね)
視界がゆっくりと白く霞んでいきます。 老いた身体から、重たい鎖が解けていくようでした。 私は目を閉じ、深く息を吸い込みました。
気がつくと、私はあの懐かしい甲板に立っていました。
足元には、磨き上げられた黒い床。頭上には、風をはらんだ真紅の帆。 ヴァーミリオンの旗艦「紅蓮号」です。 けれど、そこには血の跡も、戦いの傷跡もありません。
「……遅いじゃないか、セシリア」
マストの影から、呆れたような声がしました。
振り向くと、そこには若き日のトリスタン公爵が、気怠げにワイングラスを傾けていました。 その口元には、もう血の跡はありません。
「待ちくたびれたよ。お前が長生きするから、地獄の釜が冷えてしまった」
「あら。トリスタン様こそ、随分と顔色がよろしいようで」
「ふん。……酒が美味いからな、こっちは」
「セシリア!」
甲板の奥から、愛しい声が響きました。 テオドラ王妃様が、駆け寄ってきました。
その瞳は宝石のように輝き、腕の中には成長したルシアン王子が、銀色の小さな龍の姿で楽しげに宙を泳いでいます。
「テオドラ様……!」
「よく頑張ったわね、セシリア。 あなたの書いた文字、波の音に乗って、すべて届いていたわ」
彼女は私を抱きしめました。
その体温は、もう冷たくありませんでした。温かく、陽だまりのような匂いがしました。
「ほら、あの方たちも待っているわ」
テオドラ様が指差した先。 舵輪の前には、豪快に笑うバルバロッサ大公と、それを横目でたしなめるオクタヴィア大公妃の姿がありました。 さらに、その隣には――
「……よう。随分と待たされたな」
白銀の鎧を脱ぎ捨て、白いシャツ姿のユリウス様が、照れくさそうに立っていました。 彼は私に手を差し伸べました。
「ユリウス様……。あなたも、こちらにいらしたのですか」
「ああ。天国に行こうとしたら、門番に追い返されてな。 『お前の愛する女は、反対側へ行くそうだぞ』とな」
彼は悪戯っぽく笑いました。 かつて敵と味方に分かれ、殺し合った者たちが、今は同じ船の上で、穏やかな風に吹かれています。
そこには、赤も白もありません。 あるのは、激動の時代を懸命に生き抜いた、愛おしい魂たちだけ。
「さあ、行こうか。 物語の続きは、未来の子供たちが読んでくれるさ」
ユリウス様の手と、テオドラ様の手。 私は二つの温かな手に引かれ、歩き出しました。 船はゆっくりと、光り輝く水平線の彼方へ――永遠に続く、碧き海へと進んでいきます。
これが、私の物語のすべて。
愛と復讐、栄光と滅び。 そして、波の下に隠された、真実の愛の記録。
いつか、あなたがこのページを開く時。 どうか思い出してください。 かつてこの海に、不器用なほど激しく、美しく生きた人たちがいたことを。




