沈みゆく揺り籠
紅蓮号の船底から響くのは、魔導エンジンの重低音ではなく、もはやこの世の端を削り取るような、海神の呻き声でした。
レクイエム海峡。
死者の魂が還る場所へと進むにつれ、船内の空気は鉛のように重く、湿り気を帯びていきます。
壁の木材からは塩分を含んだ不気味な汗が噴き出し、松明の火さえも青白く、頼りなく揺れていました。
トリスタン公爵によって「仮初めの王」たちが牢へ放り込まれてから、数時間が経過していました。
私は、母上であるオクタヴィア大公妃からの命を受け、一振りの鍵と冷えた水差しを携えて、最下層の独房へと足を向けました。
「……セシリア、そこにいるのか」
鉄格子の向こう、暗がりに蹲っていたマリウス様が、掠れた声で私を呼びました。かつて帝都で虚勢を張っていた傲慢な姿は消え失せ、残されたのは、あまりにも脆い一人の男の成れの果てでした。
「教えてくれ、セシリア。お前のその『目』には、私はどう映っている? ……まだ、ヴァーミリオンの当主としての色が残っているか? それとも、ただの空っぽな男か?」
私は答えられませんでした。私の魔眼に映るマリウス様を包む霧は、漆黒ですらありません。
それは、自分の火で燃えることのできなかった者が放つ、湿った「灰色の煙」でした。
「マリウス!やかましいぞ!下賤なものに我らの言葉なぞ届くわけもない!人の言葉は猿に届かぬのと同じよ」
「黙れ!私は今、セシリアと話しているのだ!」
私は驚きました。あのマリウス様が国王陛下を怒鳴りつけたのです。
「なんだその口にきき方は!私は国王だぞ!国王!!」
「国王……。あなたの治める国はどこにあります?もうどこにもない……どこにもないのです」
マリウス様の言葉に、国王陛下は愕然として黙りこくりました。
もっとも認めたくない現実を共有しているはずのマリウス様に言われたからです。
マリウス様は私に向き直ると、静に語り始めました。
「……父上は太陽だった」
マリウス様は、汚れきった自分の掌を見つめ、独白を始めました。
「あの人の視界に入るだけで、肌が焼けるような熱を感じた。私は、それが誇らしく、そして何よりも恐ろしかった。兄上は高潔な光を背負い、トリスタンは冷徹な知略を武器にした。……だが、私には何もなかった。父上の影をなぞるための、厚いだけの金メッキと、虚飾の言葉以外にはな」
彼はガチガチと歯を鳴らし、鉄格子に額を押し当てました。
「私は、ただ父上に認められたかった……! あの烈火のような瞳に、一度でいいから『当主』として映りたかったのだ。だから強欲に振る舞い、民を虐げ、黄金を集めた。そうすれば、あの巨大な背中に届くのだと信じていた! ……だが、集めれば集めるほど、私は自分が空虚になっていくのを感じた。セシリア、私は……私はどうすれば良かったのだ? 凡庸な男が、神を自称する男の息子に生まれてしまった時、一体どう生きれば、正解だったというのだ!」
その悲痛な問いかけは、答えのない虚空へと消えていきました。
私は、彼を包む灰色の霧の奥に、怯えた子供のような魂が震えているのを見ました。
彼は悪人ですらなく、ただ「ヴァーミリオン」という重すぎる名に潰された、最初の犠牲者だったのかもしれません。
「……おいたわしいこと」
私は思わず、独白を漏らしました。それは侍女としての哀れみではなく、同じく呪われた血の傍らで生きる者としての、痛切な共感でした。
「お静かに、マリウス。あなたの声が、父上の眠りを妨げますよ」
背後から響いた冷徹な声に、私は息を呑みました。
いつの間にか、独房の入り口にオクタヴィア大公妃が立っていたのです。彼女は微塵も揺らぐことのない毅然とした立ち姿で、息子を――自らの腹を痛めて産んだはずの男を、凍てつくような目で見下ろしていました。
「母上……! 母上、お助けください! 私はまだ、当主として……!」
「マリウス。あなたが父上を超えられなかったのは、才能のせいではありません」
オクタヴィア様は、マリウス様が鉄格子から伸ばした手を、扇の先で冷たく払いのけました。
「あなたは、自分を愛することを忘れ、父上を憎む勇気も持てなかった。他人の色で自分を染めようとした瞬間に、あなたの魂は死んでいたのです。……ヴァーミリオンの男として死ぬのが嫌なら、せめて一人の人間として、己の空虚さを抱いて沈みなさい。それが、私がお前に教えられる最後のことです」
「……あ、あああ……っ」
マリウス様は喉の奥で獣のような声を上げ、再び暗闇の中へと崩れ落ちました。
大公妃は私に視線を向けると、一瞬だけ、その仮面のような表情を崩しました。それは悲しみというより、すべての「期待」を捨て去った者が浮かべる、凪のような絶望でした。
「行きましょう、セシリア。……もうすぐ、あの子が嵐を連れてきます。私たちは、私たちの役目を果たしに」
私は最後にもう一度だけ、灰色の霧に包まれた独房を振り返り、それから大公妃の後に続きました。




