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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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二人だけの鎮魂歌

王都の冬は厳しく、白い石造りの王宮は、冷たい棺のように静まり返っていました。


私は毎晩、暖炉の灯りだけを頼りに、ペンを走らせていました。




『ヴァーミリオン家、最後の当主マリウス。彼は愚かだったが、その愚かさは彼自身のせいだけではない。偉大すぎる父と弟に挟まれ、愛を渇望した孤独な道化だった』


『鉄の女帝オクタヴィア。彼女は悪女と呼ばれたが、誰よりも一族の結束を願い、自ら泥を被った母であった』



インクの染みは、私の涙であり、彼らの血の代わりでした。


書き進めるたびに、胸のつかえが少しずつ取れていく気がしました。


世間が彼らを怪物と罵れば罵るほど、私の原稿の中の彼らは、人間らしい色彩を取り戻していくのです。




ある嵐の夜のことでした。 部屋の扉がノックもなく開かれ、ユリウス様が入ってきました。


彼は泥酔していました。


いつもは整えられている銀髪は乱れ、美しい騎士服のボタンも外れています。



「……ユリウス様?」


「ああ……セシリア。まだ起きていたのか」



彼はふらつく足でソファに倒れ込みました。 その手には、空になったワインボトルが握られています。



「今日も……銅像の除幕式だ。『悪を討った聖なる剣』だとさ。 ……ハハッ、笑わせる。俺は聖剣なんかじゃない。ただの人殺しだ。  トリスタンも、テオドラ王妃も、俺が殺した。……俺が、君の大切な世界を燃やしたんだ」



彼は譫言のように繰り返し、そしてふと、私の机の上に積まれた羊皮紙の束に目を留めました。


「……なんだ、それは」


私は隠そうとしましたが、彼は素早く私の手首を掴み、書きかけの原稿を覗き込みました。


そこには、テオドラ王妃の最期の姿――海神への純愛と、狂気じみた聖性について記されていました。



「これは……」


ユリウス様の酔いが、一瞬で冷めたようでした。


彼は震える手で、一枚、また一枚とページをめくりました。 そこにあるのは、アージェント王国が流布している「公式の歴史」とは真逆の物語。 敵を美化し、讃える、許されざる反逆の書。



「……君は、まだ彼らに仕えているのか」



ユリウス様の声は、怒りではなく、深い悲しみに満ちていました。


「俺がどれだけ君を愛しても、どれだけ宝石やドレスを贈っても……君の魂は、まだあの冷たい海の底にあるんだな」


「はい」


私は嘘をつきませんでした。 彼の目を真っ直ぐに見つめ、答えました。



「私の半分は、あの方々と共に死にました。それは誰にも……あなたにさえ、奪うことはできません」



ユリウス様は、痛ましげに顔を歪めました。 そして、原稿の最後の方――私が「ユリウス・アージェント」について書いた章に目を落としました。



『彼は、冷酷な白銀の狼と呼ばれた。 けれど、その仮面の下には、敵の死を悼み、愛する者を守るために己の心を殺し続けた、傷つきやすい青年の素顔があった。 彼は英雄ではない。時代の奔流に流されまいと必死に舵を取った、一人の孤独な人間である』



彼は動きを止めました。 そして、原稿用紙の上に、ぽたり、ぽたりと雫が落ちました。 英雄ユリウスが、子供のように泣いていました。


「……君は、知っていたのか。俺の弱さを」


「ええ。あなたが誰よりも優しい人だということも」



私は立ち上がり、泣き崩れる彼の背中を抱きしめました。


敵国の王子。


私の故郷を焼き払った男。


けれど、彼もまた、この戦争の被害者でした。 勝者という名の重荷を背負わされ、一生「正義の味方」を演じ続けなければならない、哀れな囚人。



「書いてくれ、セシリア」


彼は私の手を取り、自身の頬に押し当てました。



「世界中が俺を英雄だと偽っても……君だけは、本当の俺を書き残してくれ。 弱くて、惨めで、君を愛することしかできなかった、愚かな男のことを」


「はい。……約束します」



その夜、私たちは初めて「共犯者」になりました。


この部屋の外では、彼は光り輝く英雄王であり、私は保護された令嬢です。 けれど、この部屋の中にある原稿の前でだけは、私たちはただの「傷ついた男と女」に戻れるのです。



彼は机の引き出しの奥から、鍵のかかる箱を取り出しました。


そして、書き上がった原稿をそこに仕舞い、鍵をかけました。



「この書物は、今はまだ世に出せない。出せば、新たな争いの火種になる」


ユリウス様は、その鍵を私の手のひらに乗せ、祈るように握り込みました。



「だが、いつか……百年後か、数百年後か。  人々が憎しみを忘れ、本当の歴史を知りたくなった時に、この箱を開けよう。  それまでは、これは二人だけの秘密だ」



「はい。……二人だけの、鎮魂歌ですね」



窓の外、雲の切れ間から月が顔を出しました。


その光は、もう冷たくはありませんでした。


かつて海上で見た月と同じ、優しく、すべてを許すような光でした。




ユリウス様は、私の膝に顔を埋め、久しぶりに安らかな寝息を立て始めました。


私は書きかけのペンを置き、彼の髪を撫でました。


白き檻の中にも、小さな温もりはありました。


私はこの温もりを守りながら、記憶の旅を続けていくのでしょう。 インクが枯れる、その日まで。




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