波の下の都
トリスタン様が命を賭して引き起こした爆炎が、ゆっくりと晴れていきました。
傾いた甲板には、奇跡的に生き残った一門の貴族や、奥の部屋に隠れていた女官たちが這い出してきました。
しかし、彼らの顔にあるのは生還の喜びではなく、極限の「恐怖」でした。
「来るぞ……! アージェントの兵が乗り込んでくる!」
「嫌だ、捕まったら何をされるか……! 男は首を刎ねられ、女は慰み者にされるぞ!」
「白い悪魔だ! 奴らはヴァーミリオンを根絶やしにする気だ!」
パニックに陥った彼らは、敵船が近づく音を聞くや否や、半狂乱で船の縁へと殺到しました。
「殺されるくらいなら、死んだほうがマシだ!」
「お母様、待って! 私も行きます!」
ザブン、ザブンと、重たい水音が連続して響きます。 美しいドレスを纏った貴婦人も、震える若君も、次々と暗い海へ身を投げ出していきます。
海面に広がった色とりどりの衣装は、まるで散り急ぐ花弁のようであり、同時に、恐怖に駆られた魚の群れのようでもありました。
そこには「誇り」などありません。あるのは、復讐者への原始的な恐怖と、絶望的な集団心理だけでした。
その阿鼻叫喚の中、オクタヴィア大公妃だけが、静かにその光景を見つめていました。
「……哀れだねえ」
大公妃は、半壊した手すりに寄りかかり、パニックで海へ飛び込んでいく人々を、冷ややかな、しかしどこか慈悲深い目で見下ろしました。
「彼らは『終わり』を選んだんじゃない。『恐怖』から逃げ出しただけさ。 ……けれど、責められはしないよ。私たちが彼らを、そうなるように甘やかして育ててしまったんだから」
大公妃は、懐から取り出した扇子を、パチンと優雅に閉じました。
そして、ゆっくりと私たちの方へ向き直りました。
周りで悲鳴が響き渡る中、彼女の周りだけ、時が止まったように静寂でした。
「セシリア。テオドラの手を離してはいけないよ」
「……はい」
「テオドラ。ルシアンをしっかり抱いておやり」
「ええ、お母様」
大公妃は、娘と孫の顔を、焼き付けるように見つめました。
そして、ふっと自嘲気味に笑いました。
「私たちが積み上げた栄華は、所詮は砂上の楼閣だった。 盗んだもので着飾り、他者を踏みつけて笑った。……だから今、こうして怯えて散っていく。当然の報いだ」
彼女は杖を捨てました。 周りの貴族たちが泣き叫びながら不様に落ちていくのとは対照的に、彼女は背筋を伸ばし、まるで舞踏会の会場へ向かうかのように、船の縁へと歩み寄りました。
「大公妃様……!」
私が声を上げると、彼女は振り返らずに手を挙げました。
「来るんじゃないよ。 ……私は先に行って、地獄の釜の蓋を開けておく。 先に飛び込んだ臆病者たちが、閻魔様の前で泣き喚いて迷惑をかけないよう、整列させてやらなきゃならないからね」
それは、一族を支配してきた「鉄の女帝」としての、最後の矜持でした。 彼女は、恐怖に突き動かされるのではなく、自らの意志で死を選び取るのです。
「ようやく海賊の妻に戻れた……。 あばよ、美しい地獄だ」
大公妃は、軽やかに身を躍らせました。 水音が一つ。 他の誰よりも気高く、そして静かな水音でした。
赤いドレスの裾が花びらのように開き、渦潮の中へ吸い込まれていきました。
オクタヴィア大公妃。
ヴァーミリオン帝国の影の支配者は、パニックに陥る群衆の中で唯一、最後まで「大公妃」であり続け、海へと還っていきました。
あとに残されたのは、私とテオドラ様だけ。 船の傾きはさらに増し、海水が足元まで迫ってきていました。
「……セシリア」
テオドラ様が、愛おしそうに海を見つめました。
その瞳にはもう、光だけでなく、絶望すら映っていません。
「見える? 海の水が、とても澄んでいるわ」
彼女の指差す先は、血と油で濁った汚い海です。 けれど、彼女には見えているのです。その向こう側にある、清らかな神の国が。
「東の国(陸)には、もう私たちの居場所はないけれど……。 西の海――波の下になら、極楽浄土があるのよ」
テオドラ様は、腕の中のルシアン王子に頬擦りしました。 王子は、不思議なことに泣いていませんでした。
彼もまた、自分がこれから行く場所を知っているかのように、キャッキャと無邪気に笑い、小さな手で海を指差しています。
「行きましょう、セシリア。 あの方が……海神様が、門を開けて待っていらっしゃる」
その時。 ドォォォン!! と船体が大きく揺れ、マストが折れて倒れました。 船の寿命が尽きたのです。
そして、風上から現れた白い影。 アージェント軍の旗艦が、瀕死の紅蓮号に横付けされました。
甲板に飛び移ってきたのは、白銀の鎧を血に染めた、ユリウス王子。
彼は剣を下げ、息を切らして私たちを見つめました。
その瞳は、復讐を遂げた喜びではなく、間に合わなかったことへの絶望に揺れていました。
「……待てッ!!」
彼の叫び声が、虚しく響きます。 もう遅いのです。 舞台は整いました。役者も揃いました。 あとは、幕を下ろすだけ。
私はテオドラ様の手を強く握り返しました。
王妃様の冷たい手が、今は震えていないことに気づき、私もまた、不思議と心が凪いでいくのを感じました。
(ああ、ユリウス。……さようなら)
私は愛する人に向かって、悲しく微笑みました。
そして、私たちは海へ向かって、最後の一歩を踏み出したのです。




