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悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~  作者: 秦江湖


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虚無の碇

開戦から数時間。レクイエム海峡は、文字通りの地獄と化していました。


トリスタン公爵の作戦は、あまりにも完璧で、そして残酷でした。



「来るぞ! 右舷、撃て!」



ドォォォォン!!


激流に乗って流されてくるアージェントの船団は、ブレーキの壊れた玩具のように為す術もありません。


こちらの射程に入った瞬間、待ち構えていた魔導砲の餌食となり、次々と木っ端微塵に砕け散っていきます。


海は白から赤へ。燃える船の残骸と、投げ出された兵士たちの血で、海峡はどす黒く染め上げられていきました。



「ハハッ、ハハハハ! 見ろ、ゴミのようだ!」



甲板で指揮を執るトリスタン様は、狂ったように笑っていました。


しかし、その口からは絶えず鮮血が溢れ出し、白いハンカチを赤く染めています。


彼の体内の「火」はもう限界を超え、命そのものを燃料にして立っている状態でした。



「……退屈だ。これでは戦争ではない、ただの掃除だ」



彼がそう吐き捨てた、その時です。


風向きが変わりました。 自然の風ではありません。


何千人もの魔術師が命を削って生み出した、「人工の暴風」です。



「――全軍、帆を張れ! 風に乗って空を飛べ!」


轟音の中でもはっきりと聞こえる、凛とした声。


敵将ユリウスです。


アージェント軍の残存艦隊は、激流に逆らうのを諦め、逆に背後からの暴風で帆を限界まで膨らませました。 そして、波の頭を蹴るようにして船体をジャンプさせ、「船ごと」こちらの甲板へ突っ込んできたのです。



「なっ……!?」 「特攻だと!? 狂っている!」



バリバリバリッ!! 木造船が私たちの鉄の船に激突し、互いの船体が砕ける音。 衝撃でヴァーミリオンの船が激しく揺れ、砲撃の手が止まります。 その隙を逃さず、砕けた敵船から白銀の鎧を着た騎士たちが、蟻のように乗り込んできました。


「斬り込めェェッ! ヴァーミリオンを皆殺しにしろ!」



もはや、大砲の撃ち合いではありません。


甲板の上で、剣と剣がぶつかり合う凄惨な白兵戦が始まりました。


こうなれば、数の暴力が物を言います。


10倍の兵力を持つアージェント軍が、津波のように押し寄せ、紅蓮号の護衛艦たちが次々と沈黙していきます。



「……チッ。やはりあのユリウスは、常識が通じないな」


トリスタン様は、目の前で味方の兵が斬り殺されても、眉一つ動かしませんでした。


窓から見ていた私の視界から、トリスタン様はその身を船内へと消しました。




ドォォォォン……!


激しい衝撃に、部屋の燭台が大きく揺れました。


「真珠の間」には、オクタヴィア大公妃、テオドラ王妃、そして私――セシリアが、死の静寂の中に座していました。



その時、重厚な扉が乱暴に蹴開けられました。



「……ようやく追いついたな、銀色の猟犬どもが」



現れたのは、トリスタン様でした。 軍服は硝煙と返り血に汚れ、その白い頬には魔力の過剰使用による亀裂――血のような紋様が浮かび上がっています。


けれど、その瞳だけは凍りつくような冷徹な光を放っていました。



「トリスタン。……状況は?」 オクタヴィア様が、微動だにせず問いかけました。



「最悪ですよ、母上。風の加護を受けた連中の足は予想以上に速い。すでに外郭の僚艦は制圧されました。この紅蓮号に接舷されるのも、時間の問題でしょう」


トリスタン様は自嘲気味に笑い、テオドラ様を一度だけ見やりました。



「テオドラ、覚悟はいいな。……我らヴァーミリオンの血を、あのような下劣な騎士どもの手で汚させてはならない」


「ええ、分かっているわ。……トリスタン兄様」


テオドラ様が静かに頷くのを見届け、トリスタン様は私の方を向き、冷たい声で命じました。



「セシリア。今すぐ衛兵を連れて地下牢へ行け。……あそこに転がっているマリウス兄上と国王陛下を、ここへ連れてくるんだ」


「……お二人を、でございますか?」


「ああ。あの無能どもをあんな汚い場所で死なせるのは、一族の恥だ。ヴァーミリオンとして、この紅蓮号と共に、地獄への供に加えてやる」



それは慈悲ではなく、血筋に対する彼なりの「呪い」のような誠実さでした。


彼は腰の剣を抜き、再び扉の方へと向き直りました。


その背中からは、先ほどまでとは比べ物にならないほどの、凄まじい魔力が立ち上っています。



「――時間は私が稼ぐ。母上も妹も、自らの手で美しく幕を引くがいい。 この私が、誰一人としてこちら側へは足を踏み入れさせない。……最後の一滴まで、私の命を使い切ってな」



「トリスタン」


オクタヴィア様の呼びかけに、彼は足を止めました。


「……見事な軍師ぶりだったよ。お前は、私の一番の誇りだ」



トリスタン様は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、子供のような無邪気な笑みを浮かべました。


「……皮肉ですね。死ぬ間際になって、ようやく家族らしい言葉を聞けるとは」


彼は一度も振り返ることなく、地獄のような戦場となっている甲板へと、踊るような足取りで消えていきました。





「――全軍、突撃! 敵将トリスタンの首を取れ!」


アージェントの騎士たちが、雄叫びと共に雪崩れ込んできました。


護衛の兵士たちが次々と斬り伏せられ、防衛線が崩壊します。


しかし、その銀色の波がトリスタン様へ殺到した瞬間でした。



「……近寄るな。汚らわしい」


トリスタン様が、鬱陶しそうに杖を横薙ぎに振りました。


その瞬間、空気が凍りついたような静寂が走り、次の刹那には、肉の弾ける不快な音と鉄錆の匂いが甲板を支配しました。


ただそれだけの動作で、不可視の衝撃波が五人の騎士を塵へと変えたのです。


かつて彼が、私に紅茶の淹れ方を教えながら「魔法とは、世界を自分に都合よく書き換える傲慢な指先のことだ」と笑っていた、あの美しい指先が。今は、迷いもなく命を蹂躙している。 飛び散った返り血が、彼の白い頬を紅く染め、それが奇妙に美しい文様のように見えてしまった自分を、私は呪わずにはいられませんでした。



「な、なんだと……!?」 「魔法だ! 奴はまだ魔力が残っているのか!?」


「魔力? ……馬鹿を言え。これは私の『寿命』だ」



トリスタン様は、ゴボリと大量の血を吐き出しながらも、凶悪な笑みを浮かべて一歩前へ踏み出しました。


その全身から立ち上るオーラは、蒼白く燃え上がり、周囲の空気を歪めています。



「来るがいい、羽虫ども。  このトリスタン・ヴァーミリオンが、直々に相手をしてやる」



そこからは、一方的な蹂躙でした。 斬りかかる騎士を指先一つで凍結させ、砕く。


背後からの奇襲を、水流の鞭で薙ぎ払い、海へ叩き落とす。


彼は一歩も動かず、ただ指揮棒を振るうかのように杖を操り、群がる敵兵を次々と鉄屑に変えていきました。


その姿は、軍師というよりは、戦場に降り立った死神そのものでした。



「はぁ、はぁ……。脆い、脆すぎる……!」



足元には、銀色の死体の山が築かれていきます。


しかし、敵の数は無限でした。倒しても倒しても、次から次へと新しい敵が湧いてきます。 そしてついに、トリスタン様の杖が、魔力の負荷に耐えきれずに砕け散りました。



「――っ!」



支えを失い、彼は膝をつきました。 限界でした。視界は霞み、内臓は焼き切れ、指一本動かすのも億劫な状態。


それを見たアージェント兵たちが、好機とばかりに殺到します。



「やった! 奴の魔力が尽きたぞ!」 「殺せ! 今度こそ殺せェェッ!」



切っ先が目の前まで迫ります。 しかし、トリスタン様は下を向いたまま、ククク……と低く笑いました。


「……手間が省けたな。よくぞ集まってくれた」



彼は最後の力を振り絞り、傍らにあった巨大な鉄の「錨」の鎖を掴みました。


本来なら人間が持ち上げられる重さではありません。


しかし、彼は命の残り火を筋肉に変換し、血管が破裂するほどの力で、その巨大な鉄塊を頭上へと持ち上げたのです。



「ひっ……!? な、何を……!」


「貴様ら、エンジンというものを知っているか?  ……衝撃を与えると、よく爆発するそうだ」



アージェント兵たちの顔が、恐怖に引きつりました。 トリスタン様は、死体の山の上で仁王立ちになり、その錨を高く掲げました。 その瞳は、勝者の優越感に輝いていました。



「ようこそ、アージェントの諸君。  ……地獄への片道切符だ。私が案内してやろう」



トリスタン様は、その全重量と全魔力を乗せ、錨を自身の足元――甲板の真下にある「魔導エンジン」めがけて、全力で叩きつけました。



ドォォォォォォンッ!!!!



鋼鉄が引き裂かれる音と共に、紅蓮号の心臓部が暴走し、太陽が爆発したような熱波が吹き荒れました。


トリスタン様は、迫りくる白光の中で、ニヤリと笑いました。



(――母上、テオドラ。まずはおさらば)



天才軍師トリスタン・ヴァーミリオン。


彼は、数百の敵兵と共に自らの体を深紅の炎と変えて海へと消えました。



後に残されたのは、心臓を失い、断末魔の叫びを上げて傾き始めた紅蓮号だけでした。




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