深淵への婚姻
「セシリアァァァッ!!」
ユリウスの喉が裂けんばかりの絶叫が、レクイエム海峡の轟音を切り裂きました。 彼は傾いた甲板を、まるで重力などないかのように駆け上がってきました。 白銀の鎧は返り血で赤く染まり、その端正な顔は涙と汗でぐしゃぐしゃに濡れています。 かつて仮面の下に隠していた「氷の心」は溶け落ち、そこにはただ、愛する女を失うまいと足掻く一人の青年の姿がありました。
「来るな! 飛び込む気か! 馬鹿な真似はやめろ!」
彼は剣を捨て、手を伸ばしました。 その指先まで、あと数メートル。 けれど、その距離が永遠のように遠く感じられました。
私は、テオドラ王妃様をかばうように一歩前へ出ました。
「……来ないでください、ユリウス様」 「なぜだ! 船はもう沈む! 俺の手を取れ! お前だけは助けると言ったはずだ!」
ユリウスは泣いていました。 敵将である彼が、一族の敵である私なんかのために。 その涙だけで、私はこの先の永い時を、海の底でも幸せに過ごせる気がしました。
「嬉しいです。……でも、私は行けません」
私は首を横に振りました。
「あなたの国へ行けば、私は温かいパンと、花のある庭を与えられるでしょう。 でも、その温もりの中で、私は一生思い出すのです。 冷たい海の底で一人震えている、あの方(王妃様)のことを」
テオドラ様は、私の背中で静かに海を見つめていました。 彼女はもう、地上の男たち――夫である国王や、敵であるユリウスのことなど見てはいませんでした。
「セシリア。……もういいのよ」
テオドラ様が、そっと私の肩に手を置きました。
「あなたは生きなさい。あの銀色の騎士の手を取りなさい。 ……地獄へ行くのは、私一人でいい」
それは、悪役王妃と呼ばれた彼女が見せた、最初で最後の「主としての慈悲」でした。 彼女は、私を突き放そうとしたのです。 けれど、私はその冷たい手を強く握り返しました。
「いいえ、テオドラ様。 申し上げたはずです。私は、あの方のたった一人の共犯者だと」
私はユリウスに向き直り、精一杯の笑顔を作りました。 それは、かつて仮面舞踏会の夜、彼に向けた笑顔と同じだったでしょうか。
「ユリウス。……私を、忘れてください」 「セシリアッ!!」 「愛していました。……さようなら」
私はテオドラ様の腰を抱き、ルシアン王子と共に、船の縁を蹴りました。
身体が宙に浮く浮遊感。 ユリウスが必死に伸ばした指先が、私のドレスの裾をかすめ、空を切りました。 彼の絶望に染まった瞳が、スローモーションのように遠ざかっていきます。
(ああ、なんて悲しい顔をするの……)
次の瞬間。 冷たい衝撃と共に、視界が青一色に染まりました。
ゴボボボボ……。 泡の音が、地上の喧騒を遮断しました。 冷たいはずの海水は、不思議と温かく感じられました。 それは、母の羊水のように優しく、私たちを包み込んでくれました。
沈んでいく中で、私は見ました。 テオドラ様の身体が、淡い光を放ち始めたのを。 彼女が抱いていたルシアン王子が、赤子の姿から、小さな銀色の竜のような姿へと変わり、楽しげに母の周りを泳ぎ始めたのを。
『……おかえり』
声が聞こえました。 耳ではなく、魂に直接響く、深く、重厚な震動。 深海から、巨大な影が昇ってきます。 それは、山のように巨大な、けれど美しい流線型をした神の姿――海神。
テオドラ様は、恍惚とした表情で両手を広げました。 重たいドレスが海流に揺らめき、まるで深紅の薔薇が咲いたようでした。
『愛しい人。……やっと、会えた』
彼女は、沈んでいくのではありませんでした。 還っていくのです。 誰からも愛されなかった孤独な王妃が、唯一自分を待っていてくれる、本当の夫の腕の中へ。
私はその光景を、ただ静かに見守っていました。 息が苦しくなり、意識が遠のいていきます。 水面を見上げると、太陽の光が揺らめいていました。 その光の向こうに、まだユリウスがいるような気がして、私は最期に一度だけ、彼のために祈りました。
(どうか、生きて。……私の愛する、銀色の狼)
私の意識は、そこで途切れました。 深紅の薔薇と、白銀の泡と共に、私たちは二度と戻らぬ深淵へと沈んでいったのです。




