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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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嘆きの岸辺

戦いは、終わりました。


レクイエム海峡の激流は、数時間前の地獄絵図を嘘のように洗い流し、ただ青く、冷たく凪いでいました。


岸辺には、砕けた船の破片が打ち上げられていました。


それは、かつて世界を支配した「紅い帝国」の墓標のように、無残に散らばっていました。



私は、砂浜に座り込んだまま、動けずにいました。 濡れたドレスが重く、肌に張り付きます。


けれど、寒さは感じませんでした。 私の心臓は、海の中で一度止まり、まだ動くことを拒否しているようでした。



「……勝ったぞ! 我らの勝利だ!」 「ヴァーミリオンは全滅した! 世界は解放されたんだ!」



背後の丘から、アージェント兵たちの勝どきが聞こえてきます。


彼らにとって、今日は圧政からの解放記念日であり、歴史が変わった輝かしい日なのでしょう。


けれど、その歓声の一つ一つが、私の鼓膜を鋭利な刃物のように傷つけました。


「静まれ」


低く、けれど鋭い声が、兵たちの喧騒を一瞬で凍らせました。 ユリウス王子が、私を背に庇うように立っていました。



「死者を冒涜するな。  彼らは敵であったが、誇り高き戦士たちだった。……海へ祈りを捧げよ」


ユリウスは剣を収め、海に向かって深く頭を下げました。 兵士たちも、戸惑いながらそれに倣います。 彼は勝者として驕ることなく、散っていったトリスタン公爵やオクタヴィア大公妃へ、最大限の敬意を払っていました。


しばらくして、ユリウスは振り返り、膝をついて私の目の高さを合わせました。 その手には、毛皮の厚いマントが握られていました。


「……セシリア。これを」


彼は、震える私の肩にマントを掛けました。


それは、アージェント王家の紋章が入った白銀のマント。 敵であるはずの「白」が、私を包み込みます。


「なぜ……」


私の乾いた唇から、声が漏れました。


「なぜ、私を生き残らせたのですか。  


私はヴァーミリオンの侍女です。あの方々と共に、罪を背負って沈むべき人間でした」


ユリウスは痛ましげに眉を寄せ、泥と涙で汚れた私の頬を、親指でそっと拭いました。


「君は罪人ではない。  ……それに、テオドラ王妃は君を拒んだのだろう?」


私は息を呑みました。 彼は見ていたのでしょうか。あの海へ沈む瞬間の、王妃様の最後の拒絶と、愛を。


「彼女は君に『生きろ』と命じた。 ならば、それを守るのが君の務めだろう」


その言葉は、優しく、そして逃げ場のない鎖のように私を縛り付けました。


そうです。死んで楽になることは、許されなかったのです。 私は生きて、誰も知らない彼女たちの真実を、記憶し続けなければならない。 それが、生き残った者への罰であり、王妃様から託された最後の使命。



「……ユリウス様。あなたは、残酷な方です」


「ああ。俺は君の居場所を奪い、君の主を殺した男だ。 恨んでくれ。一生、憎んでくれて構わない」



ユリウスは、私を力強く抱き寄せました。 その腕の温かさが、悔しいほどに心地よく、私の凍りついた涙腺を再び溶かしました。


「だが、君を離さない。 君がどれほど俺を憎もうとも、俺は君を守り抜く。 ……それが、俺の愛し方だ」


その時、伝令の兵士が慌ただしく駆け寄ってきました。



「殿下! 本国への報告を!  ヴァーミリオン一族に勝利。これより生存者の捕縛に入ると伝えてよろしいでしょうか!」


兵士は、ユリウスの腕の中にいる私をチラリと見ました。 敵軍の生き残り。本来なら、捕虜として尋問されるか、処刑されるべき存在です。


ユリウスは、私を抱く腕に力を込め、冷徹な声で告げました。


「そのように。……ここには、俺が保護した一般市民がいるだけだ」


「は、はっ! 承知いたしました!」



兵士は敬礼して去っていきました。 ユリウスは、公的な記録から私の存在を抹消しました。 私はただのセシリアとして、この男の鳥籠で生かされることになったのです。


「行こう、セシリア。  ……風が、冷たくなってきた」



ユリウスに支えられ、私は立ち上がりました。 振り返ると、夕暮れの海は、血の色から深い藍色へと変わろうとしていました。 波の下の都はもう見えません。 私は、燃え尽きた灰のような体を引きずり、勝者たちの凱旋の列へと加わりました。



アージェント軍の天幕の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていました。


私はユリウスによって「保護された民間人」として扱われていましたが、彼は密かに私を、捕虜となったヴァーミリオン家の将兵が集められた広場の見える、幕舎の隅の陰へと招き入れました。



「見ておくがいい。これが、君が仕えた家の、最後の姿だ」


ユリウスの低い囁きに、私は息を殺して頷きました。 そこには、泥と血にまみれた豪華な軍服を纏い、鎖に繋がれたマリウス様の姿がありました。



「……母上も、テオドラも、誰もいないのか」


ユリウスから戦況の報告――オクタヴィア様の入水と、紅蓮号の沈没による生存者なしの報――を聞かされたマリウス様は、その場に力なく崩れ落ちました。 かつての傲慢さは微塵もなく、その目からは大粒の涙が溢れ、土にまみれた地面を濡らしていきます。



「そうか……。皆、逝ってしまったか。私を置いて、あんなに美しく……」


彼はしばらくの間、子供のように声を上げて泣きじゃくっていました。 その姿は、醜く、けれどひどく人間的でした。やがて、彼は震える手で顔を拭うと、ゆっくりと顔を上げました。その瞳には、私が初めて見る「覚悟」の色が宿っていました。



「アージェントの将よ。……いや、ユリウス・アージェント」


マリウス様は、重い鎖を鳴らしながら立ち上がり、真っ直ぐにユリウスを見据えました。


「私はヴァーミリオンの当主、マリウスだ。敗軍の将として、私の首は貴公らに差し出そう。処刑なり、晒し首なり、好きにするがいい。……だが、一つだけ願いがある」


彼は背後に控える、力尽き、絶望に沈む自軍の兵士や貴族たちを振り返りました。


「彼らはただ、私の命に従っただけだ。一族の狂気に巻き込まれただけの、哀れな羊たちなのだ。……どうか、私の命と引き換えに、彼らには寛大な処置を。故郷へ帰し、家族のもとへ戻してやってはくれないか」



その言葉に、周囲の捕虜たちからも、そしてアージェントの兵士たちからも、どよめきが起こりました。


あの臆病で、保身ばかりを考えていたマリウス様が、自らの死を賭して部下を救おうとしている。


ユリウスは無言で、その男の姿をじっと見つめていました。 やがて、ユリウスは静かに剣の柄から手を離しました。



「……ヴァーミリオンに、これほどの男がいたとはな。マリウス・ヴァーミリオン。貴殿の首、そしてその願い、確かに預かった」


「……感謝する」



マリウス様はふっと、憑き物が落ちたような穏やかな微笑を浮かべました。


その横顔は、一瞬だけ、亡きジークムント卿に重なって見えました。 彼は最後に一度だけ、私が隠れている幕舎の影の方へ視線を向けたような気がしました。



(ああ……マリウス様。貴方もまた、最後には『赤き一族』の誇りを取り戻されたのですね)


私は溢れ出る涙を止めることができませんでした。


狂気と略奪に塗れた一族の、それが最後に見せた、不器用で尊い「人間」としての輝きだったのです。



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