表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/37

銀の野に降る赤き種

アージェント王国に、例年にない暖かな春が訪れた年のことでした。 私のお腹の中に、新しい命が宿りました。



「セシリア! 本当か、本当なんだな!」



報せを聞いたユリウス様は、次期国王としての威厳もどこへやら、子供のように私を抱きかかえて喜びました。その蒼氷の瞳に、歓喜の涙が浮かぶのを見たとき、私は王妃として最大の幸福の中にいるはずでした。


けれど、私の心の奥底には、冷たい霧のような不安が立ち込めていました。



(この子には……何色の血が流れるのだろう)



私の内側に宿った命。それは、アージェントの清らかな「白」と、ヴァーミリオンの呪われた「赤」が混ざり合った存在です。


あの日、レクイエム海峡に沈んでいったルシアン王子の姿が、脳裏をよぎります。


テオドラ様が命をかけて守ろうとし、そして海神へと捧げられた、あの悲劇の幼子 。


私が今、こうして新しい命を育んでいることは、死んでいったあの子に対する、残酷な冒涜ではないのか。そんな自責の念が、夜ごとに私を苛みました。



十月が過ぎ、王宮が産声に包まれたのは、月光花が満開の夜でした。


「おめでとうございます、セシリア様! 健やかな王子様です!」


産婆が抱き上げた赤子は、驚くほどユリウス様に似ていました。


アッシュグレイの柔らかな産毛、そして、父と同じ蒼氷の瞳。 私は安堵で震える手で、その小さな体を抱き寄せました。 けれど、その瞬間、私の「魔眼」が、赤子の瞳の奥に、ほんの一筋の「紅い光」が揺らめくのを見逃しませんでした。



それは「糸繰りの魔眼」の徴ではありません。


ヴァーミリオンの一族が代々受け継いできた、激しく、燃えるような「生の執着」の色。 この子は、アージェントの光を背負いながら、同時にヴァーミリオンの業をもその身に宿して生まれてきたのです。


「……名前を、決めていたんだ」


傍らに寄り添ったユリウス様が、愛おしそうに赤子の頬をなでました。


「『アルヴィス』。この国の古語で、『すべてを見通す者』という意味だ。君の美しい目と、この国の未来を守る知恵を、この子に託したい」


「……アルヴィス。素敵な名前ですわ、ユリウス様」



私は微笑みましたが、胸の内でこっそりと別の名を呼びました。


『ルシアン』。


海に消えたあの王子の名を、この子の魂のどこかに刻み込みたかった。


滅びた帝国と、生き延びた王国。その両方の記憶を背負うこの子は、いわば、二つの世界の境界線に咲いた、孤独な花なのです。



アルヴィス王子は、ユリウス様の慈しみを受けて、健やかに成長しました。 彼は賢く、慈悲深く、アージェントの民からも「希望の星」として愛されました。


けれど、彼が五歳になったある夜のこと。 寝かしつけようとする私の手を握り、アルヴィスは不思議なことを口にしました。



「……お母様。どうして、お母様の向こう側には、いつも雨が降っているの?」


「……雨?」


「ええ。とても深い、青い海の中で、誰かがずっと泣いている音が聞こえるの」



私は、息が止まるかと思いました。


私の「目」が、彼に伝染してしまったのか。


それとも、ヴァーミリオンの血が、彼に死者たちの声を聴かせているのか。


私は震える手で息子を抱きしめ、彼の耳元で囁きました。



「それはね、アルヴィス。……あなたが生まれる前に、世界を愛した人たちの、名残の音なのよ。怖がらなくていい。彼らは、あなたを守ってくれているのだから」


「……そうなの? だったら、僕、あの人たちのことも大好きになるよ」



無邪気に笑う息子の純粋さが、私の胸を激しく締め付けました。


この子は、私が書き記している『真実の書』の、最初の読者になるのかもしれません。


ユリウス様が築き上げた「白亜の平和」を、私が隠し持っている「深紅の記憶」で汚してはならない。けれど、あの方々が生きた証を、この子の中にだけは残しておきたい。



私は、アルヴィスの成長を見守る中で、ようやく自分の「生」を肯定できるようになりました。


私は、テオドラ様を裏切って生きているのではない。 あの方々の想いを、この新しい命の中に繋ぎ止め、次代へと運ぶための「揺り籠」になったのだ、と。



ユリウス様と、アルヴィス。


二人の「銀の王」に愛された日々は、私の人生の中で、唯一の、穏やかな陽だまりでした。


この子がいつか王冠を戴くとき、アージェントの風はきっと、ヴァーミリオンの残り香さえも、優しき調べへと変えてくれるに違いない。



私は、眠りについた息子の額に口づけをし、今夜もまた、地下の書庫へと向かいました。 愛する息子がいつか、この物語を読み、己の血に流れる「赤」の正体を知るその日のために。




テオドラ様、深海の揺り籠で眠るあの方へ、今の私の姿はどのように映っているのでしょうか。


あなたの愛したルシアン様を海へ還し、独り生き延びた私は、銀色の王との間に授かった新しい命を抱いております。


この子の蒼き瞳に宿る一筋の紅い光、そして耳元に届くという「深海の雨音」――。


それは、あなたたちが確かにこの世に生きた証に他なりません。



私はこの子を、滅びゆく赤と輝ける銀、その二つの記憶を繋ぐ「揺り籠」として育ててゆく覚悟でございます。



あの日見た地獄を、慈しみという光へ変えるその日まで、潮騒の彼方で見守っていてください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ