海の底の玉座
冷たく、暗いとばかり思っていました。 けれど、目を開けた私の目の前に広がっていたのは、太陽の光よりも柔らかい、蒼玉色の光に満ちた世界でした。
息苦しさはありません。体も羽毛のように軽く、痛みも恐怖も消え失せていました。 私は、海底に横たわっているはずでした。 しかしそこは、色とりどりの珊瑚が咲き乱れ、見たこともない魚たちが宝石のように舞い踊る、静寂の王宮でした。
「……起きたのね、セシリア」
鈴を転がすような、美しい声。 振り返ると、そこにはテオドラ王妃様が立っていました。 いいえ、もう「王妃」ではありません。 喪服のような黒いドレスは、白銀の鱗を織り込んだような神々しい衣に変わり、その背中には、海流そのものが羽衣のように揺らめいています。
そして何より、彼女の瞳。 光を失っていたはずのその瞳は、今は深海のすべての色彩を宿して、鮮やかに輝いていました。
「テオドラ様……。目が、見えるのですか?」 「ええ。すべて見えるわ。 あなたの悲しい顔も、ルシアンの笑顔も、そして……愛しいあの方の姿も」
彼女の視線の先、巨大な海溝の奥底に、山脈のように巨大な龍――海神が鎮座していました。 恐ろしいはずのその姿は、ここでは荘厳で、慈愛に満ちた守護神のように見えました。 ルシアン王子は、小さな銀色の龍となって、父親である海神の髭の間を無邪気に泳ぎ回っています。
「ここは、あの方の箱庭。 地上の誰も傷つけることのできない、私たちだけの永遠の都」
テオドラ様は、夢見る乙女のように微笑み、私に手を差し伸べました。 私はその手を取ろうとしました。 これでいいのです。私もまた、この美しい都の住人となり、永遠に彼女にお仕えするのです。
けれど。 私の指先が彼女に触れようとした瞬間、テオドラ様は優しく、しかし拒絶するように首を振りました。
「……だめよ、セシリア」 「え……?」 「あなたは、ここへ入ってはいけない」
彼女の瞳が、少しだけ悲しげに細められました。
「あなたは人間よ。土の匂いがする。温かい血が流れている。 ここは、冷たい血を持つ者(私たち)だけの場所」
「そんな! 私はあなたと共に行くと誓いました! 地上にはもう、私の居場所なんて……!」
「あるわ」
テオドラ様は、水面の方を指差しました。 遥か頭上、揺らめく光の向こう側。
「あそこで、愚かな男が一人、泣き叫んでいるのが見えるでしょう? ……あんなに大きな声で名を呼ばれては、ルシアンが起きてしまうわ」
彼女は悪戯っぽく微笑みました。 それは、私が今まで見た中で、一番人間らしく、美しい笑顔でした。
「セシリア。あなたは私への忠誠のために、命を投げ出してくれた。 だから、主として最後の命令を下します」
彼女は私の頬を両手で包み込み、額に冷たくて温かい口づけを落としました。
「戻りなさい。 そして、生きなさい。 誰も知ることのない私たちの『本当の幸せ』を、あなただけが記憶していてくれれば、それでいい」
「テオドラ様、嫌です! 私も連れて行って……!」
「さようなら、私の大切な友達」
ドォン!! 彼女が私の胸を軽く押した瞬間、強烈な奔流が私の体を包み込みました。 体が軽い泡になり、猛烈な勢いで海上へと押し上げられていきます。
「テオドラ様ぁぁぁッ!!」
私の絶叫は泡となり、遠ざかる海底の都へと吸い込まれていきました。 最後に見たのは、愛する海神の腕に抱かれ、ルシアン王子と共に幸せそうに手を振る、彼女の姿でした。 それは、地上のどんな王宮よりも満ち足りた、本物の「家族」の姿でした。
――ガバッ!!
「はっ、かはっ……!?」
肺に空気が流れ込み、焼き付くような痛みが走りました。 目を開けると、そこは眩しい太陽の下。 私は、波打ち際で泥まみれになって倒れていました。 寄せては返す波の音が、先ほどまでの静寂が嘘のように騒がしく聞こえます。
「……セシリア!?」
聞き覚えのある声。 濡れた砂浜を駆け寄ってくる、重たい足音。 抱き起こされた私の視界に、涙でぐしゃぐしゃになった白銀の騎士の顔が映りました。
「セシリア……! 息が、あるのか……!?」
ユリウスの腕の温もりが、冷え切った私の体を包み込みます。 その熱さが、私に残酷な現実を突きつけました。 私は、生きてしまったのです。 愛する主を海の底に置き去りにして、私だけが、この薄汚くて温かい地上へと吐き出されてしまったのです。
「う、うわぁぁぁぁぁッ!!」
私はユリウスの胸で、子供のように泣き叫びました。 それは、助かった喜びではなく、あまりにも深い喪失の涙でした。
海は、何事もなかったかのように青く凪いでいました。 ヴァーミリオン帝国は滅びました。 けれど、波の下には確かに都があり、彼女はそこで永遠に笑っている。 その秘密を知る者は、世界でただ一人、私だけが残されたのです。




