白き檻の鳥
アージェント王国の王都「ルミナス」。
風の精霊に愛されたこの都は、すべてが白亜の石で造られ、常に清らかな風が吹き抜ける美しい街でした。
ヴァーミリオンの帝都のような、鉄と油の匂いはしません。
ここにあるのは、光と、風と、そして眩しいほどの「正義」だけでした。
「……セシリア。加減はどうだ?」
王宮の離れにある、ひっそりとした庭園。
そこで花の手入れをしていた私に、ユリウス様が声をかけました。
彼はもう「王子」ではなく、次期国王としての執務に追われる身となっていました。
その背中には、国を導く重圧と、平和をもたらした英雄としての輝きがまとわりついています。
「はい、ユリウス様。 今日も風が……少し強いくらいに、心地よいです」
私は剪定鋏を置き、淑女の礼をとりました。
私の今の名は、ただの「セシリア」。
先の戦乱で故郷を失い、慈悲深いユリウス様に保護された、身寄りのない地方貴族の娘――それが、私に与えられた新しい仮面でした。
「そうか。……君が好きだと言っていた『月光花』の苗を取り寄せたんだ。 気に入ってくれるといいのだが」
ユリウス様は、不器用な手つきで小さな鉢植えを差し出しました。
彼の指には、ペンだこが出来ていました。かつて剣を握っていた手は、今は復興のための書類仕事に追われているのです。
「ありがとうございます。……大切に育てます」
私は微笑みましたが、胸の奥は冷たく凪いだままでした。
彼は優しい。世界で一番、私に優しくしてくれます。 けれど、彼は知らないのです。 この乾いた風が吹く都では、湿った海風を愛した花は育たないことを。 そして私もまた、この眩しすぎる「白」の世界では、呼吸をするだけで精一杯であることを。
その日の午後。 私は離宮のサロンで、メイドたちの噂話を耳にしてしまいました。
「ねえ、聞いた? 港で引き上げられたヴァーミリオンの船の話」
「ええ! 船の中に、人間の骨を埋め込んだ『呪いのエンジン』があったんですって!」
「怖い! やっぱりあの『赤の一族』は悪魔だったのよ。 テオドラ王妃なんて、毎晩赤子の生き血を啜っていたそうじゃない」
「ユリウス様が滅ぼしてくださって本当によかったわ。 悪は根絶やしにしないとね」
彼女たちは楽しそうに、そして無邪気に残酷な言葉を紡いでいました。
これが「勝者の歴史」でした。
誇り高きトリスタン公爵の戦略も、オクタヴィア大公妃の覚悟も、そしてテオドラ王妃様の純粋な愛も。
すべては「悪魔の所業」として塗り替えられ、嘲笑の的になっているのです。
「……違う」
私は唇を噛み締めました。 違います。あの方々は、そんな下劣な怪物ではありませんでした。 誰よりも愛深く、誰よりも悲しい人たちだったのです。
けれど、私には反論する権利がありません。
私は「ヴァーミリオンの侍女」ではなく、「保護された哀れな娘」なのですから。 真実を叫べば、私を生かすために嘘をついたユリウス様の立場を危うくしてしまいます。 私は、沈黙という鎖で自分を縛るしかありませんでした。
夜。 執務を終えたユリウス様が、私の部屋を訪ねてきました。
彼は疲れた様子でソファに座ると、私の膝に頭を預けました。
「……疲れたよ、セシリア。 議会の連中は、復興予算の分捕り合いばかりだ。 誰も、死んでいった者たちのことなど考えていない」
英雄の孤独。 彼もまた、勝者という虚しい玉座に縛り付けられた囚人でした。 私は、彼のアッシュグレイの髪を優しく撫でました。
「ユリウス様。……あなたは、立派な王になられますわ」
「君がいるからだ。 君さえいてくれれば、俺はどんな泥の中でも歩ける」
彼は私の手を握り、縋るように口づけました。 その唇は温かく、生きていました。
「いつか、ほとぼりが冷めたら……君を正式に妃として迎えたい。 誰にも文句は言わせない。俺たちは、幸せになる権利があるはずだ」
彼の言葉は、甘い毒のように私を蝕みました。 幸せ。 それは、海の底に沈んだテオドラ様たちを裏切り、私だけが享受してよいものなのでしょうか。
窓の外では、美しい満月が輝いていました。 かつて船上で見上げた月と同じはずなのに、この都の月は、あまりにも遠く、冷たく見えました。
(テオドラ様……。私は、間違っているのでしょうか)
ユリウス様の腕の中で、私は自分が「愛された人形」になっていくのを感じていました。
肉体はここにあり、温かい食事と寝床を与えられている。
けれど、私の魂はあの日の海に置き去りにされたまま、今も冷たい水底を彷徨っているのです。
私は、生ける亡霊。 白き檻の中で、さえずることを忘れた鳥。
「幸せ」という名の鳥籠は、戦場よりもずっと残酷に、私の心を殺そうとしていました。




