銀の野に降る赤き種
アージェント王国に、例年にない暖かな春が訪れた年のことでした。 私のお腹の中に、新しい命が宿りました。
「セシリア! 本当か、本当なんだな!」
報せを聞いたユリウス様は、次期国王としての威厳もどこへやら、子供のように私を抱きかかえて喜びました。その蒼氷の瞳に、歓喜の涙が浮かぶのを見たとき、私は王妃として最大の幸福の中にいるはずでした。
けれど、私の心の奥底には、冷たい霧のような不安が立ち込めていました。
(この子には……何色の血が流れるのだろう)
私の内側に宿った命。それは、アージェントの清らかな「白」と、ヴァーミリオンの呪われた「赤」が混ざり合った存在です。
あの日、レクイエム海峡に沈んでいったルシアン王子の姿が、脳裏をよぎります。
テオドラ様が命をかけて守ろうとし、そして海神へと捧げられた、あの悲劇の幼子 。
私が今、こうして新しい命を育んでいることは、死んでいったあの子に対する、残酷な冒涜ではないのか。そんな自責の念が、夜ごとに私を苛みました。
十月が過ぎ、王宮が産声に包まれたのは、月光花が満開の夜でした。
「おめでとうございます、セシリア様! 健やかな王子様です!」
産婆が抱き上げた赤子は、驚くほどユリウス様に似ていました。
アッシュグレイの柔らかな産毛、そして、父と同じ蒼氷の瞳。 私は安堵で震える手で、その小さな体を抱き寄せました。 けれど、その瞬間、私の「魔眼」が、赤子の瞳の奥に、ほんの一筋の「紅い光」が揺らめくのを見逃しませんでした。
それは「糸繰りの魔眼」の徴ではありません。
ヴァーミリオンの一族が代々受け継いできた、激しく、燃えるような「生の執着」の色。 この子は、アージェントの光を背負いながら、同時にヴァーミリオンの業をもその身に宿して生まれてきたのです。
「……名前を、決めていたんだ」
傍らに寄り添ったユリウス様が、愛おしそうに赤子の頬をなでました。
「『アルヴィス』。この国の古語で、『すべてを見通す者』という意味だ。君の美しい目と、この国の未来を守る知恵を、この子に託したい」
「……アルヴィス。素敵な名前ですわ、ユリウス様」
私は微笑みましたが、胸の内でこっそりと別の名を呼びました。
『ルシアン』。
海に消えたあの王子の名を、この子の魂のどこかに刻み込みたかった。
滅びた帝国と、生き延びた王国。その両方の記憶を背負うこの子は、いわば、二つの世界の境界線に咲いた、孤独な花なのです。
アルヴィス王子は、ユリウス様の慈しみを受けて、健やかに成長しました。 彼は賢く、慈悲深く、アージェントの民からも「希望の星」として愛されました。
けれど、彼が五歳になったある夜のこと。 寝かしつけようとする私の手を握り、アルヴィスは不思議なことを口にしました。
「……お母様。どうして、お母様の向こう側には、いつも雨が降っているの?」
「……雨?」
「ええ。とても深い、青い海の中で、誰かがずっと泣いている音が聞こえるの」
私は、息が止まるかと思いました。
私の「目」が、彼に伝染してしまったのか。
それとも、ヴァーミリオンの血が、彼に死者たちの声を聴かせているのか。
私は震える手で息子を抱きしめ、彼の耳元で囁きました。
「それはね、アルヴィス。……あなたが生まれる前に、世界を愛した人たちの、名残の音なのよ。怖がらなくていい。彼らは、あなたを守ってくれているのだから」
「……そうなの? だったら、僕、あの人たちのことも大好きになるよ」
無邪気に笑う息子の純粋さが、私の胸を激しく締め付けました。
この子は、私が書き記している『真実の書』の、最初の読者になるのかもしれません。
ユリウス様が築き上げた「白亜の平和」を、私が隠し持っている「深紅の記憶」で汚してはならない。けれど、あの方々が生きた証を、この子の中にだけは残しておきたい。
私は、アルヴィスの成長を見守る中で、ようやく自分の「生」を肯定できるようになりました。
私は、テオドラ様を裏切って生きているのではない。 あの方々の想いを、この新しい命の中に繋ぎ止め、次代へと運ぶための「揺り籠」になったのだ、と。
ユリウス様と、アルヴィス。
二人の「銀の王」に愛された日々は、私の人生の中で、唯一の、穏やかな陽だまりでした。
この子がいつか王冠を戴くとき、アージェントの風はきっと、ヴァーミリオンの残り香さえも、優しき調べへと変えてくれるに違いない。
私は、眠りについた息子の額に口づけをし、今夜もまた、地下の書庫へと向かいました。 愛する息子がいつか、この物語を読み、己の血に流れる「赤」の正体を知るその日のために。
テオドラ様、深海の揺り籠で眠るあの方へ、今の私の姿はどのように映っているのでしょうか。
あなたの愛したルシアン様を海へ還し、独り生き延びた私は、銀色の王との間に授かった新しい命を抱いております。
この子の蒼き瞳に宿る一筋の紅い光、そして耳元に届くという「深海の雨音」――。
それは、あなたたちが確かにこの世に生きた証に他なりません。
私はこの子を、滅びゆく赤と輝ける銀、その二つの記憶を繋ぐ「揺り籠」として育ててゆく覚悟でございます。
あの日見た地獄を、慈しみという光へ変えるその日まで、潮騒の彼方で見守っていてください。




