表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/29

深淵への婚姻

「セシリアァァァッ!!」

ユリウスの喉が裂けんばかりの絶叫が、レクイエム海峡の轟音を切り裂きました。 彼は傾いた甲板を、まるで重力などないかのように駆け上がってきました。 白銀の鎧は返り血で赤く染まり、その端正な顔は涙と汗でぐしゃぐしゃに濡れています。 かつて仮面の下に隠していた「氷の心」は溶け落ち、そこにはただ、愛する女を失うまいと足掻あがく一人の青年の姿がありました。

「来るな! 飛び込む気か! 馬鹿な真似はやめろ!」

彼は剣を捨て、手を伸ばしました。 その指先まで、あと数メートル。 けれど、その距離が永遠のように遠く感じられました。

私は、テオドラ王妃様をかばうように一歩前へ出ました。

「……来ないでください、ユリウス様」 「なぜだ! 船はもう沈む!  俺の手を取れ! お前だけは助けると言ったはずだ!」

ユリウスは泣いていました。 敵将である彼が、一族の敵である私なんかのために。 その涙だけで、私はこの先の永い時を、海の底でも幸せに過ごせる気がしました。

「嬉しいです。……でも、私は行けません」

私は首を横に振りました。

「あなたの国へ行けば、私は温かいパンと、花のある庭を与えられるでしょう。  でも、その温もりの中で、私は一生思い出すのです。  冷たい海の底で一人震えている、あの方(王妃様)のことを」

テオドラ様は、私の背中で静かに海を見つめていました。 彼女はもう、地上の男たち――夫である国王や、敵であるユリウスのことなど見てはいませんでした。

「セシリア。……もういいのよ」

テオドラ様が、そっと私の肩に手を置きました。

「あなたは生きなさい。あの銀色の騎士の手を取りなさい。  ……地獄へ行くのは、私一人でいい」

それは、悪役王妃と呼ばれた彼女が見せた、最初で最後の「主としての慈悲」でした。 彼女は、私を突き放そうとしたのです。 けれど、私はその冷たい手を強く握り返しました。

「いいえ、テオドラ様。  申し上げたはずです。私は、あの方のたった一人の共犯者だと」

私はユリウスに向き直り、精一杯の笑顔を作りました。 それは、かつて仮面舞踏会の夜、彼に向けた笑顔と同じだったでしょうか。

「ユリウス。……私を、忘れてください」 「セシリアッ!!」 「愛していました。……さようなら」

私はテオドラ様の腰を抱き、ルシアン王子と共に、船のへりを蹴りました。

身体が宙に浮く浮遊感。 ユリウスが必死に伸ばした指先が、私のドレスの裾をかすめ、空を切りました。 彼の絶望に染まった瞳が、スローモーションのように遠ざかっていきます。

(ああ、なんて悲しい顔をするの……)

次の瞬間。 冷たい衝撃と共に、視界が青一色に染まりました。

ゴボボボボ……。 泡の音が、地上の喧騒を遮断しました。 冷たいはずの海水は、不思議と温かく感じられました。 それは、母の羊水のように優しく、私たちを包み込んでくれました。

沈んでいく中で、私は見ました。 テオドラ様の身体が、淡い光を放ち始めたのを。 彼女が抱いていたルシアン王子が、赤子の姿から、小さな銀色の竜のような姿へと変わり、楽しげに母の周りを泳ぎ始めたのを。

『……おかえり』

声が聞こえました。 耳ではなく、魂に直接響く、深く、重厚な震動。 深海から、巨大な影が昇ってきます。 それは、山のように巨大な、けれど美しい流線型をした神の姿――海神リヴァイアサン

テオドラ様は、恍惚とした表情で両手を広げました。 重たいドレスが海流に揺らめき、まるで深紅の薔薇が咲いたようでした。

『愛しい人。……やっと、会えた』

彼女は、沈んでいくのではありませんでした。 還っていくのです。 誰からも愛されなかった孤独な王妃が、唯一自分を待っていてくれる、本当の夫の腕の中へ。

私はその光景を、ただ静かに見守っていました。 息が苦しくなり、意識が遠のいていきます。 水面を見上げると、太陽の光が揺らめいていました。 その光の向こうに、まだユリウスがいるような気がして、私は最期に一度だけ、彼のために祈りました。

(どうか、生きて。……私の愛する、銀色の狼)

私の意識は、そこで途切れました。 深紅の薔薇と、白銀の泡と共に、私たちは二度と戻らぬ深淵ふかくへと沈んでいったのです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ